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海の子

窓の外からホトトギスの鳴き声が聞こえてきて、少しずつ浅い眠りから覚醒する。ホトトギスは春に鳴く鳥だと思っていたのだが、このあたりでは一年中鳴いているのでまるで季節感がない。ただ、朝になって明るくなると鳴くことが多いので、まあ、気分は爽快とまではいかなくても、それなりに気持ちがいいものだ。

 昨夜は布団を敷くのが面倒で、毛布をかけてソファで横になっていたらどうやら眠ってしまったらしい。いつものことだ。だらしがないのは学生時代から変わらない。
 カーテンを開けるとだいぶ日差しが入るようになった。真夏の引越しだったせいで、真冬は昼間でも日差しが入らないことに気づけなかった。目の前には大きな一軒家が建っている上に、部屋は一階だからなおさらのことだ。
 
 バナナを食べながら、深煎りのブラジル産珈琲豆を電動ミルに入れると、その香りに休日の時間の豊かさを実感する。
 週に一度の朝のランニングが習慣になっていた。
 フルマラソンをなんとか完走できた時はもう二度と走るものか、という気持ちでいたのだが、なんだかんだいって速くもないのに走るのが好きな性分であることに気づく。人はいくつになっても知らない自分に出会えるのかもしれないなどと思いながらランニングウェアに着替える。
 
 潮風を浴びながら海沿いの道を走り抜ける。ラブラドールレトリバーと散歩する人とすれ違い、サーフボードを自転車の横につけて海に向かう人とすれ違う。いつものコンビニで水を買ってクールダウンをしながら銭湯へ向かう。
 
 脱衣所で服を脱いでいると、同い年くらいのランニングウェアを着た女性が入ってきた。初めて見る人だった。
 入浴を終えて髪を乾かしていると、その女性が隣りにきて、
「朝ランって気持ちいいですよね」
とドライヤーを手に取った。
「最高ですね」
「ほんとに贅沢!」
「いつもここを?」
「いえいえ、ここは初めてなんです」
「そうなんですね」
 その女性の笑顔はどことなく読めない。感覚的に違うタイプだということは分かった。
「海の近くで羨ましいなあ! やっぱり海のスポーツもなさるんですか?」
「引っ越して来た時はやってみたんですけど、なんかこう、海に入る人たちとは息が合わないというか、今はもっぱら山派ですね」
「そうなんだあ」
「海のスポーツをなさるんですか?」
「ええ、ダイビングにハマってまして」
「ジャック・マイヨール?」
「そうそうあれです」
「素敵ですね」
「ありがとうございます。そうそうよかったら今度ランニング会にお呼びしてもよろしいですか」
ランナーというだけで距離が縮まるのにはそう時間がかからない。連絡先を交換すると、スマホの画面に『海』と出てきた。本名らしい。海好きの海さん。名は人を表すというが、そのまんまの人に出逢ったのは生まれて初めてだった。私の名前は薫だ。何か意味があるのでしょうか、なんて考えてしまう。
 
  #小説 #短編

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