木 陰 の ポ チ

             

#犬 #いぬ #長文 #小説

             約22300文字(読了まで約1時間いただきます)
  注意:この作品では動物の死を扱います。多少の残酷な描写もあります。
 あらすじはこちらです→ https://note.mu/iori_m/n/nfac2491dddc8



 あの木陰には、ポチがいた。いまは、もういないけれど。

 夏休み直前の浮かれた大学構内。私は食堂の片隅に呼び出された。夏のクラス旅行の希望調査らしい。
「まっちゃん、どこがいい?」
「どこでもいいよ。ご随意に。私、行かないから。行けないのよ。バイトが抜けられなくて」冷房が心地よく効いた食堂の片すみ。窓から見える景色は夏。陽差しはギラギラと暴走気味で、視界がハレーションを起こしそうだ。「えーっ!なんでぇ?さやかってば、最近つきあい悪いよぉ。行こうよ、ねぇ」
「貧乏学生は優雅に旅行なんてしてらんないのよ。悪いね、折角なのに。また今度」
 目の高さにかざした手の指を揺らして、私はクラスの仲間たちに別れを言った。はずだったのに、図書館横のイチョウ並木で、追いかけてきたクラスメイトに腕をつかまれた。クラス委員をやっている人だ。委員長気質の大沢くん。
「おい、松本!みんな心配してんだぞ。お前この頃、つきあい悪すぎ。バイトバイトって、本当にそんなに金に困ってんの?」
「うん。困ってるよ。実はバイトって言っても、家の用事なのね。報酬があるって聞いてるからそう言ってるだけで。家庭の事情ってヤツだから、大きな声では言えないんだけど。あのね、うち、妹か弟がもうすぐ生まれるの。この記録的な暑さのなか、臨月のおっきなお腹かかえてフーフー言ってる母を放って、私だけ旅行だなんだって、遊んでなんていられないじゃない」
 動物病院経営者のご子息、贅沢なワンルームマンションに住み、充分な仕送りを受けている、と噂に聞くセレブな大沢よ。自宅通いで、そとにバイトにも行けず、高校時代から小遣い月額アップなしの、この私の惨状にひれ伏せ。「なので、今回はパス。腹の満ちない土産バナシじゃなく、ウマい食い物系のお土産、大いに期待してるよ。じゃ」
 心配して、暑いところを走ってくれた大沢には悪いけど。私にはこの夏、自由時間というものはないのだ。この夏、だけじゃない。私には、目標を達成するまで、ちょっと座ってひと休み、などと悠長なことをやっている暇はないのだ。高校時代の後半は、現役で国立大学に合格するため、つむじから湯気が出るんじゃないかってほど、勉強した。猛勉強をした。その甲斐あって、無事に希望の獣医学科に合格したからって、こんなところで気を緩めてちゃ、いけない。私は獣医になりたいのだから。私は獣医にならなければ、いけないのだから。
 ポチのために。かつて私が命を奪った、ポチという名の、かわいそうな犬のために。

 帰路。冷房のきつくない車両を選び、空いてる座席に運よく座れた。読みかけの文庫本をひざに置く。そんな、いつもの動作をしていても、ふとした些細なきっかけで、私はポチのことを、思い出す。
 街なかを歩いていても。飛びこんでみた雑貨屋で、小型犬用の洒落た服なんかが売っていたりしたとき。近所の公園で、ベンチに座って本を読んでいても。散歩に来たワンちゃんに、つま先をフンフン嗅がれたりしたとき。
 たった今、車両のすみの優先座席に、盲導犬がいたのが目に入ったのだ。クリーム色の毛並みをした盲導犬は、盲目のご主人を護るように堂々と、伏せた姿勢で穏やかに、辺りを観察している。周囲の乗客の、めずらしい物を見る遠慮ない視線を受け止め、静かにご主人の次の命令を待っている。ポチにはこの盲導犬のような、聡明さや忍耐強さはなかったけれど、人ならぬ犬一倍の愛嬌と従順さがあった。ポチはかわいい、憎めないヤツだった。
 実は、ポチは、うちの飼い犬ではない。
 ポチはうちの隣に住んでいた、浅川さんの飼い犬だった。浅川さんのお姉ちゃんが、ある日学校に迷い込んだ野良の子犬を、下校時に家まで連れて帰ってきたのだ。そして王道どストレートな名づけをした。
 命名「ポチ」!
