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質素な贅沢の正体。

きっかけ

先日、めずらしく妻が友人と食事に行くということで、僕は1人での夕食になった。

『…さて、何を食べようか。』

せっかくなので、妻と2人ではなかなかできない献立にしたい。
そこで僕は冷蔵庫にあった食材たちから「豚汁、ご飯、納豆」という献立を考えた。
普段に比べたらかなり質素だけど、最高に贅沢な献立だ。

『ふふふ、今日はこれで優勝だ…!』

普段ならこんな質素は夕飯は提案することすら憚られるが、今日だけは野放図に走る。

豚汁は、豚肉と茄子とごぼうを香ばしく炒めて少し煮込み、醤油とみりんとお味噌でご飯にあうちょっと濃いめの味付けにして、仕上げにすりおろしたニンニクと生姜を入れてガツンとした食欲をそそる仕様にした。

ご飯は最近買い替えた新しい炊飯器「バルミューダ ザ・ゴハン 3合炊き 電気炊飯器 BALMUDA The Gohan K08A-BK」を使う。こいつは釜が内外2つある炊飯器で、外釜にも水を180cc入れる必要があったり、保温機能がなかったりで面倒なやつだが、この謎の一手間が食事を美味しくするスパイスになる。


納豆は粒が大きめで豆感をしっかりと感じるやつだ。僕の一番好きな納豆。

食事の準備ができたら部屋のシーリングライトをオレンジにしてくるくると絞り、薄暗く灯し、テーブルに揃ったお食事にフォーカスを当てる。当然テレビはつけない。余計な情報を遮断して最大限この贅沢な食事を楽しむのだ。

「・・・いただきます」
一口目、まずは豚汁から。
うまい。
味見をしていたので分かっていたが最高だ。絶対にご飯にあう。
(これは余談だが、キッチンで味見をした時とテーブルに運んだ時で味がかなり変わることがあるのはなんでだろうね。キッチンで食べたものは大概味が濃く感じるがテーブルに運ぶとそうでもなくなる。)

炊き立てのご飯を口に運ぶ。
うまい。
大人になると白米の美味しさが輝くよな…もちもちしてて、ちょっと甘くて、ふんわりとした優しいお米の香りが口いっぱいに広がる。
もうご飯だけでいいのではないか?とすら思う。

納豆パックから一口分をご飯の茶碗に移して、ご飯を一緒に食べる。
うまい。
普通に毎日食べてるのにうまい。

うまい。うまい。うまい。

『あぁ・・・なんて贅沢なんだろう。』

そこで僕は思った。

何が贅沢なんだ??

前置きが長くなって申し訳ないが、僕の心とシンクロしてもらうために必要な工程だったんだ。許してほしい。

ここからが僕が本当に言いたいことだ。

僕は今、何を贅沢したんだ???

改めて、今回の食事の献立を確認する。
「豚汁、ご飯、納豆」
前述している通り、これは質素な食事だと僕は認識している。

それなのに贅沢を感じている。

どういうことだろうか?

そもそも、僕の贅沢という言葉の感覚が間違っているのか…?
決して高級な料理を食べたわけでも、大量に食べたわけでもない。
僕は、贅沢という言葉は、直感的には
「何かを必要以上に消費したり使ったりしたこと」
を指しているという感覚があるが、間違っているのだろうか。

コトバンクで見てみる。
やっぱり、概ねその通りだった。
どうやら僕の言葉感覚は間違っていないらしい。

ぜい‐たく【贅沢】
〘名〙 (形動)
① 普通以上に金銭などを費して物ごとを行なうこと。また、必要以上のことをあれこれと望むこと。また、そのさま。
※洒落本・一騎夜行(1780)二「末は女房よ我妻よと唄はせ七尋程有文は皆うそのぜいたく」
※当世書生気質(1885‐86)〈坪内逍遙〉三「贅沢(ゼイタク)なる奴との御叱責を蒙候哉も図難(はかりがたく)候へども」
② (金銭以外のことについて) 普通以上であること。また、そうなろうとすること。
※吾輩は猫である(1905‐06)〈夏目漱石〉二「此男が大の贅沢屋で〈略〉小説家丈に文章の贅沢を尽した」
③ 豪華であること。高級なさま。
※雪国(1935‐47)〈川端康成〉「朱塗の裁縫箱がまた贅沢なつやを見せてゐた」

精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

はてはて、、、僕は何を必要以上に使ったと感じているのだろう。

いくつか思いつく候補を上げていく。

第一候補:夕飯という人生で限りのある1日のうちに3回しかない食事の機会を質素な食事で消費しているから?

