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3. 思いがけない貸切体験 - 宿、そして映画館

心身を整えることを切実に必要とした時に、自然・建築・現代アートの融合と木のやさしさに魅かれて訪れた、緑の中のリトリート、軽井沢の「ししいわハウス」。

看板もない。樹々の中に消えていくような背高のとんがり屋根に木枠のガラス扉(国内最大級で高さ5.6mらしい)、LA近郊 にあるフライドロイドライトのご子息が設計した「ガラスの教会」を思い出させるエントランスを入ると、外観そのままに吹き抜けの高い天井の「ライブラリー」、美しい木とガラスから差し込む光に包まれたアアルトのソファに腰をおろし、ここでチェックイン。
そして、そこで告げられたのは、その夜のゲストが私ひとりだということ。

2019年2月開業、坂茂さんの設計。
坂さんは、設計にあたって、まずは、敷地内の樹木 260本以上の位置を一本一本図面に記したそうで、もともとの地形をできるだけ生かして自然の樹々のレイアウトからできた、樹々によりそう有機的なデザイン。外周のどこにも角がないという曲線的な建築になっている。これほどの木材を使うのは、坂さんの事務所でも数少ないという。

ししいわハウスは、通常のホテルでは2~3割程度のバプリックスペースが5割、人と人との社交を大切にする「ソーシャル・ホスピタリティ」という概念に基づき、空間をパブリック・セミプライベート・プライベートという3つのエリアに分けた、独特の作りになっている。
プライベートエリアである10の客室は、3・3・4と3つのクラスターになっていて、それぞれが、クラスター内で共有するミニキッチン付きのリビングルームにつながっている。これがセミプライベートエリア。
3つのリビングルームは、全体の中心にある大きな半円の「グランドルーム」につながっている。「グランドルーム」の正面は一面のガラス扉で、その向こうには気持ちよさそうなウッドデッキが広がり(ガラス一面が開口部ともなり、開け放つこともできる)、ライブラリーへとつながっていく。この3つのスペース、グランドルーム、ウッドデッキ、ライブラリーがパブリックエリアとなる。
・・・・それを全て独り占めするというweekend getaway ―もちろん、客室とリヴィングルームはひとつずつだけど。

2階の自室から階段を降りると、すぐリヴィングルームがあって、そこでコーヒーを入れる。ウッドデッキで日差しを浴びて深呼吸する。グランドルームのソファにゆったりとすわって本を読む。グランドルームのテーブルで、サーブされる食事をとる。
たった一人で過ごしていると、ししいわハウスは、本当に自分の別荘のようなところになる。人目を気にすることもなく部屋の鍵もマスクも不要、呼ばなければ食事の時以外はほぼ会うことのないスタッフ、まるでおかかえのシェフとハウスキーパーのいる別荘の主人になったよう。現代アートの原画がそこここに飾られ、細部まですべてが美しく整えられた、趣味のいい別荘の。

ししいわハウス―何も知らなくても、好きにならずにいられない空間だけれど、知れば知るほど、語りたくなる。ということで、次回は、ししいわハウスについて語ろう。

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そういえば、映画館独り占めをしたことがある。

全10室の小さな軽井沢の宿、秋晴れのさわやかな週末に、独り占めできる確率というのは、どれくらいなのだろう。意外と高いのだろうか。エアビーや別荘の一棟貸しのようなもの、と考えれば、同じような体験はできるものかもしれない。
むしろ、新作上映の映画館貸切状態のほうが、レアな体験だったのかも。

当時、ロサンゼルスにいて、時間調整のため、「ボヘミアンラプソディ」の最終回を観に行ったら、私一人だった。
確かに、平日の22時半開始で終了は深夜1時、繁華街の映画館ではなかったけれど、いくつかのシアターで複数の映画を上映するこぎれいな映画館の話題作、平日の昼下がりに寂れた名画座で古い映画、というわけでもないのに。
日本より1週間早かった全米公開から1か月半たった12月半ばで、同じころ、日本からは、繰り返し見る人、応援上映で盛り上がる人、連日満員で予約も取れない、などと、その熱狂ぶりが伝わってきていた。LAでそこまでの熱は感じられなかった。とはいえ。
まさか一人だけとは思わないから、席についたあと、あまりに人が来ないので、シアターを間違えたのではないか、と何度も出てみて、係の人にも確認した。ロビーは、他の映画を観る人がちらほら程度。
そして、とうとう誰も来ないうちに、映画が始まってしまった。
貸し切りになったからには、もう、それを楽しむしかない。
日本では「応援上映」が話題だったけれど、そんなもんじゃない、一人で歌い放題、踊り放題・・・最後のライブシーンは、ほとんどライブの総立ち観客状態、懐かしい名曲は一人で絶唱。
実は、映画自体は、全米公開直後にすでに一度みていて、それほど好きになれなかった。劇中の名曲やいろんなことに涙はしたけれど、評価の高かったラミ・マレックのフレディがだめだった。あの付け歯とその結果の話し方、あれはやりすぎでは、と思ってしまった。最後のライブシーンは、なかなかよかったとはいえ、リアルタイムで知っているものとしては、ホンモノにはかなわない。1週間後、日本で上映が始まると、友人知人が、みんな、あまりに感動しているので、何か自分が見逃しているのか、ともう一度観ることにしたのだった。ここで、映画の内容自体はポイントじゃないのだけど。

この話を聞いた女友達は、「ちょっと怖い、けっこう幽霊とかお化けとかだめ」と言ったけれど、やはりアメリカ在住経験のある男友達には、「それはマジで危ない。暗くて人がいないところに女性ひとり、しかもちょっとやそっと大きな声を出しても外に聞こえない」と真剣に言われた。
自分の中のちょっと不安な気持ちと、この映画をもっと好きになろうとする気持ちを、踊ったり歌ったりして盛り上げていたのかもしれない。

こんな予期せぬ貸し切りは、もう二度と起こらないと思っていた。

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