 そのころ、私は小学校の一、二年生だっただろうか。母が仕事で留守がちなため、放課後はよく一人でうちの近所で遊んでいた。思えば孤独な子どもだった。そんな私が、隣家のポチと仲良くなるのに、いくらも時間はかからなかった。
 もともと毛の生えた生き物が苦手ではなかったのだ。むしろ誰もいない家の鍵を開けると、玄関先に犬でも猫でも、私を待っていてくれる存在があれば、どれほど嬉しいだろうなと、ぼんやり考えていたこともあった。
 ポチは浅川家の庭の、ハナミズキの木のすぐ横に、小屋を与えられていた。浅川家の姉弟より帰宅が早く、たまに給食で残ったパンを土産に持っていく私を、ポチは木陰で待っていてくれた。いつもいつも、ちぎれんばかりに盛大に、しっぽを振って歓迎してくれた。
 キジトラ模様の、中途半端に伸びた毛並みの雑種犬。ポチはお世辞にも見目麗しいワンちゃんではなかったけれど、無駄吠えをせず、しつけも律儀に身につけて、浅川家のみならず、うちの家族にもよくなついてくれた。たまに散歩を任されて、私はポチと一緒にご町内を走って回ったこともあった。
 過去だから美化してるわけじゃない。本当に。本当に私はポチを大好きだった。
 ハナミズキの木陰に伏せて、私が近づくのをキラキラした目で見上げながら、振ってる尻尾で地面を掃いていたポチ。帰りぎわ、バイバイと手を振ると、寂しそうにきゅうんと鳴き、リードをいっぱいにまで引っ張って立ち上がり、私に追いすがろうとしてくれた。
 大好きだったから、私はポチを殺すことにしたのだ。あれ以上、苦しむポチを、悲しいポチを、見ていたくはなかったから。身勝手なのはよく判っている。そんな理由でも、ポチは私を解ってくれるだろうか。
 車内アナウンスが、私の降りる駅の名を告げる。
 私はけっきょく読まなかった文庫本をバッグにしまい、立ち上がった。ドアをくぐる時ちらっと窺うと、盲導犬はおとなしく床に伏せていた。
 
 駅前には、昔ながらの風情が残る商店街がある。映画やドラマのロケなんかにも、使われそうな雰囲気の。私はいつもこの商店街で、母に頼まれるお使いをして帰る。歩きながらメモを確認…今晩は魚が食べたいらしい、母の角ばった細い字を確認していると、赤い「注意」が目にとまった。
『近ごろ近所に、若い男性の不審者が出るそうです。気をつけて!』
 手ごわい害虫や、背筋を冷たくする心霊が幅を利かす夏でも、やはり一番に怖ろしいものは生身の人間らしい。これは素直に気をつけよう。
 まずは八百屋で、そして魚屋。お店のおばさんたちはみんな、もうすぐ歳の離れたきょうだいができる私に親切にしてくれる。
「これ、お母さんに食べてもらって」と、季節がら手に入りにくいホウレンソウをこっそりわけてくれたり、グラム売りのシラスを多いめに盛ってくれたりして、おまけを持たせてくれた。そして最後に寄った和菓子屋で、わたしは自分用に一つ、買い物をした。
 そんなこんなで、膨れ上がったバッグを肩に玄関に立つ。視界の隅には、隣家のハナミズキ。緑陰に、ポチの小屋。
ポチが呼んでいるのではない。私が引かれているんだ。荷物は玄関の脇に置き、その中から金平糖の小袋をつかみ出すと、私は浅川家の敷地に、足を踏み入れた。
 浅川家は、会社員のおじさんと専業主婦のおばさん。お姉さんと、そして私の幼馴染みの拓巳くん。絵に描いたような素敵な家庭だった。
 共働き家庭でひとりっ子のわたしは幼いころ、自分の家庭が浅川家のようであったらいいのにと、よく夢想した。広い庭があって立派な庭木が茂り、日曜日なんかには縁側で母が笑顔で見守るなか、父と私がバドミントンをしたりなんかして。特別さみしい思いをしていた自覚はないけれど、そんな家族だったらいいなと思う理想が、あの頃の浅川家にはあった。
