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不定期コラム・「世の中全員、障害者。」 vol.2

※現在公開中の映画「すばらしき世界」の本編内容にバリバリ触れる記述があります。お読みいただくのは各々の判断にお任せいたしますが、あーネタバレ読んじゃったよーーー、というお気持ちになる方は、鑑賞後にお読みいただくことをお勧めいたします。

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「すばらしき世界」映画の感想とネタバレ


先日、映画館で西川美和監督の「すばらしき世界」を観ました。作品のあらすじを説明するとバチボコ長文になるため、省略させていただきます。

本編鑑賞中は、長澤まさみさんが仲野太賀さんに言ったセリフ(超絶曖昧な記憶ですが「逃げるくらいなら最初から撮るな!」みたいに言って、カメラ投げつけるところ)が、

「中途半端な優しさがいちばん残酷なんだよ!」

って言っているように聞こえた。本当にそう思う。すごく印象に残るシーンだった。

あと、仲野太賀さんが役所広司さんの背中を流して涙ぐむところとか、ラストの泣くところとか、この人は本当に泣きのお芝居が胸に響くなあ、と、もらい泣きしました。

キムラ緑子さんの「空は青いんやで(ここも曖昧)」って言うところも素敵でしたね。この台詞がラストカットに繋がって。

と、ポイント的に “良い意味で” 印象に残った場面を挙げましたが。


役所さん演じる三上がやっとの思いで働けるようになった介護施設のシーン、おそらく知的障害がある「アベくん」という介護施設で働くスタッフが、同僚のスタッフにいじめられた後の施設内の、スタッフ同士の会話のやりとり。

そこで、私の脳みそは「映画」という “非現実” から、“現実” に引き戻されてしまいました。

以下、ざっくりとですが、セリフのやり取りを記載します。本当にざっくりというか間違った記述があれば本当にごめんなさいなんですが、本編観てないけどココまで読んじゃった!って人は、どうぞそっとブラウザを閉じるか、鬼の速さでスクロールしてください。読みたくない人はね。


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スタッフA「アベくんさっきからずーっと外にいて戻ってこないけど、なんかやったの?」

スタッフB「ああ、あいつ●●●号室の〇〇さんの入浴介助で、ちょっと〇〇さんの様子見てて、って頼んだのに、こいつ〇〇さん見てないでずーっとスマホ見てたんすよ。〇〇さんのリフト下がりっぱなしで、顔まで湯船に浸かって溺死寸前。だから怒ったんすよ。」

(ユミヲ心の声)「うん、そりゃアベくんダメだわ。その怒りを暴力に変えるお前もダメだけどな。」

スタッフA「三上さん、気付いてると思うけど、アベくん障害があってね…」

スタッフB「あいつ、いつもこんな感じで(アベくんのマネをジェスチャー)、言葉も何言ってっかわかんねーじゃん?」

他スタッフ、やめなよーみたいな感じで笑っている。三上、黙ってスタッフBを見つめる。

スタッフC「アベくんって確かココ来る前は刑務所にいたんだよね?何やったの?」

スタッフB「確か、バイク盗んだ?とかだったかな。」

スタッフA「うちって所謂いわくつきの人を雇ってるから…」

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↑このシーンもう少し台詞のやり取りがあるんですが、順番とか流れをハッキリ全部思い出せない。ここまでの流れを観て思ったのは。

「まだ、映画というツールを使って、障害者差別問題を提唱しないといけない世の中なのか。」

むちゃくちゃ偏った観方かもしれない。身内に知的障害者がいるから敏感に感じているんだよ、と思われても仕方がない。

でも、そう感じてしまうから、仕方がない。

私は弟のきよはるとの二人三脚の生活において、目標というか指標のひとつに掲げているのが

「私の心の半径1m以内の人だけでも、知的障害者に対する偏見がなくなればそれでいい。」

と思ってこの約10年過ごしてきた。キヨの体調(てんかん発作の持病あり)を考慮して、連れていけるところはどこでも連れていきたい。キヨは人が大好きだから、色んな人と仲良しになってほしい。その中でひとりでも、知的障害の人と関わりを持ったことがない人が、笑顔になってくれたらそれでいい。

そう思ってきたけど、私の心の半径1m以上外の世界は、まだまだそんなもんじゃなかった、という “現実”。映画というツールに突き付けられる、“現実” が、そこにあった。私の中には勝手に「絶望」に近い感情が生まれてしまった。

