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ただ一度のものが、私は好きだ。


淡路島に来て4ヶ月目に突入しようとしています。

昨年10月末に5年半勤めた広告代理店を一旦辞めて、地域おこし協力隊として淡路島へ移住しました。

退職エントリーなんて大それたものは書ける気がしないので、この5年半を振り返りつつ、なぜ淡路島で挑戦することにしたのか、綴ることにします。


博報堂に憧れた就活。最終面接で落ちて、補欠合格した不幸中の幸い。

まるで、一目惚れだった。
胸の高鳴り、頭から離れない面影、睡眠をも忘れてしまう没入感。

博報堂に、どうしても、入りたい。

高橋宣行さんの「博報堂スタイル」なるものを読んだ日から、私の夢は広告代理店で働くこと、それも博報堂で、という何とも具体的すぎる夢を持ってしまうことになった。

それまで、私の就職活動は難航していた。
今思い返せば、自分で自分を過大評価していた、というよりも、やりたいと思うことと、世間から求められていることと、うまく分別できていなかったのだと思う。

サンフランシスコでのインターンシップ経験もあり、グローバルな仕事をしたい(当時はボーダーレスに感動を生みたい、などと言っていた。恥ずかしい)と思っていたため、「食なら万国共通で行う行為だし、それなら、ぜってぇグローバルぢゃん!卍卍卍」と安直に考えて、応募していた。

しかし、いかんせん、上手くいかない。
そんなとき、何度も自己分析をしていくうちに、
人が楽しむ場をつくることが好きなんだな、と気づいた。
そんなとき広告代理店という業界と出会った。

その中に、どうやら博報堂という会社があるらしい。

当時、通い詰めていたルクア大阪の蔦屋書店で見つけた1冊の本。それが「博報堂スタイル」だった。
読んでみると、あまりにもおもしろくて、蛍光ペンが擦り切れるかと思うくらい、いつの間にか真っ黄色になっていた。

一念発起して応募することにした。

忘れもしない、エントリーシートの設問。
「あなたの思う、ちょっといい未来を考えてください」

課題が面白い。夢中で取り組んだ。

自分で納得できる案ができず、ほぼ徹夜をして書き上げたエントリーシート。
たしか、僻地のコンビニをコミュニティの機能も持たせて、見守りの役割や年代が混ざり合う公共の場にしよう、みたいなありきたりな案だったと思う。でも、自分で考え抜いて出た企画は、なんとも言えない達成感と高揚感が芽生えた。

そのエントリーシートを見せながらプレゼンすることが、一次審査だった。合格。小躍りした。

2次審査はグループワーク。
「CDを売る方法を考えてください」
というものだった。

12人くらいのグループワーク。
もはや戦場。全員がライバル。

私はいつもの通り、冗談を言いつつ、ファシリっぽい動きをしたような覚えがある。他人より面白いアイディアを出すことよりも、あーだこーだいいながら、他者と解に近づけていく中に本当の面白さがある。

後日、無事合格通知。飛び跳ねた。

いよいよ最終面接となるも、記憶がないほど緊張し、何を受け答えしたかもあまり覚えていない。
でも唯一分かったのは、落ちた、という哀しいまでの痛感だった。

心身ともに疲れてしまったのだろう。
その後、家で突如倒れてしまい、緊急搬送。
2週間入院を余儀なくされた。謎の発熱と発疹。夜は痒みで眠れなかった。
そんな時看護士さんが寝付けに来てくれて、優しく体をさすりながら、「よく頑張ったね」と言ってくれた。その言葉に涙が止まらなかった時、無理をしすぎていたことに気づいた。

そんな挫折がある中、
私は唯一奇跡的に1つの会社に合格。
しかしこれも補欠合格という、これまた難儀な話で、でも受かったことが本当に嬉しかった。

小さな会社だったが、
ある旅行系の広告代理店だった。

なんで、人は分かり合えないんだろう。

初めは、もちろん営業としての仕事。
地方創生バブルのおかげもあったが、
総額5000万以上の売り上げの案件を担った。2つとも新規顧客。自分が1件ずつテレアポをして、なんとか商談にこぎつけた。「なんか一生懸命頑張ってるから」という理由が9割で笑、お仕事を受注できたと思う。本当に本当にありがたいことだ。