 浅川家の庭には、大きなハナミズキの木が植えられている。春には白い清楚な花が咲き、秋には赤い実がなり葉が紅葉する。折々に美しい姿を見せてくれるハナミズキ。夏にはささやかながら木陰ができ、ポチは鼻先を土で汚して地面に穴を掘り、冷たい土に腹をぺったり押しつけて、木陰で暑さをしのいでいた。
 世話の手間がかからぬハナミズキは、今もここにある。浅川家の人々がこの家を去って行ったあとも、あの頃のまま。古びて塗装の剥がれかけたポチの小屋と一緒に。
 ポチにはお墓がない。ポチの遺体は市の焼却炉で焼かれてしまったのだから。遺骨なんてどこにあるのやら。私がポチを偲ぶのは、だからこの木陰、ポチの小屋の前。ここはわたしにとってポチに取り返しのつかないことをしてしまった場所であり、ポチと過ごした楽しかった日々の思い出が、折り重なって積もっている場所でもある。
 小屋の前にかがみこみ、地面に敷いたハンカチの上に金平糖を広げる。水色や藍色、金魚の色の濃い赤。夏らしい色取りの金平糖は、私が大人に内緒で、たまにこっそりポチに与えていた、とっておきのおやつだった。ポチは上品に甘い金平糖を惜しげもなく、ぼりぼりと音をたてて食べてくれた。
 味の濃いものや甘いものは、犬の栄養管理上よいものではないので、あまり与えないよう聞いてはいたが、私がテストで満点を取ったり、マラソン大会を完走できた時など「ご褒美」として私はポチとここで「祝賀会」をした
 ―─ポチ。もうすぐ夏休みだよ。私はどこにも行かないで、たくさん勉強して、優秀な獣医さんになれるよう頑張るよ。ポチみたいに、飼い主に忘れられた犬が寂しい思いをしないで済むよう、どうするのが一番なのか、なにが一番喜んでもらえるのか、もっともっと考えるよ。
 ポチに語りかけるうちに、無意識に手を、あわせていた。
「おい、そこで何をしてる」
 だから、こう声をかけられた時は、驚いた。ものすごく驚いた。声もとっさに出せないくらいに。
 私は反射的に立ち上がり、ただ振り返ることしか出来なかった。
「人の家に勝手に入って…!」
 背の高い、明るい色に髪を染めた男の人が立っていた。サングラスをしている。二十代…半ばくらい?母のメモ書きの不審者情報が心の中を警告音付きで、飛びまわっていた。
「あ…、えーと。さやか?…だよな」
 この人、なんで私の名前、知ってるんだろう。
「さやか、だよな?となりんちの。背、でかくなったな」
 と、となり?浅川さんの?でも、まさか。まさか?
「…た、たくみ、くん?」のどに引っかかった言葉を、思い切って、声に出してみる。
「やっぱりさやかじゃないか。あ!ゴメンゴメン。これじゃ俺のほうが誰かわかんないよな」
 軽い調子で、不審者がサングラスを取る。目許が見えたら、すぐに判った。浅川家の長男で、私の幼馴染みのお兄さん、拓巳くんだった。
「俺また、どっかの変なヤツが放火でもしに来たんじゃないかって」
「拓巳くん、戻ってきたの?ここでまた、おばさんたちと」
「いや。もうここには戻らない」
距離を詰めて、ハナミズキのそばまで歩いてくる拓巳くんを、私は見守った。左足を軽く引きずる、その歩みを確認した。そして、ああ、やっぱりこの人は拓巳くんなんだと思った。
「少なくとも母さんは戻らないよ。俺も都内に部屋を借りてる。近くに用があったんだ。うちがどうなってるか気になったから、寄ってみただけ」
「そう。そう…なんだ」

「家族」という名の生き物にも、寿命みたいなものがあるのだろうか。一度ばらばらになった家族は、もう二度と、元どおりには、ならないのだろうか。 戻らないと言った拓巳くんの横顔を見ながら、私はこの数年のあいだに浅川家に起こった出来事を思い出していた。それはまるで、坂道を転がり落ちるような不幸や困難の連続だった。
 最初のきっかけは、なんだったのだろう。きっと、他ならぬ拓巳くんの交通事故だ。
 自転車で通学途中の拓巳くんは、信号の変わり目に、強引に突っ込んできた自動車にはねられた。
