言葉のままで終わらない、言葉を届けたかった。
親指が勝手に動く。
仕方ないことだ、誰も悪気はない。
その文章がたとえ、何時間、何十時間、何百時間かけて書いた愛に溢れる言葉であろうと、人は興味が無ければ、容赦なく親指がひたすら上へ動いてしまう。
トドメに空高く画面上へとスワイプ!
バイキンマンがキランと空の彼方で輝くシーンを思い出す。
書き主が丹精込めて書いた言葉達は、
忽然と読み手の掌から消え去る。
読み手の記憶からも。
平安時代なんかは、墨をすり、手紙を書いて、
飛脚に届けてもらって、言葉を贈り、言葉を受け取っていた。
その時代から比べると、
言葉の重みは些か軽くなってしまったのか。
そうは思えない、
いや、そうは思いたくないと表現した方が正しいかもしれない。
言葉に、情報に、溢れかえるこの世の中だからこそ、もう一度立ち返りたい。誰に言っても叶わない願いだが、なぜか切なる願いのように、私は日々唱えている。
言葉はお守りのような尊い存在にもなれば、
時には呪いの如く頭の片隅にずっと居つく厄介な存在にもなる。
思い返してみても、
だれしもきっと1つは思い浮かぶだろう。
私であれば、
「みゆうちゃんはもっと自分の人生生きた方がいいよ」
これがお守りみたいなものだし、
「肌汚いから鬼ごっこ入れてあげない」
同じアトピーだった友人に対して、
小学生時代に同級生が放った言葉は、
呪いのように心に錆びついている。
良くも悪くもひとは意外に、
言葉を深く覚えている。
共通点は直接だれかから発された言葉であること。
どちらの言葉もなぜ私は、
こんなにハッキリと覚えているのか。
それは、圧倒的に自分へ一直線に向けられた言葉だと無意識的に判断し、受け止めているからだ。
これに、似た話が仏教の考え方にある。
そこにはこんな問いが。
「宿命をどう考えるか」
たまたま起こったことを、これは運命だ!と思える編集能力は、あくまで自らに由るため、どこまでいっても宿命は自らに由るものだ、という解だった。
つまり、この編集能力によって受け取り方が全く変わってくる。
「自分に向けられている言葉なのかも」
一瞬でもいい。
心のひだに、どこか引っかかるような奴でいたい。
パンの耳みたいに、
残したいけど放って置けない可愛い奴になりたい。
綺麗事とか、悪口とか、
そういう話じゃなくて。
稀有か大衆か、
善か悪かでもなくて。
そんなみみっちい話はごめんで。
ただ存在する事を赦される、
存在する言葉を届けたい。のかもしれない。
存在の在り方は自然でいたい。
不自然は画一的でいっぺん通り。
自然は不揃いで不器用で愛おしい。
不器用なことばでいいから、
自然な存在でいたい。
少しだけ自分のやりたいことが、
ちょっと見えた気がする。
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