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連投を終えた所感

こんばんは。今宵もお立ち寄り頂き、どうもありがとう。

昨日、コンマに因んだ僕の話が9度の投稿を経て終わりました(9ってどこか、コンマの形に似ていません?笑)。過去にあった面白いエピソードを綴る、ということは以前(音楽活動時代のブログで)もやっていたのですが、こんなに長い投稿になったのは初めて。カウントしてみると、何とこの九編で14,349文字を書いていました。400字原稿用紙に換算すると、36枚分にもなる。すごいなぁ、と自分で驚きます。

そんな長い文章を初めて書いてみて、感じたこと。それは月並みで恐縮ですが、「自らの記憶を辿りながら過去を文字に起こしていくという作業は、とても興味深い体験になり得る」ということです。

限られた時間を使って毎日投稿することを優先している以上、後から見直す文章は至らない点ばかりです(実はちょくちょく修正したりも)。もっとここの描写を膨らませたかったであるとか、自分の表したいことに忠実であるとはいえない、無難な言葉をあててしまっているだとか...。けれどそれはもう仕方ないので、とにかく数を稼いでいくしか改善する方法はないんだろうなと、割り切ることができています。

それでも、腕を組みディスプレイを睨みつつ、うーんと唸りながら文字を叩いていると、「そのエピソードの最中(さなか)にいた当時には至ることの出来なかった気づきをポーンと得る」…そんな体験があったんです。

「自分があの時こう動いたのは、こういうことだったのか」

そんな発見が心の凹凸部にガチャっとはまり、今の自分が有機的なアップデートを果たす。そんな感覚が何度かありました。これは「文字に起こすという作業を通じてでしか、得ることは叶わなかっただろう」とそんな確信を持つほどの強い感覚であり、今回の連投のおかげで、文章を書くという作業を再開してよかったなぁと早々に感じることができました。

それと、もうひとつ感じたこともあって。それは「事実をなぞる」という縛りからこそ産まれる、窮屈感でした。今回僕がやったこと(あるいは今までずっとやってきたこと)は、あくまで「僕の身に実際に起きたことを出来るだけ読みやすく言語化する」という、体験を物語化するという明確な目的に基づいた作業です。すでに僕自身の体験という「答え」は存在しているのであって、そこから新たな物語が立ち上がることはない。まさにこの部分に、僕は今回初めて窮屈さというものを感じ、同時に可能性を感じました。

「僕は体験を語ることはできるが、物語を立ち上げることは出来ない」

皆さんは、自分の脳内だけで定番と化している、自身に向けた口癖ってありませんか。僕は上に書いたことをなぜか長年ずっと反芻していて、創作というものに自分は縁がないものだと思い続けてきました。

ただ今回感じたことは、仮に僕がゼロから物語を立ち上げることが出来ないとしても、純粋なる創作を手がけるには及ばないとしても、「準創作」?ならばきっとできるのではないか、ということでした。

例えば物語のきっかけや始まりは、実際に僕や誰かの体験から取ってきてもいいかもしれない。例えば僕は、大学の進路に迷いつつも結局、地元の大学に戻ってくることになった。これは事実であり、僕自身の体験です。ただそこで、迷った結果として九州に行った、という物語が立ち上がってもいいはずだと。僕のいう「準創作」とは、そういう意味です。もしゼロから何かを生み出せなくても、実際の体験や聞いた話を参考にして、実際に起きた事実とは異なる物語を立ち上げることは出来るのではないかと思いました。

この一週間、過去を辿り文字へと起こす作業の中で、「なぜここで登場する自分に九州を選ばせられないんだろう」と、そんなことを窮屈に感じ、「もし連れていったとしたらどうなるんだろう」という可能性を感じていたというわけです。

今後どんなことを書くのかは決めていませんが、今回の経験を糧に、また日々せっせと手を動かしていきたいと思います。

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