 その頃、県の陸上の大会ではトップを争うほどの短距離選手だった拓巳くん。きっと、部活の早朝練習があって、急いでいたんだろう。信号手前で左右の確認をしていたら、きっとあんなことにはなっていなかった。
 全身を強く打ちながら、脊椎を損傷していなかったのが不幸中の幸いだったが、脚は…。陸上選手の命である脚はもう、競技者としての走りを取り戻すことは出来ないという残酷な診断だった。
 浅川のおばさん…拓巳くんのお母さんは、それから、人が変わったようになってしまった。拓巳くんの過失を主張する事故の相手側との裁判に、拓巳くんのリハビリ。おばさんはこの二つだけに、起きている時間のすべてを充てるようになってしまった。
 スポーツ選手専門のリハビリをする医師を頼って拓巳くんを転院させ、家事を当時、社会に出て働き始めたばかりだった拓巳くんのお姉さん、翔子さんに任せきりで、自分は病院と裁判所や弁護士さんの事務所、調べものをしに図書館へ。私がいつ家の前を通っても、不在のしるしに、浅川家のガレージは空っぽだった。
 ポチの散歩も翔子さんが残業なんかで忙しそうにしていたら、私が進んで、代わって行っていた。そんな状態が一年足らず続いたころ、ついに、というか、とうとう。押し付けられる家事に我慢の限界だった翔子さんは、浅川家を出てしまった。
 中学生だった私には、ご近所の小声のうわさ話が断片的に耳に入った程度だったけれど、翔子さんは勤め先の近くに安い部屋を借り、そこでまだ大学生らしき青年と、一緒いるということだった。
 翔子さんの、家を出るという思い詰めた行動での抗議でさえ、浅川のおばさんの孤独な奮闘を止めるものではなかった。
 実際のところ、おばさんは、よく頑張ったと思う。才能あるわが子の将来と名誉のため、必死だったのだと思う。でも、必死になりすぎたんだとも、私は思うのだ。
 アスリートとしての回復の、はかばかしくなかった拓巳くんがこっそりと、いつの間にか浅川家にもどっていた。彼はリハビリなどにも出かけず、一日じゅうカーテンを引いた部屋で過ごすようになった。おばさんは『頑張らせすぎたので、休養を』とお医者から指示が出たと、横を向いて言っていた。  が、それも半月になりひと月、半年とそのままの状態が続くにつれ、周囲は拓巳くんのことを症状が固定したので退院したのだと、受け取るようになっていた。つまりもう、将来を有望視されたアスリートだった拓巳くんは、ただの人、浅川拓巳になったと。
 そのしばらくのちのことだっただろうか。翔子さんが浅川家に戻ってきたのは。
「あ…、あの、拓巳くん。翔子さん、は…?」
「ああ、姉貴?たまに手紙はやり取りあるけど。まだ塀の中」
「そう…。ご、ごめんなさい!」
「謝ることじゃないよ。本当のことなんだし」
 交通事故の裁判も、妥協点をどうにかこうにか探し出し、決着を見るかという、浅川家がそれなりのところにようやっと落ち着こうかという頃。翔子さんは浅川家に戻ってきた。やわらかい色合いのマタニティーウェアを身につけて。遅れてついて来る、表情のない若い彼氏を連れて。
 すでにその頃には、ポチはえさと散歩という、最低限の世話をみてもらっているだけの、家族の一員という存在とはかけ離れたところで生きていた。ハナミズキの木陰で、驚くほどのはやさで変わってゆく浅川家の人々の様子を、ポチは黒く濡れたような、その瞳に映していた。静かに。きっと、寂しい気持ちで。
 ありがちな親子の諍いののち、いわゆる「授かり婚」というかたちで、翔子さんは影の薄そうな大学生と一緒になり、浅川家を出てしまった。実家を頼らない!と、大見得を切ったという翔子さんは、その言葉どおり、子どもを無事に出産した時にも、写真入りのはがき一枚きりの報告だったらしい。おばさんがうちの玄関で、母にそう言って目許を指でこすったのを、私はこっそり見てしまった。
 その数ヵ月後、今度はおじさんが職場で倒れ入院。数ヶ月の闘病ののち、亡くなるという不幸ごとが、浅川家を見舞った。