まあ、それは必死で、正直あまり記憶がない。笑
でもわたしが好きな感覚をなんとなくは手触りを持って確かめられた大切な時間と経験だった。

伝統工芸品のプロモーション、林業の6次産業化、企業の周年プロモーション、誰もが知る国際会議の運営、など。思い出したらキリがない。

この時に出会った方々、お世話になった方々には、
頭が上がらないし、これから先もこの経験はずっと原体験として刻まれ続けると思う。

イベントが本当にうまくいかなくて、
撤収後に会場でひとり悔しくて号泣したこと。

国際会議の名札の国名を間違えて、
あわや国際問題に発展しかけたこと。

大勢いる前で、「あなたのやってることは意味があるんですか?」と理不尽に詰められたこと。

イベントで芝生が使えるはずだったのに養生中で、
泣きながら抗議したこと。

正直辛いことの方が多かった気もするが、
その分時たま訪れる暖かい出来事が、極寒の中手渡されるココアのように、じんわりしみた。

わたしがいる意味。わたしがいる意義。

自分がそれらを分からずに、仕事なんてしちゃいけない。そう強く強く誓った日々だった。

3年目、私は初めて人とあまりにも分かり合えない痛みを覚えた。

当時の上司とウマが合わず、
それはそれは大変だった。

今思えば、私が悪いところも沢山あったし、
どうしようもないやつだったと思う。

でも、やっぱり、否定され続けたのは苦しかった。
怒鳴るタイプの上司だったため、幼少期のトラウマもフラッシュバックしてなのか、会社にもいきたくなくなってしまった。

初めて、朝、布団から起きれなくなった。
電車でも涙が止まらない日々が続いた。

これは、もうダメかもしれない。

そんな時、1人の女性の先輩が「さいとうさんだけが悪いわけじゃないと思うよ。大丈夫。」と声をかけてくれた。

たった一言だったけど、私にとっては救いだった。
だれかが辛いとき、そっとそばに寄り添える人になろう、長いものに巻かれる人間にはならないと、強く誓った。

この3年間は、人生で最も濃い3年だったかもしれない。たくさん怒られて、泣いて、悔しくて。
でも絶対に必要な時間と経験だった。

期待より信頼が、人の原動力になる

4年目を迎えるタイミングで、
部署異動になった。

それは新設される、営業推進局、への異動。

いわゆるザ営業ではなく、
新規事業の創出や企画をする特殊な部署だった。

私が営業よりもそういった仕事が向いていると気づき、たった2人しか入れない部署へ100人以上の中から私を選んでくれた当時の局長には恩義しかない。
そういう運だけは何故かある。

3年目の私は、いつも怒られている人、
というレッテルが社内でも浸透していたことは分かっていた。

自分の中で、自分を変えるチャンスは、きっと今しかない。そう思った。

もう自分を抑えるのはやめよう。
嫌なことは嫌、好きなことは好き。

今思えば笑えるが、部署のキックオフミーティングで、「私はこの部署では建前で話すことはやめます」
と言い放ってしまうほど、気合が入っていた。
やばい4年目だ。笑

そこで気合が伝わったのか分からないが、
仕事はすごくやりやすくなっていった。

やりたいことは全部やってみたいです!と伝え、
基本的には全て挑戦させてくれた。
本当にありがたい部署だった。

例えばコワーキングスペースWeWorkへの入居。
社内で唯一入居させてもらえたことも大きかった。

そこでたくさんの世界を知り、
様々な企業の素敵な人たちと出会えたこと。
本当にここでの出会いは、私の枯れていた熱意の泉にたくさんの水を注いでくれた。

ものづくりの会社の方々とお話しすることが多かったのだが、誇りと愛を持って製品をつくり、責任を持って届けている姿は、とてつもなくかっこよかった。

そんな姿をみて、私ができることって何かないかな?とお節介に考えていった。

結果、新しいお仕事にもつながり、
ささやかに自信の土壌を耕せた。
携わっている方達に、ありがとうと言っていただけとことも相まって、自分も自信を持ってオススメできるものを届けられたこと、が嬉しかった。

さらに、ずっといつかお仕事したいですね、と言っていた尊敬する方からもひょっこりお仕事にお声かけ頂けたり。このお仕事は、半分実践型ワークショップのような感覚もあった。教えていただくことが多すぎて。
人の気持ちを観察して、企画する難しさ、楽しさを、たんと知ることができた。本当に本当に感謝しかない。

