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カタクリ

近所には古くからの商店街がまだ残っている。
スーパーマーケットを中心に、魚屋、八百屋、クリーニング店、肉屋、和菓子屋などなどが軒を連ねており、夕方にはエプロン姿の主婦が買い物かごを片手に歩く姿が見られる。

この町は、起伏に富んだ地形に沿うように小さな戸建て住宅が密集している。なるように任せて住宅地を開発したのか、道はくねくねと複雑で、長く住んでいても、ぼうっと考えごとをしながら散策し、角を曲がると見慣れない景色が目の前に飛び出てきて、驚くことがある。

要するに、迷いやすいのだ。

この日も雑事やら何やらに疲れた頭を休めるべく、家を出て、宛もなくぶらぶらと歩いていた。もう陽が傾き、陽光の中に茜色が増してきたころ。どこからか夕飯の支度であろうか、煮物のいい匂いが漂ってくる。匂いに気をとられ、夕飯をどうするかぼんやり考えながら歩く。歩いている道なりに角を曲がったはずが、なぜか見慣れぬ街路に出た。

はて、ここはどこだったか。

幸いに通行人がいて、買い物帰りのビニール袋を下げているご婦人方が何人か歩いている。その手に下げたビニール袋に、近所のスーパーマーケットの店名が記されているのを確かめ、「あぁ、それなら知っている。近所のスーパーだ。まだそう遠くへは歩いていなかったのだ。」

安堵と共に、そのご婦人が歩いて来た道へ進む。

しばらく歩くと、土産物店の横に、しっとりと濡れた黒い石積の崖が目に入る。表面は水分をたっぷり含んだと見える黒い粘土質の土が覆っており、奥にある石は見えない。高さは二間ほどだろうか。
ここに、こんな黒い崖があったかと訝りつつ、この夕日の街に不釣り合いなほどに真黒に濡れた壁面は、とても艶かしく魅力的で目を引く。
よく見ると、太い蔓が数本上から垂れ下がっているではないか。蔓を掴んで、足を掛ければ登れそうと思い、童心に返り、ついつい蔓を手で掴み登り始めてしまった。

崖に近づき足をかけると、その足の側の黒い土から、白いカタクリの花が咲いているのを見つける。下を向き、可憐で、ひかえめ。この黒い崖とは正反対な存在に思われた。

気を取り直し、手で蔓をしっかと握り足をかける。が、崖はつるつると滑り、登りにくい。
それでも、えいやっと力を入れると、足が滑って、左足のサンダルがひょいっと崖の上へ飛んで行ってしまった。

さて、困った。

困ったが、仕方がないので、そのまま片足のサンダルだけで部屋へ帰ることにする。

土産物屋は客が少ないからか、商品に布が掛けられており、隙間から昔からの菓子や漬物の類と思われる箱が見えている。チェックアウトを済ませた後の、客のいない旅館のようだ。

いつもなら店先を覗きながら歩くが、サンダルが片足しかないのは気持ち悪く、足を止めずに進む。
土産物屋の横にある縁側のような板敷の床を歩いて行くと、今度は紅い絨毯張りの広い玄関に出た。帳場があり、着物姿の男が仕事をしている。
その玄関を横目に、さらに奥へ進むと、ほどなく私の部屋がある。

戸をくぐり、座敷に上がると、庭側の障子が開いていて、白髪混じりの落ち着いた仲居と、まだ年若いと思われる仲居が庭先にいた。
私の姿を認めると、「お戻りですか。」とにこやかに笑う。私は座敷に座るやいなや、先ほどの崖とサンダルの話を話すと、年配の仲居は大した事ないかのように若い仲居を見て頷く。若い仲居は恥ずかし気に頬を赤く染めならが、「あぁ、それなら。」と言い残し、出て行った。

中庭の芝生は青々とし、風はさわやか。庭木も手入れが行き届いていて、さぞかし名のある庭園と思われた。よく見れば庭師の男が数名、庭木の松の手入れに丹精している。

ほどなくして、若い仲居はサンダルの片方を持って帰ってきた。

丁寧な仕草で、片方のサンダルを中庭に続く玄関の黒い敷石の上に置く。

「あぁ、よかった。」と思い、私はサンダルを履き、「では、行ってきます。」とふたりの仲居に挨拶し、外へ出る。

年配の仲居はにこにこと会釈を返し、年若い仲居は笑顔のまま、恥ずかしそうに下を向きうつむいている。
私は、中庭の芝生を歩き、帳場のあった玄関とは別の、格子戸の門をくぐって外に出た。

すると、商店街近くの住宅地の路地に立っていた。

周りは、買い物帰りの主婦や、配達のバイクがせわしなく行き交い、旅館も門も芝生もなかった。

夕日と反対側の、遠くの薄青い空を見て思う。
そろそろカタクリの咲く山へ、温泉へ行かねば。

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