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死にかけのお父さん役を演じた私は、最高にかわいくて、かっこよかったんだ。

6月は父の日だった。
(すっかり7月に入ってしまったけれど)

日本でよくある、商機を醸成するための、
かこつけた○○の日。

私たちは従順に純粋に、
その日をきっかけにプレゼントを贈り合い、
感謝を述べ合う。

踊らされていると言われれば、
それまでなのだが、私は嫌いでもない。

きっかけのひとつにはなるし、
それで誰かがハッピーになるなら、
いいお金の使い方にもなる。

今年はゴルフ好きな父に、ゴルフ用の帽子を買って贈った。
すると、自撮りの写メとともに「まあまあセンスええやん🌟」みたいな、
全然そんな素振りしていないのに、自分に好意を寄せていると勘違いしている男的な、上から目線のコメントのLINEが来た。

おじさんとは、なぜこうも素直になれない生き物なのか。
たぶんだが、素直さをどこかで落としてきている。
ヘンゼルとグレーテル的に、落してきている。

会社で部下とうまくやっているのか心配になってしまう。

まあそんな感じでディスってはいるのだが、
面白くもないギャグを送ってきたり、逐一生存確認をしてきたりと、
いわゆる構ってちゃんの父の一面は、嫌いではない。

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話は変わりますが、
父、というと、ひとつ苦い思い出がある。
わたしは中高時代女子校に通っていた。

先輩が演じる姿を見て一目ぼれし、
英語でミュージカルをする部活に憧れを抱き入部。

中学2年生の時、
初めて名前の付く役を演じられることになった。

演目は、チャーリーとチョコレート工場。
主役、ウィリーウォンカのお父さん役だ。

お父さん役をなぜ女性が、と思うかもしれない。
仕方ない、男がいない。学校に男がいないからだ。

私はというと、背も高いし「きゃぴ」系の女子でもなかったので、
きっと、ちょうど良いと選ばれたのだろう。

それはそれは、短い出演シーンだったのだが、
キャストの名前もあり、セリフもあることがただ嬉しかった。
1年前のお皿役と村人Aからは大躍進だ。

当時の部活は、演目を年に1度の文化祭で披露することがゴール、
そのために8か月位以上の練習を重ねて発表する。

私は数分しかないシーンを、
何時間もかけて一生懸命練習した。

シーンの内容はというと、
私演じる父が死にかけになっているところ、主役のウィリーが駆けつけて、
本音を初めて語り、長年抱いていた今までのわだかまりやお互いの誤解を解く、というもの。要は感動のシーンだった。

ただひとつ、気にかかっていることがあった。
当時付き合っていた(といえるのか分からないくらいウブな関係だったが)彼氏が、その演目を見に来てくれることになったのだ。

当時の私は、女性が男役を演じるなんて、
どう思われるか分からないとえらく躊躇していた。

当日まで、死にかけのおじいちゃんを演じる、とは到底言えず、
ちょっとした役で出るんだ~と確か言った気がする。
やはり、女性らしさがひとかけらもない役柄に、後ろめたさがあった。

だってですよ、初めての彼氏に、
男役で、それも死にかけのおじいさんを演じるなんて、言えますか?
いえ、言えません。言えなかった。
そんな確固たる自信が私にはなかった。

ただ、当時は一寸の光を持って、
自分の頑張っていること見てほしいと思い、
勇気を振り絞って公演に誘ってみた。

いよいよ本番。
シーンを無事に演じ切り、
先輩からは涙が出そうになったよ、なんてほめられて嬉しかった。

当日、演目が終わり、
彼氏を見つけて話に行った。

会いに行くと、如何せん、話しにくそうだった。
たしか大した感想はなく「おう」みたいな会話しか交わしていないと思う。

確かに、目の前に顔をしわのメイクでいっぱいにされた彼女を見ても、
たしかに「かわいい」なんて言える思春期男子はなかなかいない。

でも、やっぱり、ショックだった。

きっと男役を演じたことで、彼女としての魅力を感じてもらえない悲しさや、切なさみたいなものがこみ上げてきて、何とも言えない気持ちになった。いや、ただ恥ずかしかっただけかもしれない。でも、悲しかった。

そのあと、これがきっかけではないが、
連絡がだんだんと少なくなり、自然消滅的に彼とは別れた。

今思えば、些細なかわいい出来事ではあるが、
なんだかやっぱりその時の「切なさ」は胸に残っている。

でも、その時の私に声をかけてやりたい。

あんたはよくやった、
最高に輝いてたし、
とびっきり、かっこよかったし、かわいかったと。

そして堂々と、
「死にかけの主役のお父さん役を演じるんや」と言ってやれと。

顔をしわしわにしながら、ベットに寝ころび死にかけながら、
白髪にするスプレーを頭に振ってカチカチの髪に仕上げて、
お父さん役を演じ切っていた私は、
きっと「がんばる」という文脈においては、
とびっきりかっこよかったはずだ。

それを、何度も何度も無垢に練習していた私は、
きっときっと、かわいかったはずだ。

たぶん、こういう「かわいい」とか「かっこいい」の呪縛って、
いろんな場面でも起こっていることだと思っています。

女性なら趣味は料理であれば「かわいい」、
ボクシングであればなんか違う、とか。

また、その料理であればかわいい、みたいな固定概念すらも、
たまたま料理好きだった人を苦しめることだってある。

男性なら趣味は週末のフットサルであれば「かっこいい」、
ヨガや裁縫であればなんか違う、とか。

いやまて、そもそも、男はかっこよくて、女はかわいい、ってなんなんだ。
たぶんそういう、勝手にカテゴライズされた言葉の定義が、
無意識的に私たちを小さな硝子の破片を裸足で踏んだように、
じんわりと傷がついていく。

女だって、かっこよくていい、
男だって、かわいくていい、
両方持ち合わせてたっていい。混ぜ合わさっていてもいい。

お父さん役をやっていた15の私に、
「最高に、かわいかったし、かっこよかったよ」と26の私から伝えたい。


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