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13年間できなかったことが、たった10分でできるようになった話【ライターさとゆみさんのコラム講座がすごかった】

前置き1(物書きとしての欠点、とまでは言わないけど課題)

独立して13年になります。

2007年に会社を辞めて、フリーの物書きになり、以来、恋愛コラムやコミュニケーションにまつわる実用コラム、たまにエッセイや小説を書いてきました。

書籍デビューをしたのが2010年なので、今年はデビュー10周年になります。

その間ずーっと、僕が抱えていた課題があります。それが「自分のことを書くのが苦手」ということ。ブログ、ツイッター、連載コラム、どれをとっても自己開示をするのが苦手。

もっと自分を出せばいいのに。

もっと日々の生活について書けばいいのに。

家族や日常についてのエッセイを読んでみたい。

そう言われ続けた13年間でした。

主宰している文章教室では「自分らしい文章を書きましょう」「生々しいエピソードを読みたい」などと言っておきながら、自分は苦手。

書けない理由は分かっていて、「恥ずかしいから」。こうやってカミングアウトしていることすら恥ずかしいですが、今日は書きます。

これぐらい勢いをつけないと、自分のことを語れない。自意識過剰というか。カウンセラーぐせがつきすぎているというか。

それでも。

それでもかろうじて、物事を見る視点だけは自信があった。むしろどうやって切り取るかの切り口だけでやってきたと思ってます(周囲の評価はさておき。根がコラムニスト体質なんだと思います)。

自分のことをわざわざ語るまでもないだろう。僕の物の見方に、僕という人間が表現されているんだから、それで判断してくれればいい。それでファンになってくれたらうれしい。僕自身のこと、生活のあれこれはどうでもいいじゃないですか(照れ照れ)。

そのくせ、憧れはあったのです。自分のことをうまく伝える人に。

自分の身のまわりのことを上手に切り取り、共感性をもって伝える。書き手の顔が見えるし、人柄が伝わるので、ファンも多い。そういうエッセイストというか、書き手というか、そういう人への憧れは、人一倍ありました。そういう人の方がかっこいい、とも。

書きたい。でも書けない。恥ずかしい。書き方も分からない。

僕がこれまで出してきた書籍も、最初のうちは自分だけでコツコツ執筆していたのですが、途中からはライターさんや編集者さんと対話しながら書くスタイルにしたのは、そのほうが面白くなるからでした。

自分だけで書いていると、自分の色を出すことを躊躇する。おしゃべりしている分には、いい意味で不用意に自分のことを話すので、それがコンテンツとして採用される分にはOKを出せる。客観的に脚色・添削・校正もできる。でも、自分だけでやっていると、どうもディフェンシブでいけない。

でも、できないことは仕方ないよ、これが自分の生きる道だ、べそべそ、くよくよ。

そんな13年だったわけです。

ところが、つい先日、そんなモヤモヤがすっと氷解するような体験をしたので、そして、そのおかげで、自分のことを上手に出す・書くための枠組みを授けてもらったような気になったので、その勢いで、学んだことを自分に定着させるためにも、このようにnoteにまとめています。

前置きが長くなりました。

さとゆみさんのイベントで学んだこと

先日、ライターのさとゆみさんのイベントにお邪魔したのです。

https://radiotalk.jp/talk/411356

さとゆみさんは、その知性といい、ストイックな書き姿勢といい、ユーモアと優しさのハイブリッドセンスといい、日ごろから尊敬している物書きの方です。

実際にお仕事をしたこともあるし、彼女の書くコラムは愛読してます。ちなみに業界内で顔も広い。

プライベートでおしゃべりをすると、その中身の濃さに感動しつづけ、それになんとか応じているうちに(あるいは一方的に質問し続けるうちに)、すごく自分が見識豊かな人間になったような気持ちになれて(錯覚)、あっというまに3時間経っている。そういう方です。

で、その彼女が、radiotalkでトーク番組をやっていて、そのオフ会がある、ということで参加してきたのです。

さとゆみさんの話をライブで聞ける機会があれば、迷わず行くことにしています(以前、さとゆみさんが書いた女性のヘアスタイルに関する本の出版イベントにも行きました。女性ばかりの会場で『何しに来たんですか?』感が半端なかったです。僕は気にしないんですけど)。

さて、そのイベントでは、いろんな話が出たわけです。手元のメモを元に抜粋すると(僕の目線でアレンジされてます。さとゆみさんの言ったことそのままではありません)、

・自己紹介3分を聞いて、1分で他己紹介するワーク。→「これがライターが取材で行うことや!」

・情熱大陸の音楽を頭の中で鳴らしながら書くこともあるで!(脳内でその作品になりきる)

