愛情のアウトプット

心理カウンセリング的な仕事もここ数年ぼちぼちしているけど、沢山の人の生の話は本当に勉強になるし、それ以上に子育てから学ぶことがあり過ぎてびっくりする。


で、最近思うのが『愛情をかけること』よりも『愛情を表現させてあげること』に注目したいなというところ。
親が子供に愛情を持って接するのは本能的に当たり前で(これが正常でないならできるだけ早めに外部相談したほうがいい)笑顔、スキンシップ、言葉がけ以外にも無数の表現方法があると思う。
しかし、子供側から親への愛情表現がしっかりできているか、それを見逃してはいないか、がとても大事なのかなと思うようになってきた。
上の2人が小さかった時は私も20代前半と若かったので考えてもみなかったけれど、今思えば『愛情表現をしっかりアウトプットできるかどうか』は『健全な自己肯定感を持てるかどうか』に直結しているのではと感じている。

産まれたばかりの赤ちゃんは悪意も不信感も持っていない。
そこへ母親、父親、兄弟など身近な人が代わる代わるやってきてコミュニケーションをはかる。
そのコミュニケーションの中身が自分を満たしてくれるもの、肯定してくれるものばかりであればそのままの信頼感を持ったまま成長できるだろう。
しかし、実際には他者からの悪意、理不尽をある程度受けることになるのが現実であり、この割合が多い、もしくは言語化した理性的な判断が出来ないうちに遭遇した場合、本能的に不信感を持ってしまうことがあるように思う。

子供は少なくとも2歳までは概ね本能的な処理の中で行動している。
要は悪意も何もないわけだ。
コップの水をひっくり返すのも、おもちゃを投げたりハサミを触ったりするのも一重に好奇心ゆえ。
親に迷惑かけてやろうなんて微塵も考えてないし、もし考えていたとしたらそれは大変に脳の発達が速く聡明な子だということだ。
そういう親側から見たら理不尽で理解不能な行動に対して怒鳴りつけたり手をあげたとしても、子供にとってそれは理不尽な悪意であり、不信感を持つ原因になりはしても、決して躾にはならない。

3歳以降、言語化した理性的な判断が出来るようになれば怒られたことといけなかったことが判るようになるだろうが、まだ上手に話せない子供に対して例え怒鳴ったとしても子供には犬が吠えているのと同じくらいにしか聞こえていない。
滑舌が悪いとか、感情的に発した聞き取りにくい言葉は子供には全く響かないということは頭に入れておいた方がいいし、意外とこれは大人相手であっても共通する事柄かもしれない。

で、話を戻すと、今観察している我が家の第三子(2歳2ヶ月)はまず泣かない。これはおそらく泣くこと以外の表現でコミュニケーションが円滑に進んでいるからだろう。言葉を使えば自分の要求が理解してもらえる、ジェスチャーで伝わる、指をさしたり目線で訴えたり、不満になる前に解決してもらえるというある種の信頼感が芽生えているのだろうと思う。泣くのはせいぜい眠い時に無理矢理起こされたり(朝起きる時)、持っていたおもちゃを突然奪われたり(保育園に行く時)、寒いのに服を脱がされたり(朝起こされてトイレに行く時)、痛い時(激しく転んだ時)、と子供側からしてみたら理不尽極まりない時だけで、泣くことにはちゃんと不満を伝えるという重大な意味がある。

もう一つ、暴力を行使しないというのも観察しているとよくわかる。これもおそらく自分が他者から暴力を受けないが故に不満を表す表現として利用しないのだと思う。寝返りで顔にパンチをくらったり、はしゃいで足をバタバタして当たってしまうことはもちろんあるが、こちらもそれを悪意でやっているとは微塵も思っていないので、そんなことで不機嫌になったり怒鳴ったりやり返したりは絶対にしない。

そして、この子は愛情のアウトプットが大変に上手である。我々家族から受ける愛情をしっかりと受け取った上で真似をしているのだろうが、目を見てみつめ合ってニコニコする、キスして『だいすき!』と言葉にする、頭や顔をやさしく撫でる、など自分の感情をきちんと表に出してくれる。そうすると受け取ったこちら側もそれに答える。こうしたやり取りが自己肯定感を育てるのは間違いないようで、今のところ大変情緒の安定した子供に育っている。

今考えると自分自身は思春期までこの愛情のアウトプットがとても苦手だったように思う。恋人に対して愛情を試すような行動をわざと取ったり、沢山愛されたいが故に何人もの人を一度に好きになってみたり、と恋愛偏差値が異常に低い学生時代だった。これはおそらく両親からの愛情を上手に受け取れていなかったことに起因するのではないかと、最近になって感じる。私の両親は決して私を愛していないというわけではなく、その表現が独特だった故に私自身が確信めいたものを認められずに育ってしまっただけなのだと思う。両親は言語化が苦手で、どちらかというと態度で表現するほうであったので、不機嫌な態度、夫婦の言い争い、手を挙げての暴力(昭和世代にはよくあることだ)などが愛情を疑う不信感に繋がったのだと思う。今思えば、両親なりに私に愛情を持っているし、大学までお金の心配もせずに庇護してくれたし、孫も大変可愛がってくれている。しかし、幼少期の本能的な脳で受け取った無意識の部分はそう払拭できるものではなく、私は未だに両親の身体に触れることは出来ない。これはおそらく精神的距離感が他人レベルだからなのだろう。人の身体を触る仕事をしているのに、親には一度も施術などしてあげたことはない。

今後、子供達がどうやって成長していくかはまだわからないが、今のところは私の若い時ほど愛情を疑っていないので随分マシな人生を送れるのではないかと思っている。

もうすぐ第四子が産まれてくるので、同じように愛情をかけた結果が情緒の安定した子供に成長するのか、はたまた今回の子が大変優秀なだけなのかは次でわかるのではないだろうか。

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