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憎さからかわいさへ《zaccanto》

 くそー、あいつめ。
 と、ときどき思ってしまうような人がぼくにもいる。その人に対して常は冷静なつもりだが、あるきっかけでその穏やかそうな水面がふっと怒りの沸点に達しそうなことがある。あるいは自分の中に燠のようなものを抱えていて、それが炎をあげそうになる手前でいつも抑えている。ぼくはなんとも煮えきらない生焼けの男である。
「若い頃は瞬間湯沸かし器と呼ばれた」ことを武勲のように話す老人を何人か見たことがあるが、どの人ももはや壊れた湯沸かし器でしかなかった。その人が怒っている場面に出くわすのは、蛇口を無意味にひねりすぎて水がドバドバっと出て、周りに水が飛び散って、
 もうやめてー
としか言いようのないただの迷惑だった。過去のつまらない栄光を見つめすぎてしょぼしょぼした目になり、余計周りが見えなくなるというのは因果なものよ、などと思ったものだ。
 猛暑日の続いたある朝、下の子を保育園に連れて行ったら、1歳か2歳の男の子が、戸外の水場で蛇口をひねって服をびしょびしょにしていた。微笑ましい光景だった。
 くそー、あいつめ、な「憎い」人も、聞こえてくる会話などを聞いているとかわいく思えることがある。そういうポイントを地味に積み重ねて、怒れなくなったりもするのだ。
 先日はその「憎い人」が電話で大声で話しながら、
「初沢さん、はじめての『はじ』に『さわ』って書いて初沢さん!」
というのが聞こえてきて、
「いや、初めてのはじ、って」
と。
「座るのすわ、とかいう?」
みたいな。頭のいいきっちりした人だと思うのだけど、ああ、ちょっと言葉を滑らせることもあるんだなと。あと、ある会話で、
「あの機械って軽油を補充せなあかんでしょ、それで初沢さんが軽油を買ってきて、補充したっていうけいゆがあってね」
なんて言っていて、
「という経緯ね」
と心のなかで訂正。軽油に引っ張られて経緯が舌の上で軽油になってしまうのがなんともチャーミングだった。その人はちょいちょい愛すべきおじさんになってくれるので、こちらとしてもいっときの怒りを引きずらずに済んでいる。ありがたい。
 つまらない怒りにとらわれてしまうのは損だ。怒りにまかせてことをしでかして、逮捕されていろいろ聞かれているときに、
「とゆうけいゆで」
なんて言っても遅いのである。
「灯油なんか軽油なんかはっきり言いやがれ!」
まだ若い瞬間湯沸かし器に熱い湯を浴びせかけられるなんてごめんだ。

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