・コラムは意見、帰着点、提言、目的がある。エッセイは散文。結論がなくていい。どちらも、読んだ人の意識・行動を変容させることが目的。「読後のホイッスル」

・考えるは気体、話すは液体、書くは固体。高密度に考え尽くして結晶化するのが書くことのエクスタシー

・「私たち」という主語を使うテクニック、その場面

・共感は表面的には作れない。自分を掘り下げ続けることで、奥の方でつながり合うのが真の共感

・考えっぱなしはもったいないから書く。そのままでもいいけど、SNSに上げるのは書くものの質をハードルを上げるため、そのプレッシャー用。自分に圧をかけるためにSNSを使う

・・・と、まあとにかく、ぐっとくる内容ばかりだったわけです。

会場に集まったみなさんも書くことを生業あるいは趣味にしている方ばかり。書くとは、考えるとは、話すとは、について、みんなでみっちり考え、質問し合った、熱い時間でした。

僕自身、ここのところ、「書く」と「話す」の関係、バランス、具体的には自分は今後どのようにコンテンツを発信していくべきかについて考えまくっていて、だからこそ書き手同士で「書く」ことについて「語り」合うyoutubeイベント「WRITER×WRITER」(もちろんさとゆみさんにも出てもらった)をここのところずっとやっているぐらい。

https://www.youtube.com/channel/UCi4Uw2lGx4MceYS5Z_e7eKA?view_as=subscriber

前置き2(気体、液体、固体)

上の箇条書きに挙げた中でも、気体、液体、固体の話は、ものすごく納得度が高かった。なるほどと思った。

以前はイベントに行くと、その時思ったことを書き留めたりしていたけれど、最近はしてなかったな、と反省。だから、今回、このような文章を書いているという面もあります。固体にしたい。形にしたい。あの夜考えたことを、残したい。自分のために。

さて。まだ前置きでした。

ここからが、本題。

本題:視座と視点

イベントでもっとも感銘を受けたパートが、さとゆみさん流の「コラムの書き方」。

これがすごかった。少なくとも僕には衝撃だった。陳腐を承知で言うと、頭をがんと殴られた感じ。陳腐じゃなく言うと、マスクのなかで口をずっとあんぐり開けていた。よだれ垂れそうな勢いで。

さとゆみさんは言います(実際は違うかもしれませんが、僕なりの解釈です)。

文章(コラムにしろ、エッセイにしろ)には視座(A)と視点(B)が必要だ、と。

まず、視点(B)というのは対象をどう切り取るか。たとえば映画だったら、それのどこをおもしろいと思ったか。どこを魅力として読者に伝えたいか。

でも、これはまあ、どれだけがんばっても、他の人とかぶりやすい。ユニークになりづらい。仕方ないけど。

……うん。ここまでは分かる。知ってる。視点。まさに、僕が勝負してきたところだ。それ以外に何があるの? 情報じゃなくて視点というのが、僕のモットーでしたが?? 

そこで、さとゆみさんはたたみかける。

視座(A)とは、視点のスタート地点だ。

自分はどういう経験をしてきて、現在どういう立場にあるから、今回こういう視点を持つにいたった、という出発点・論拠。

具体的にはこれまでの経験や、最近こんなことがあってこう考えたとか。あるいは自分の話じゃなくてもいいと、さとゆみさんは言う。読者が惹きつけられ、生身で納得しやすい事例やエピソード。寓話でもいい。そこからスタートする。論を始める立脚点。それが視座だ(ヒットビジネス書「ファクトフルネス」はこの視座の示し方が秀逸だったそうな)

この視座と視点を結ぶ物がコラムだと。エッセイだと。文章だと。

AとBがあるから、その人にしか書けないものになるし、人は共感し、態度や考えを変容する(かもしれない)。そういう仕組みになっている、と。

A(視座)→B(視点)。このセットが必要だと。

もうそれを聞いて、天啓? 雷撃? 雷の型? 善逸? どどーんと脳天に来ましたよ。

内省(そこに視座はあるか?)

