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役に立つ研究



川原圭博(東京大学教授/mercari R4D, Head of Research)

 研究者なら一度は「あなたの研究は何の役に立つのですか」と聞かれた経験があるに違いない.文脈によっては,自分の仕事が何の役にも立たないと言われたような気がして,後ろめたい気持ちになってしまう.基礎研究に近い場合,こうした言葉に強く反発する人もいるだろう.とはいえ,研究活動は多かれ少なかれ,社会に支えられて可能になっている.用途を考えず取り組んだ研究であっても,何かの役に立てば嬉しいものである.

 かれこれ十数年前になるが,筆者は,印刷により製造できる使い捨て可能な紙ベースのセンサネットの実現方法を検討していた.偶然知り合った海外研究者とのディスカッションで出たボトムアップのアイディアで,特に用途は決めずに始めた.約5年かけ,紙の上にアンテナとセンサを金属インクで印刷し,東京タワーから発せられるテレビ放送電波を電源として動作する自立型センサを実現した.当時このプロジェクトは経済産業省系の団体から支援を受けた関係で,プロジェクトの終了までにこの技術の用途を開拓し,社会実装に結びつけるよう命ぜられた.

 この技術に最初に活路を見出してくれたのは,農家の方だった.当時米国では干魃が深刻で,農業用水に取水制限が課されていたのだ.農家は節水しながら収穫量を最大化したいので,低コストな土壌水分センサを探していたのだ.これがきっかけで,低価格土壌水分センサと水やりの自動化システムを製造・販売するSenSprout社の立ち上げに繋がった.さらに,このプロジェクトは「家庭用インクジェットプリンタを用いた簡便な回路印刷法」と言う派生的な成果も生み出した.特殊な設備なくさまざまな回路を手軽に実装できるため,多くの反響があった.この技術は,現在では環境に低負荷な電子回路製造を行うElephantech社の設立につながった(今,同社が製造した曲面パネル用のセンサを搭載した液晶ディスプレイを使ってこの原稿を書いていることは少々感慨深い).

 自然科学だけでなく人文社会科学の成果だって役に立つ.東京大学の地震火山史料連携研究機構では,歴史的史料に記された記録を元に当時の地震を分析する試みが行われている.筆者の兼任先のフリマアプリの開発・運営を行う企業の研究開発組織でも,最近,言語学の研究者をお迎えした.カスタマーサポートのコミュニケーションに日本語学の知見が活かせそうなのだ.

 研究者が自由な発想に基づいてボトムアップの研究をできる環境はきわめて重要だ.研究段階から自分の手がける技術がどのぐらいの価値と役割を持つかを予想することは難しい.だが,研究者一人ひとりが,より良い未来を作るという意志を持ち,社会に興味を持ち対話し,想像力を逞しくすれば,案外役立つ用途が見つかるものである.

(「情報処理」2022年10月号掲載)

■ 川原圭博(正会員)
 2005年東京大学博士課程修了.2019年東京大学教授.2022年mercari R4D Head of Research兼任.2018年本会理事.IoT・デジタルファブリケーションの研究に従事.2019年学術振興会賞.