映画の中でこうした “現実” を目の当たりにすると、フラットに映画そのものを観られなくなってしまう。どうしても「絶望」が勝る。

外の世界はLGBTQに対する「多様性」とか、車いすユーザーへの「バリアフリー」など、あらゆる障害においては徐々に垣根を取り払われつつあるのかもしれない。

しかし、知的障害という垣根に関しては、まだまだ「関わり」だったり「理解」が足りていないのかもしれない。いや、足りていないのだ。足りていないからこそ、こうして問題提起に使われる。故の「絶望」だ。

勝手は百も承知だし、周囲の「面白かった!」とか「感動した!」という声に対して

「こんな偏った個人的感情を述べるのは、空気を壊してしまうだろうか…」

と、感想を言うのを躊躇してしまう。

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「JOKER」を観た後と同じ気持ち


2019年に公開されたホアキン・フェニックス版「JOKER」を観た時も、実は同じ気持ちになった。

先述いたしましたが、弟のきよはるはてんかん発作が持病としてあり、7~8年くらい前から「てんかん性笑い発作」に近い症状が見受けられるようになった。

見受けられる、というのは、長年お世話になっているかかりつけの脳神経外科の先生の

「かもしれないねぇ」

というふんわりとした見解。てんかん発作は眠っている状態で脳波測定をして、脳の波形の異常を調べられるものらしいのですが、うちのきよはるくんは大の医療機器嫌いが生じて、脳波測定ができないのです。とにかく寝てくれない。睡眠導入剤を飲ませてウトウトしたところに

「では始めましょうか」

と、おでこに吸盤をつけ始めたらガバッ!と起きてしまう。睡眠導入剤をも凌駕するとか、どんだけ嫌いなのよ…。

そんなこんなで検査ができなきゃ正式に診断名を下せない。だから、

「てんかん性笑い発作、かもしれません。」

という見解。

で、ホアキン版「JOKER」をご覧になった方はお分かりかと思いますが、以下Wikipedia作品ページのあらすじからの引用。

ジョーカーことアーサー・フレックスは “発作的に笑い出してしまう病気” によって精神安定剤が手放せず、定期的にカウンセリングを受けている。

冒頭のシーンは、アーサーがバスの中で突然笑い出してしまい、前に座っていた小さな女の子は後ろを向いて「??」という顔でアーサーの事を見ていますが、隣にいたお母さんがひと言。

「見ちゃダメよ。」

もう、私は映画の冒頭から “現実” に引き戻されてしまうわけです。

「これ、キヨと同じやん…」

俯瞰的には観られませんでした。鑑賞後、Facebookの個人アカウントで綴った映画の感想というか抱いた感情が以下です。

映画って“非日常”を味わうものでもあると思うんですが、私にとって「発作的に急に笑い出してしまう」って“日常的にそばにあるもの”なんですよね。
やはり、急に大笑いしてしまうとか止まらなくなってしまう、って、周りはみんなびっくりしますしね。なんだこいつ、って思うでしょうし。私も電車内で近くの人が急に大声で笑いだしたりしたら、声の大きさでびっくりするし。
例えば弟の笑い発作が電車内で出てしまった場合、ひとまず弟の意識がコッチの世界に戻ってくるように声をかけ続けているのと、現状すぐ近くに人がいる事がないのであまり周りの視線って気にしてなかったのですが、「ジョーカー」を観て
「ああ、やっぱりそうやっていぶかしげに見ている人もいるんだろうな」
と思いました。
世間に受け入れてもらえないアーサー(ジョーカー)の悲しき運命。
やはり、障害や病気を持つことは“悲しい”“かわいそう”と捉えられているのか。
時代設定としては80年代とのことなのでまだまだ様々な偏見があった頃かもしれない。でも。でもさ。
と、そこにフォーカスしてしまったがために、あの公衆トイレでのダンスも、長い階段でのダンスも、まったくと言っていいほど響かなかった。
私にとっては今その“悲しみ”に触れる、あえて映像で見る必要がなかったのかもしれない。これもひとつの感想でいいのかな、という結論に至りました。
しかしこれはもしかしたら自ら視野を狭めているのか。私は弟にもっと広い世界を見せてあげたい、と思いつつも、私自身が周りを見れてなくて自分の世界でしか生きられていないのだろうか。とも思いますが、この正解は私の中では「どちらも正解で、どちらも不正解」かもしれないので、ちょっと心の納戸にしまっておきます。
みんながなぜ、どんな風にアーサーに寄り添い、歓喜し、心を震わせているのか。私は未だにわからないままですが、いくつか拝見した感想の中には
「こんな世の中にしちゃいけないんだ」
というものをお見かけしたので、「ジョーカー」を観る事によってその先に暗闇からの出口の光が差し込んでいるんだな、とも思いました。