社内でも功績が認められて、インタビューしてもらいました✌🏻リスペクトするお友だちの北野さんもバッチリ。


これらは全て新しい企画と事業。ちゃんとお金を適切なことに使い、ゼロからイチを作る経験は本当にたのしく、身になりすぎるくらい身になった。

最終的には、あきらめないこと、考え抜くこと、そしてやり切ること、が前に進んでいく、当たり前すぎる哲学だと覚えた。

何より挑戦させてくれた上司には感謝しかない。
この女性の上司が、本当に愛に溢れた方だった。このときに、人を生き生きさせるには、相手を信じることが全てだと気づけた。

期待よりも、信頼。

人が輝く大切なことを教えてくれた。

こだわり抜いたら、淡路島だった。

5年目。組織編成が起こり、上司も変わってしまった。営業推進ではなくプランナーチームに姿形を変えた。ここでは、広告代理店のプランナーとして、めきめき鍛えられた気がする。一番代理店っぽい仕事をしていた。

で、とても嬉しかったことが。
10社コンペで勝ち取った、こちらの企画。

大きな東京の案件に初めてプランナーとして携わり、これだけ大々的なプロモーションにチームとして名を連ねられたことは本当に自信につながった。

5年半が経ち、いわゆる広告会社という世界に身を置くのか、プランナーとしてやっていくかどうか、を悩むようになった。
前述の実績もあり、プランナーとして少しずつ信用してもらえるようになり、自分もその実感があった。

夢にまでみた広告代理店のプランナー。それもプランナーは会社で4名のみ。プロモーションに携わる社員の母数を考えれば、自分の得意なこと、好きなことをさせてもらえる職はかなりラッキーなことだった。

そんな時ふと友人から、「これみゆちゃんにあいそう!」と連絡が来た。

それが地域おこし協力隊の求人だった。

あとで聞いて笑ったのだが、まさか正社員を辞めないと就けない仕事だと知らなかった、と紹介した当人は事の重大さを認知していなかったようだった。笑

求人をよくよく見ていくと、こんな言葉がひらりと置いてあった。

自分の可能性に挑戦したい人

何故かわからないけど、この言葉が無性に響いた。
そして初めて、わたし挑戦したいんだ、と気づいた。

何事も決断をするとき、色んなものを天秤にかけてはその微妙な誤差を見極めて、少しずつ決めていくと思う。

今回でいえば、現状の楽しさと挑戦のワクワクを天秤にかけた。そこで、本当に微妙に、微妙すぎるくらい微妙に、挑戦のワクワクが勝った。

私の性質上、自分で見て聞いて感じないと気が済まないので、淡路島へも何度か訪れた。

ただ決定的な理由は特に今聞かれても思い出せない。
なんとなく、ここは熱量のある、面白い人たちが集まってくる場なんだと、ミーティングを見る中でひしひし感じた。

5年半仕事をして感じたこと。
それは規模の大小はあまり重要ではなく、そこに誰かの本気が詰まっているかで、仕事のおもしろさは格段に変わるということだった。

違和感だったり、嫌悪感だったり。そういったものを排除するわけではなく、ちゃんとメモしていく。逆に感動したこと、本気になれたこと、も。

そういった一つずつのピースを並べたとき、こだわり抜いて出た答えが、淡路島で挑戦してみる、という解だった。

過去の自分が、
今の自分へ解を教えてくれた感覚。
人生そんなもんなのかもしれない。
だから今を一生懸命生きることが、全てだったりする。


そして周りの信頼する方に相談した時
「みゆうちゃんなら大丈夫」
と言ってもらえたことも本当に大きかった。

そして今、私は淡路島にいる。
日々目まぐるしいけれど、生きられている実感と幸福感に満たされる瞬間が度々ある。

朝日を見るだけで、海を見るだけで、風を感じるだけで、それだけでしあわせだと思える。

こうやって振り返ると、とてつもなく不器用だな私。笑
人間としてもまだまだ未熟だなと思うけれど、でもそれでも私は私にしかなれないし、この不器用さと付き合っていくしかないんだと思う。

たった一度のものが、私は好きだ。

これは同じ広告好きだった前職の上司から一言いただいた、カメラのコピー。

人生も同じ。たった一度だからおもしろい。

この一度きり、をどこまでおもしろくできるか、
それが私の人生のテーマかもしれない。


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