 誰かが何か、罰当たりなことをしたわけでも、自ら招いたわけでもない。にもかかわらず、私の憧れた、理想の家族だった浅川家は、あっけなく綻び、壊れてしまった。
 残ったのは、抜け殻のようになったおばさんと、夏にも厚いカーテンの向こうから顔を出さない拓巳くん。二人だけになってしまった。ポチは手入れがなされずとも、相変わらず美しい姿のハナミズキの木の下で、きれいにすっかり忘れられていた。散歩にも連れ出されず、さすがにえさは与えられていたが、それも毎日ではなかった様子で、私が学校の行き帰りにそっと覗くと、ひっくり返ったえさのボウルが遠くに転がっていたりしていた。そしてもちろん、生きものなら食べれば必ず出るものが、そこここに掃除もされず、放置されていた。
 ポチは、庭につながれそのまま、飼い主から何の世話も受けられない「放置ペット」になってしまった。
 拓巳くんには、別れぎわ、名刺をもらった。
 携帯電話の番号を、その場で書き込んでくれた名刺。そこには知らない個人の事務所の名前が印刷されてあった。拓巳くんはそこで、スポーツライターの見習いをしていると言った。まだ勉強中の身だと。閉め切ったカーテンの向こう側で息をひそめていた拓巳くんが、いつどのようなきっかけを得て、窓を開けたのかは知らない。私の憶えている、自分の可能性を信じて輝いていた頃の拓巳くんと、いま会ったばかりの大人になった拓巳くんは、どこかつながらない部分も正直あった。けれど、ポチの飼い主だった浅川家の拓巳くんが今、元気で暮らしているのなら、それはいいことなのだと素直に思えた。ポチのためにも。私にとっても。


 ――拓巳くん、私は、ポチを殺しました。
 ポチは何か知らない病気で、突然死んだんじゃない。私が殺したのです。私が毒を食べさせたのです拓巳くん、私が、ポチを殺しました―─。
 書いては消し。もう一度、打ち込んでみては削除して。
 就寝前の自室で。私は拓巳くんにもらった名刺のアドレスに、メールを送るべきかどうか迷いながら、何回もこの文章を書いていた。
 白状するのは簡単だ。心の底に溜まる、澱のような罪悪感を、誰かに謝ることで吐き出してしまえる。やってしまいました、ごめんなさい、許してください。そう言って頭を下げれば、心の中で処理するべき大抵のことは、加害者にとって済んでしまう。思い煩う気持ちを、被害者に投げてしまえる。
 でも。私はそんなことを、望んでいるわけではない。浅川家のみなさん、私はあなたたちの大切な飼い犬を殺しました、ごめんなさい。そんなこと、私は思っていないのだから。
 ただポチにだけ。ポチには、謝っても謝っても、謝りきれないことをした。償えないものを奪ったのだ。命を、取ってしまった。
 ポチを殺した当時、私が浅川家の誰よりもポチの面倒をよく見ていたこともあって、私がポチを殺したのだとは、誰も疑いもしなかった。私は完全に被害者の側にいた。可愛がって世話していた犬を突然に喪った、かわいそうな女の子としてそんな風に。
 この罪は、世界中の誰もが見ていない、知らない罪。でも、ポチを殺したのは私だと、誰でもない私自身が知っている。
 私はこの罪を一生涯、背負ってゆく覚悟をしている。その覚悟ができたから、私はポチを殺したのだ。ポチを殺した責任を、私は背負って生きるのだ。 
 私がポチを殺すことを考え始めたのは、あの出来事があったからだ。私が「放置ペット」つまり、飼い殺しの状態にされているポチを、この手で殺してしまおうと思ったのは。
 事件はお昼過ぎ、TVのニュースで始まった。よく見知っている人と、いきなりTVの画面を通して再会した。翔子さん。浅川家の長女の、翔子さんだった。卒業アルバムに乗っているような、ブレザー姿の高校生のころの、翔子さん。
 びっくりしてニュース映像から目が離せない。何かあったのか!何があったのだろう。