これが、私が「JOKER」という映画を観てまとめた感想、というより “感情の落としどころ”でした。

「すばらしき世界」を観て、今、同様に思っています。

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映画が掲げる「障害者との関わり」というテーマは「そこにまだ差別がある」ということ


私は結局、広い世界を見せたいと思いつつも、“自分の心の半径1m” という狭い世界でしか生きられていないのかもしれない。

「すばらしき世界」は、反社会勢力の一員として生きてきて、人生の大半を刑務所過ごしてきた主人公・三上が、出所して「今度こそは、カタギぞ」と誓い、一般社会との接点を持つため、生きていくために自分を変える “自助”、

身元引受人になってくれた弁護士さんとその奥さまの “互助”、

生活保護の手続きや就労支援などで力になってくれるケースワーカーさんの “公助”、

取材を通じて心を通わせるTVディレクターや、偶然にも生まれ故郷が一緒だった事で親身になってくれる近所のスーパーの店長の “共助”。

三上の心の半径1m以内の “包括” というか、あたたかい日常は、確かにそこにあった。それが彼にとっての「すばらしき世界」という事。なのだろうか。

私はこの映画のタイトルに、また確固たる意味を持てないでいる。

半径1m以上外の世界が、まだまだ「すばらしき世界」と言えないからだ。

でもきっと、それが答えなのかもしれない。とも思っている。

思えば、障害者との関わりをテーマにした映画は今に始まったことではない。昔からたくさんある。とかく昔からたくさん映画を観てきた人間ではないが、わかる範囲で「ギルバート・グレイプ(1993年)」「アイ・アム・サム(2001年)」「最強のふたり(2012年)」…ほかにももっとあるだろうが、約10年刻みでも必ず1本は出てくる。

という事は、だ。

何十年経っても、そこにまだ差別がある、という事。

なぜなくならないのか。

当事者と当事者家族、そうでない人たちが、歩み寄れていないからだ。

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“半径1mの世界”の増産と拡張


私は “当事者家族” に該当するので、当事者家族の視点で見解を述べます。狭い視野かもしれないけど。

どちらかというと “歩み寄り” が足りないのは、当事者と当事者家族なんじゃないか、と思っている。

その辺りの気持ちは過去の記事にも書いておりますが、

障害を持つ本人の身体的・内面的事情はあるかもしれないが、もう障害者が身を潜めて暮らす時代はとっくに終わっている。

きよはるは現在36歳。弟の世代の親の年齢は、おそらく50代半ば~70代以上といったところだろう。

うちの両親はOver 70。その世代ではまだまだ「生まれた子供が障害者である事を隠しがち」だったり、親のさらに親の世代が完全に目を背けていたり「障害がある=かわいそう」と言われていた。実際私も言われた事がある。

「障害者がいる暮らし」が “非日常” な世界を終わらせることは、もしかしたら私が生きている間は叶わないのかもしれない。ずっと先の未来がそうなればいいけど、少なくとも私が生きている間は無理だと思う。

でも、その世界を小さくても少しづつでも、“日常” に変えることができるのは、我々障害者家族なのではないか。

だから私は小さな半径1mからの世界でも、こうして発信し続けていこうと思う。

コロナ禍で色々難しい世の中ではあるが、キヨを連れて出かけられるところへは出かけたい。いい年した我々姉弟が仲良く手を繋いでヘラヘラしながら楽しそうに歩いたりご飯食べたり、誰かと握手しているところを、通りすがりの誰かが見てほっこりしてくれたり、身近な人や困っている人に手を差し伸べようと思ってくれたら。

その小さな輪を、少しでも多くの場所に残して、少しでも多くの人に広がっていけば。

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↑川島田姉弟、近影。キヨは写真撮るときピースしないんだけど、運良く3ピースが収まったイイ写真です。

ハードルがあるのは障害者だけじゃない。「私たちは健常者だから」と言うそこのあなただって、職場や家族間での対人関係だったり病気したり大変な事(ハードル)が沢山あるでしょ?という意味で、エッセイのタイトルは「世の中全員、障害者。」と言います。おススメ&サポートして頂けたら嬉しいです。