なぜ世界には当たり前のようにできない人がいるのか

知的障害をもったある人は、よくわからない言葉を発したり
不思議な行動をする。障害が重度だと、言語のコミュニケーションはおろか、排泄もままならないこともある。

事故などによって、高次脳機能障害を持たれた方も同じだ。
今まで当たり前のように出来ることが、突然出来なくなる。
人間の脳に、なんらかのエラーが生じると、
当たり前に出来ることを、当たり前のように出来ない。

なぜ「そんなこと」もできないのかか?
私にはわからない。

私たちのほとんどは、本当のところ、
日常的な動作を「なぜ出来るのか」もわからないし、
「なぜ出来ないか」もわからないのだ。

それは、私たちの脳があまりにも複雑で、優秀なシステムを備えているので
その複雑さを、当人たちは理解できないからだと思う。
IQの高すぎる人たちは、なぜ自分より若く、自分よりも勉強している人が、
自分にとって簡単問題をわからないのかが「頭が良すぎてわからない」のに似てる。

この気持ちの悪いジレンマを、たとえで説明しよう。

私はiPhoneのバッテリーを自分で交換しようとしたことがある。
(修理屋に出すより、安く済むと思ったから)
そして、…結果から言おう。
私は、交換に手ひどく失敗した。
電源を入れたとき、画面に線が入り、タッチパネルが作動しないようになってしまった。
出来ることといえば、電源を入れること(オフにすることはできない)、そして、設定しておいた時間に、律儀にアラームを鳴らすことだけ。
ただ、バッテリーの持ちだけは完璧な生ける文鎮を生み出してしまった。

しかし、それは結果であって、話の本筋は交換の過程にある。

バッテリーの蓋を開けて、その内部構造に驚いた。
全てが、小さい。ケーブルもこれをケーブルと呼んで良いのかと思うほどに細く、部品も基盤小さい。繊細なのだ。
精密で、複雑で、小さいということはつまり、緻密で繊細な作業を要求するということ。少しの傷や埃、静電気や手の脂が命取りになる。

つまり、肩が凝ってしまったノミの背中を、親指の先端でやさしく揉みほぐすような、緻密な作業が要求される。

そして私は…

ぶちゅ。

数年しか持たないiPhoneのような精密機械でさえ、
このような少しの傷も許されないのであれば、
100年近く、フル稼働する人間の脳みそは、
それ以上に緻密で複雑な構造をしているはずである。

しかし、私たちは、そうとは知らずに、脳を使っている。

私たちは、iPhoneが精密であるということは知らない。
毎日使っていながら、精密さには気づかない。
YouTubeがワンタップで開けること、顔を除けばロックが解除されること、
Siriに話しかければ、くだらないジョークで返してくることは知っている。

そしてそれが、当たり前で出来るものだと思っている。(いや、思ってすらいない)

ところが、蓋をあけた中身に関して、
例えばどの基盤が指紋認証に作用しているのか、とかは全くわからない。
ボタンを押して、ホーム画面に戻る原理もわからない。
細いケーブル一本を切ると、どんな症状が現れるのか、検討もつかない。
私たちに想定できるのはせいぜい、画面をハンマーで強めに叩いたら、ヒビで見えづらくなることくらいである。

私たちの脳みそもおんなじだ。
正常に働いているうちは、それにどれほど高度な技術を要しているのかに気づけない。

私たちは、iPhoneで、YouTubeが見えることをできて当然だと思っているように、朝、シリアルを食べることや、咄嗟にボールをキャッチすること、
遠くから歩いてくる美女に一瞬でピントを合わせることも、
騒がしい雑踏の中で、落ちる小銭の音を聞き分けることも
当たりまえのように出来ると思っている。

これは、努力したから出来るのだろうか?
ほとんどの人はそんな努力、例えば特別な訓練とかは、一切していない。
マジカルアイで幾何学模様を凝視して視力をあげようと奮闘したことはあっても、ピントを合わせる練習なんてしたことがない。
デフォルトでできるたり、成長段階で勝手にできるようになっていくからだ。

当たり前に出来る。デフォルトでできる。
しかし、これは、当たり前ではない。
当たり前なので、誰も気に求めない。
iPhoneに不調がなければ、誰も中身を覗かないだろう。

ところが、たまにエラーが起こる。
iPhoneが故障したように
当たり前のことが、突然できなくなる。
そうすると、原因を調べたり、中を覗かずにはいられなくなる。

(iPhoneの設計者は、設計図を残したが、
神は人間の脳の設計図を残さなかった。)

できなくなったときに、最初からできない人がでてきたときに
それを治すのがどれほど難しいか、
今までどれほど難しいことをやってのけた、ということに気づくことができるのし
どうすれば直せるかということも考えられるようになる。

たとえば私は、発達障害だ。
「フラフラしないこと」が難しい。
他の人は、私のできねえことを平然とやってのける。
そこにシビれ、憧れたは私はこう考える。

「みんなは、どこで、フラフラせずに立つための特殊訓練を受けたんだろう?」

実際、私はフラフラを矯正するために、
姿勢を治す自主トレをしたり、本をいくつも読んだりした。
しかし、結局できなかった。練習したのに、標準以下なのだ。

これは、私が悪いのだろうか。読む本の数が少なすぎたり、練習時間が少なすぎたからなのだろうか。
違うのだ、私の努力不足ではなく、自分を責める必要も意味もない。
複雑で精巧で、素晴らしく構築された頭の中で
ちょっとしたエラーが起こっているだけなのだ。
だから私は、「〇〇が当たり前にできるあの人すげー」でなく
「あの人の脳みそのデザイナーすげー」と思うようにしている。
できない部分に目を当ててもしかたないからね。

世の中には、このように
当たり前のことが、当たり前のようにできない人がいる。

原因はわからない。
なぜ障害がある人と、ない人がいるのかなんて、わからない。

ある人は、「天罰だ」とか「悪いことをしたせいだ」とか「先祖のたたり」とか
平然とセンスの悪いことをいう。
(そうだとして、なぜあなたに判断できるのか)

少なくとも聖書で、キリストはこの『因果』を真っ向から否定し、
先天的な障害の原因を『当事者や、その親の悪行せいや罪ではない』と教えられた。

私は、原因に目を向けるよりも、
そのことを通して、何がわかるか、何ができるかということに目を向けたい。
(アドラーでいうところの目的論)

つまり、

私たちは『できない人』の存在のおかげで、
『当たり前にできる』ということが、実は驚くべきことであることを知ることができる。
『当たり前にできる』人は、『当たり前にできない人』を知ることで、
有効な治療法を見つけることができるかもしれない。

出来ない人が、あなたにとって役立つかどうかということよりも、
世界全体を見たときに、それぞれの役割があっていいのだということを
気付きあえるような社会になればいいと思うし、
そのような働きかけをしている。

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