人生における食事の機会は、1日3食✖️365日✖️80年 = 約87600回である。
そのうちの貴重な一回を質素な食事に消費してしまったことを贅沢に感じているのだろうか?

それはおそらく違う。

仮に3食全てを豚汁、ご飯、納豆の献立にしたらさらに贅沢か?というとそうでもなく感じる。どちらかといえば貧相だ。

それに質素でも最高に美味しい料理を食べることに食事の回数を消費してしまった罪悪感が生まれるとは思えない。

第二候補:妻が友達との遊びに出掛けている時にしか食べることができないから?

これはちょっと近いものを感じるが、別種の贅沢な気がする。
なぜなら、妻と一緒に豚汁、ご飯、納豆を食べても今回の贅沢はまぁまぁ感じる。

しかし、妻にこの夕飯の献立で納得してもらうのはちょっと罪悪感がある。

質素でも最高に贅沢を感じる食事なら、本来罪悪感を感じる必要はないはず。
なぜ罪悪感を感じるのか。

もしかしたら、そこに今回の贅沢の正体が隠れているかもしれない。

第三候補:美味いご飯を質素なおかずで消費しているという意味でご飯の贅沢?

ご飯(白米)は最高にいい奴で、さまざまなおかずのマブダチ。
さながらオーケストラの指揮者。
調和の女神。

そんな優秀なご飯を、豚汁と納豆で食べて食事を終える。。。許されざる行為だ!!!!

そんなことはない。

現在人にとって、白米はそこまで貴重じゃない。

白米はとんでもなく美味しいけど、普通にスーパーやコンビニで買える。

第四候補:必要以上の幸せを摂取している?

美味しいものを食べると幸せを感じる。
美味しいものをたくさん摂取したら、当然たくさん幸せを感じるが、人間には一回の食事で感じる幸せのキャパシティがあることを僕らはなんとなく分かっている。
キャパシティを超えた分の幸せは無駄になり、すなわち贅沢をしている状態になる。
今回の豚汁納豆ご飯もそれにあたるのか?
「おいおい、、こんなうまいものを食べていいのか、、?」みたいな感覚があるか?

ある気がする。かなり近いものを感じる。
しかし、、、、これだけじゃない気がする。

どこか納得し切ることができないモヤモヤがある。

他にも必要以上の幸せを摂取できるものを集めてみよう

贅沢の種類としては、”第四候補:必要以上の幸せを摂取している?”で間違いないなさそうだ。
しかし、それだけでもなさそうだ。
質素なのに贅沢 = 必要以上の幸せを摂取している? + X
という方程式だ。
Xの正体を探りたい。

ということで、似た雰囲気の質素なのに贅沢を感じるものをリストアップしていく。
・山盛りのご飯をたくあんだけで食べる
・コーラをお気に入りのタンブラーに入れて飲む
・公園のベンチで春風に当たりながら本を読む
・朝の仕事が始まる前のゆっくりとした時間にコーヒーを飲む
・家でのNetflix鑑賞でポップコーンを用意する
・どこに行くわけでもないのに、最高のオシャレをして家で過ごす

こんな感じ。まだまだ無限に出せそうだが、書いているうちに全てわかってしまったのでここまでにしておく。

Xの正体

それは、自分の中にある繊細な感性への陶酔だ。
些細なことへ愛を感じることができる繊細な感性を持つ自分をメタ的に見て、いい気分になっているのだ。
それが、Xなのかもしれない。

質素なのに贅沢 = 必要以上の幸せを摂取している? + 自分の中にある繊細な感性への陶酔

まとめ

自己愛という妙な着地をしてしまったが、これはバッドエンドではなくハッピーエンドだと思っている。
自分の感性を愛しているからこそ、世界を美しいと思えるんだと思う。
きっと逆も然りで、世界の美しさを探すことが自分を愛することにもつながる気がする。
人生において、こういった些細な贅沢をいかに満喫するかが大事なんだ。
自分の中に確か存在する無数の小さな愛をどうやって見つけ、膨らまれるか。

#創作大賞2023

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