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母も人間だと気付いた、あの日から。

わたしの母は、つよい。
控えめに言っても、つよい。

そう感じたのは、本当に最近になってからだ。

父は私が中学生から大学生の間まで、
ずっと東京で単身赴任の身だった。
帰ってくるのは月に3〜4日くらい。

つまり、私の幼少期から思春期の想い出は、
ほとんど母とともにある。

幼少期は子どもながらに母を笑わせたくて、ずっと変な顔をしたり、変な芸をしたりしていた。(おかげでおもしろいことが好きになったかも)

中学高校時代は毎日お弁当を作ってくれた。
部活に授業に全力投球できたのは、母のおかげといっても過言ではない。

ここで少し、私がまだ生まれていなかった頃の、
母の人生を話したい。

幼少期は、なかなかおもしろい。
周囲の推薦で、小学校で初の女性児童会長を務めた強者。
(私が言うのもなんだが)凛とした性格と端正な顔立ちを持つ美しさがあり、校門でファンがラブレターを渡しに待っている高校時代を送った持ち主だ。

出身は静岡、大学進学とともに京都へ、
そして父と出会い就職後、ほどなく結婚した。

結婚し、専業主婦となった母。
わたしは「呑気でいいなあ」なんて思っていた。

しかし、関西に来てから育児以外で彼女の楽しみや息抜きの時間はあったのかと、あることをきっかけに痛烈に反省した。

それは、4年前に起こった
母の入院だ。

その前年、わたしは就職活動中に心労が原因で体調を崩して1週間入院、また母の母である祖母が癌を患い、母が懸命に看病していた。(半年後祖母は息を引き取った。)するとその直後父が膀胱がんを患った。奇跡的に癌は消滅し、やっと落ち着いた時だった。

たぶんだが、母はだれかのために「心を削る」ことを続けていたのだろう。

そんなことが重なり続け、
過労のあまり自宅で倒れてしまったのだ。

「もう、疲れちゃった。ママ、死んじゃうかもしれない。」

と涙ながらに、病室のベッドで私の手を握りながらつぶやいたあの言葉を、
わたしはいまでも鮮明に覚えている。

私は泣いた。嗚咽しながら。

「ああ、私は何をしてたんだろう」と、
本当に悔しくなった。

なんでここまで辛さを抱えている母を、
助けてあげられなかったのか、と。

はずかしい話だが、その時初めて「母は母という役割を担っているだけで、わたしと同じ人間だ」と認識した。

その後、体調は回復し、
今は普通の生活を送っている。

母はいつ何時でも、
わたしが悩み相談(もはや相談をしなくても察される)的確なアドバイスを与えてくれたり、無償の愛を贈ってくれたりする。

価値観が違うことが原因で、ぶつかることもある。
でも、やっぱり母は偉大だと感じるし、つよいなと思う。
理想的なしあわせな家族には、私の家族はなれなかったけど、
それでも、母は母だし、大好きだ。

あれから4年。

よくよく振り返ると、わたしは母に、
まだまだ甘えっぱなしだなとも思う。
未熟だなとも思う。

いつかちゃんと、
まっすぐ感謝を伝えられる日が来たら、
「産んでくれてありがとう」と伝えたい。
「お母さんがお母さんでよかった」と伝えたい。

今はまだ恥ずかしいから、
ここで伝えさせてもらいます。


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※お相撲さんと呼ばれていた私(0歳)

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