これまでの僕の文章にはAが欠けていたんだな、と。どの立場で、どういうことを思ったから、が薄い。どこをスタートに論を始めるのかが明確じゃなかった。

いや、思い返せば明確なものもあった。

たとえば時事恋愛とかは、毎回、スタートを「恋と仕事のキャリアカフェ」(当時僕が行っていた、女性向けライフキャリア相談ルーム)での経験、知見、起こったことをスタートにしていた。だから、書きやすかったのかもしれない。読む方もしっくりきていたのかもしれない。

でも最近はどうだろう? いきなり視点をつきつけてはいなかったか? どうだ? どうだ? と。一方的で、親切じゃないという言い方もできそう。

どうやら、僕が書く文章には視座が足りない。だって、そんなこと考えたこともなかったから。

逆に言うと、少し視点にフォーカスしすぎていたのかもしれない。

僕はこれをこう見るよ。ほら面白いでしょ? 意外でしょ? 納得でしょ? みんなうっすら思ってたけど、明文化されると、言語化されるとすっとするでしょ? それがコラムニストのお仕事だと、思っていた。

それ自体は間違いじゃないと思う。でも時代は変わった。

世の中のすべての人が発信者になって、コラムニストになって、エッセイストになって、面白い物言い・論者になった。一部の知識人・文化人のお仕事じゃなくなった。

論、視点、切り口だけでは、足りない。発信者の顔が見えなくちゃいけない、さらけださなくちゃいけない、何かを差し出さなくちゃいけない。

それは現代のコンテンツに宿命づけられたものだろう。わかる。わかるけどさー。自分を出すのは恥ずかしいんだよー。守りたいんだよー(何を?)。

そこで視座だ。

うん、視座なら示せる。

なんだ、そういうことか。

なにげない日常の一コマをさらけだすのは恥ずかしい。SNSにプライベート写真をあげるのも自意識が邪魔する。

でも。

視点の出発点として、自分を示すことはできる。それぐらいはできる。それが「自分を出す」ということなら、できる。かもしれない。まだ恥ずかしいけど。

いや、もっと前向きに考えるなら、Bをよりよく理解してもらうためには、なにかしらのAが必要だ。そのAとして、いちばん手軽で書きやすく濃い素材は「自分」だろう。そういうことなんだろうと思う。

うん、これなら、自然と自分を出せるんじゃないだろうか。

これまでは考えすぎていたのかもしれない。突然、あられもない「自分」を見せられたってそれは謎の自己開示だ。自分語り。そんなもの、自分も読者も求めてない。

あくまでBは大切にしていい。で、そのBの補助として、補強として、Aを出していこう。

そうすれば、より自然で、より現代的で、より納得度の高い、より共感性の高い文章が書けるんじゃないか。

イベントの総括

イベント中でこの「視座と視点」のパートは約10分程度。長くても20分だ。

それで。たったそれだけで。たったそれだけの講義で(またスライドが明確ではっきりとしたデザインで分かりやすいんだ)。

僕が13年間できなかったことが、あっさりできるようになった(かもしれない)。問題がさくーーーっと解決した(のかな?)。

イベントの終わりに参加者みんなが、「このイベント自体をコラム・エッセイにまとめるとしたら、そのあらすじは?」というワークがあった。

いわゆる、A(視座)とB(視点)だ。

どういう自分は、このイベントのどういうところが面白かった、をまとめて発表というものだ。

でも正直僕は、頭の中がグルグル回っていてそれどころじゃなかった。だって、13年間ですよ? 13年間の課題が、ついさっき、今、解決したんだから。

結局僕は、うねうねと考え、ぐずぐずと言葉を連ねたあと、「えーと、さとゆみさんって、すごいなと思いました」とまとめるしかなかった。

本当の感動の前では、人は言葉を失うってやつですよ。

そして、この頭の中を、きちんと固体にしようと思った(noteを書いた)。

あと。

「ひょっとして、これを機に物書きとして、一皮むけちゃうんじゃないかしら」と勝手にワクワクして、さとゆみさんと握手を交わし会場を後にした。

さとゆみさんは、いつもずっと24時間、考えてるらしい。考えるのが大好きなんだそうだ。楽しいんだそうだ。恍惚なんだそうだ。

考えるためのツールとして、書いたり(連載7本)、話したり(radiotalk)、教えたり(ライター養成講座)している(たぶん)。

それだけ考え尽くされた思考の末端に触れられるのは、本当に幸せだ。贅沢贅沢。ほくほく。

ーー

●で、この興奮を伝えつつ、一皮むけた「いおた式文章術」を伝授する、オンライン勉強会が12月18日(金)にあります。よろしければぜひ♪ 一緒に学びましょう!

https://peatix.com/event/1728750/view

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