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アリスの詩とマルグリットの窓について

Yesterday is history.
Tomorrow is mystery.
Today is a gift.
That’s why it is called the present.

アリス・モース・アール(Alice Morse Earle)という名前を知らなくても、彼女が日時計を研究していたことを知らなくても、1902年に出版された“Sun Dials and Roses of Yesterday: Garden Delights Which Are Here Displayed In Very Truth And Are Moreover Regarded As Emblems”なんて舌を巻くほど長いタイトルの本を知らなくても、そのなかに書かれた詩の一節の知名度たるや。ほんとうにあちらこちらで目にするし、耳にする。

この詩は、のちにルーズベルト大統領夫人がスピーチで引用したことで有名になった。映画や小説にもよく登場する。『カンフーパンダ』とか。そういえば老子も似たようなことを書き残していた気がする。それに、いつだったかお祝いに頂いたコーヒーギフトにも印刷されていた。

どうしてアリスの詩を思いだしたのかというと、何百回か何千回目かとうに分からなくなった憂鬱な朝がきたからで、そして、そういう朝はいつも予期せずに来るので、ほんとうに “Tomorrow is mystery“だなぁ、とひとりごちるのである。
 
目が覚めて、髪をとかして、コーヒーを淹れるより先に、ほとんどの朝、私は窓を開ける。晴れの日は陽射しがゆるゆると、雨の日はざあっと雨がくる。風の強い日は、清々しいまでの勢いで風がくる。
部屋のなかとちがって、窓の外はいつも全然ちがう顔をみせる。一日として同じ日はないし、どんなに立派な昨日も額縁には飾れない。窓をあけ、外を眺めて、ようやく昨日が終わっていたことに気づいて、ふわふわとした感覚で今日を迎える。輪郭を失くした昨日は歴史の断層のどこかにはさまっていて、もう取りだせやしないのだ。

外と内とを隔てるのは数センチのガラス板に過ぎないのに、そうやって外を見ていると、奇妙に現実感が乏しくなってくる。窓の向こうに見えている風景が一枚の絵のように見えはじめ、おもしろくて、笑ってしまう。ちょうど、マグリットの絵みたいに。あの絵の表題はなんだっけ、そう、『人間の条件』だ。
 
ナショナルギャラリーに所蔵されているこの絵は、マグリットがもっとも一般的に使用した手法の一つが使われている。つまり、その背景にあるものを非表示にするために物を使うのだ。〈絵の中の絵〉としか言いようのない手法で、彼は部屋の内側から見た窓の前に、絵で覆われた風景のまさにその部分をあらわす絵を置いた。
鑑賞者にとっては絵のなかの部屋の内側と外側の現実の風景があるのだ。これはマグリットの言葉。
 
今の部屋は、大きな窓に惹かれて借りた。
林と土に囲まれた古い建物で、暮らしているのは老人ばかりでとても静かだ。私は書き物をしながら、暇さえあれば窓辺にたって外を眺める。
ずっと部屋に籠っていると、秒針に引っかかったみたいに世間の時間と自分の時間とがずれていくのを感じる。
ぎしぎしと部屋が軋み、耐えかねてついに外に出たときの、あの感じ。時刻と自分、現実と自分、が、かちり、と重なる瞬間が私はたまらなく好き。
 


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