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LGBTとカトリック

アイルランドで話題になってるニュースがあります。

停職処分を受けた学校の先生が、その決定に抗議するため毎日その学校に出没しているというニュース。

この先生が停職処分を受けたのは、「トランスジェンダーの生徒を”they”で呼ぶ」という学校の新しい規制に激しく反対したから。

事態が収まるまで教鞭を取ることを学校側から禁止されたにもかかわらず、その要請を無視し裁判沙汰になり、結果投獄までされました。
しかしそれでも諦めきれず、釈放後も毎日学校に現れることでストライキを起こしているのです。

そして、そもそもなぜ彼が頑なにこの新しい規制に反対したかと言うと、それは彼が敬虔なカトリックだから。

どちらが正しいかの二局的な善悪論ではなく、互いに信じているものが違う時、どうやって妥協点を見つけるのが平和的解決なのでしょう?

カトリックの教義

カトリックは基本的には、男女の自然法に反するという理由で、LGBTムーブメントには反対姿勢をとっています。

つまりこの問題はLGBTとカトリック教義の矛盾の問題。
アイルランドでは、カトリックであるこの教師を擁護する人々も少なからずいます。

補足しておくと、アイルランドの宗教分布では、カトリックが大多数を占めますが、その多くがノンプラクティスと呼ばれるあまり信心深くない人達。

信心深くないと言うと、聞こえが悪いかもしれませんが、大多数の日本人も特定の宗教を熱心に支持しているわけではありませんよね?

カトリックの教えを全て守るわけではないけど、一応洗礼は受けたしカトリックの行事はお祝いするよというのが、大部分のアイルランド人の宗教観です。

そのため、カトリック教義に反することでも時代に即することを受容する懐の深さがアイルランド人にはあります。例えば、アイルランドはヨーロッパ初の国民投票で同性婚が認められた国です。

しかしこのような動きは最近のもの。カトリック教義が近年まで強く根付いていた歴史も忘れてはいけません。

その最たるものが中絶法について。カトリックでは避妊・中絶は自然法に反するとして禁止されています。日本人には信じ難いでしょうが、アイルランドでは妊娠の中絶は2018年まで「違法」でした。
望まぬ妊娠をした女性たちは、中絶手術を受けるために、英国など近隣の外国に赴く必要があったのです。

theyという呼称

ノンバイナリーやトランスジェンダーは、He/Sheと性別を特定する呼称ではなく、Theyという性別不特定の呼称を使うことが増えてきました。

複雑な世界になってきたとの意見もありますが、言語が思考を形作る側面は否めないので、ノンバイナリーであるtheyを取り入れるのは合理的。

自分がどう呼ばれたいか、を主張する権利が個人にあり、学校側もそのような生徒の要望に応えた形で新たな学校の規則が定められました。

カトリックの教義に反すること

しかしこの先生は、その新規則に真っ向から反対。彼は敬虔なカトリックで、男女以外の性別は認められなかったのです。

私はこの事件を聞いた時、メリンダ・ゲイツを思い出しました。ビル・ゲイツの妻メリンダは慈善家としてよく知られています。

彼女の著者、『いま、翔び立つとき。女性エンパワーすれば世界が変わる』で語られているように、彼女には慈善家として行いたいことと、カトリックの教義との矛盾に苦しんだ経験があるのです。

多くの研究・調査から、「女性が計画的に妊娠できること」が、多くの母子の命を救い、貧しさを脱する手段のひとつであると結論づけられています。

そのためメリンダは貧困地域にて避妊手段の普及を目指すのですが、彼女は敬虔なカトリック。

避妊を否定するカトリック教義と、自分が信じる世界に貢献する方法が、相入れないことに苦しむのです。

悩んだ彼女がたどり着いた結論は、「自分の行動が良心に基づいたものかどうか、その良心はカトリックにより育まれたものであるかどうか」によるという視座を高めた考え方。

カトリックは避妊に反対する一方で、隣人を愛するよう諭しています。避妊を希望する女性に避妊の手助けをするとき、教義内で矛盾が生じてしまいます。

しかし彼女は自分の信じるものに矛盾が生じたときに、ただ目の前のルールに従うのではなく、その背後にある真理を重視し、啓蒙活動を続けます。
メリンダはもちろん、避妊や家族計画を各国で押し付けているのではありません。正しく状況や医学的事実を理解し、女性自身が避妊したいと望んだ時に、その手段に手が届くような環境を世界中に整備しようと働きかけています。

彼女の柔軟でかつ自分の信じるものを大切にする生き方に、私は感銘を受けました。

多様性を受け入れる懐の深さ

ヨーロッパは多種多様な人種・文化が混在しているため、多様性を受け入れる素晴らしい土壌があります。

自分の考えを他人に押し付けるのはNGという認識がある一方で、自分の意見を主張する自由があり、相入れない他人の信条も理解しようとする懐の深さがあります。

今回の事件はその柔軟さが見失われ、自分の信条ばかり優先させた結果だと考えます。
宗教の自由も多様性もどちらも尊重されるべきですが、それらが矛盾した時、どちらが正しいかではなく、一歩下がった見方が必要になるのではないでしょうか。
信じるものが違う時、その相手は愛すべき隣人にはなり得ないのでしょうか。

強い信念があるのは素晴らしいことですが、時の経過、環境の変化に対応しつつ、互いの意見を尊重し、自分も変化しながら生きることが必要だと思わせてくれる事件でした。


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