#660 外見で「個性」を出そうと思うほど、馬鹿ではない
私は以前の職場で、しばしば服装について注意を受けていました。
それは教員としてふさわしい服装なのか。
これは私が指導を受けた際に幾度となく問われた質問です。
教員の職業的な本質は、その外見にあらず、自分自身の内面であると考えていたからです。
一方、ある同僚にこんなことを言われたことも記憶しています。
『「自分らしさを出そう」「個性サイコー!」な風潮に、東大生が違和感を禁じ得ないワケ』という記事を見つけました。
記事の中では、多様性という言葉に紐づいた個性が、その内面よりも、外見的な要素と強く結びつくことによって、個性の意味を歪曲して捉えられるのではないかと指摘しています。
ここで自分でふと個性とは何かについて考える。個性はその人の内面であることには同意です。それは服装や髪型など外見的な要素とは全く関連しない。
ではなぜ私は自分が着たい服を着たいと思うのか。それは個性の問題とは全く別なのです。私は別に服装で個性を出したいとも思っていない。そもそも、服装で自分の本質的な個性が出るとも思っていない。
ただ、自分が着たい服を着る。そういう「自由」が欲しいのです。
髪を染めても、染めなくとも。アクセサリーをつけようと、つけまいと。
不必要な制限が、逆に、金髪を個性として認識させるようなことになる。
逆です。金髪なんてなんの個性でもない。
自由を得れば、人はより本質に近づく。
なぜなら、どんな髪型でも、どんな服装でも、どんなアクセサリーをつけていても
それが当たり前になれば
そんな外見は本質的な「個性」として定義されなくなる。
私たちが外見的な部分にもしこだわるのならば、それは個性を出そうとしているわけではない。どうでもいい呪縛からの解放を求めているだけなのです。
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