 TV画面の中のクールな女子アナウンサーは、増加の傾向に歯止めが利かない幼児虐待の事件を、場違いなほどきれいな声で読み上げていた。
 翔子さんはわが子に、躾と称して厳しく接し、その行き着いた先にとうとう、殴り殺してしまったのだとTVは言った。食べ方が汚いと、まだ幼いわが子を叩いて叱った。その数時間後、ぐったりして意識のなくなった子どもを、翔子さんは抱きかかえ泣きながら自分の足で、救急病院を訪ねたのだという。 医師によりそこで事件が発覚。診察によって子どもには、数箇所の骨折の痕跡と、体中のあざが見つかったらしい。治療の甲斐なく、翔子さんの子どもは、殴られた際の転倒で頭を打ち、それが原因で亡くなったらしい。
 ……信じられないことだった。あの翔子さんが。揉めにもめて家を出て、自分から選んで得た家族を、その手で壊してしまったなんて。第一、優しくてしっかり者だった翔子さんが、小さい子どもに手を上げたなんて。可愛いはずの、かけがえのない、わが子に。
 事件は衝撃的で、私にとって気持ちの上では身近であったけれど、起こったのは遠く離れた土地だった。高校生の私に出来ることもなかった。そうでなくても、ひどいニュースは毎日量産され、個々の事件の記憶は希釈されていく。 でもお隣は、そうはいかなかった。浅川家はいやおうなく、この事件に巻きこまれた。発覚すれば大きく報じられる、幼児虐待事件の容疑者の実家として。時間を選ばないTV局や新聞社の取材陣が勝手に訪ねてきては、遠慮のない言葉をご近所にも聞こえる大声で、飛ばしていた。家中の雨戸を下ろし、おばさんは、家の中でどうすることも出来ず、困っていたと思う。もしかしたら、電話の取材や、わけの解らないいたずら電話にも、傷つけられていたのかも。
 ポチは、庭先に踏み込んだマスコミ関係者に向かって吠え、激しく威嚇した。犬の十歳前後はもう、若くはない。えさも不足気味で散歩にも連れ出されない、ちっとも良好でない健康状態なのに、不誠実な主人のため、一生懸命に闘った。

 四、五日ほど、そんな様子が続いただろうか。早朝、定期テストの勉強をするため早起きをして、私はポチの声に気がついた。きゅうん、きゅぅんと、途切れとぎれに、助けを求めるように、ポチが鳴いていた。
 私は何かあったと確信して、浅川家の庭に入った。
「ポチ!」
 だれがこんなことを……!
私は目を覆ってしまった。ポチは、ハナミズキの木に縛りつけられていた。幹と枝を使って、リードでぐるぐる巻きにされ、固定されていた。ご丁寧に、口には汚い布をくつわとして噛まされ、後ろ足を片方引っ張り上げられた、苦しい姿勢を強いられた状態で。痛かったろう、苦しかったろう、怖い思いをしただろう。
 私がくつわを外し、体に食い込んだリードを解くあいだ、ポチは震えながら、喉の奥でしゃくりあげるような声で何度も鳴いた。そして、時おり私の手をなめた。鼻が乾いていた。どれほどの恐怖がポチを襲ったかが、私にも理解できた。
 ポチの背中や首には、毛の抜けたところが何ヶ所かあった。複数の人間が、たぶん男性だろうか、寄ってたかって吠えるポチを押さえつけ、かかえ上げて縛ったように思われた。
 ひどい。もの言えぬ動物に対してそれは、あまりにもひどい。私はポチの体に治療が必要な傷がないことを確かめると、一度、自分の家に引き返した。ポチに食べ物を、とにかく何か飲ませるものをと考えたのだ。このまま放っておいたら本当に、今日明日にでも、ポチが弱り果て死んでしまうのではないかと思った。怖かった。こわかった。常温のミネラルウォーターのペットボトルと、父の晩酌のつまみに買い置きのあるビーフジャーキーを失敬し、慌ててポチの元に戻ると、そこには浅川のおばさんが、白い顔で立っていた。
 この数日、きちんと布団で眠っていないのだろう、寝間着ではない普段の格好で。まとめた長い髪を、ほつれさせたまま。
「おばさん……、あの、ポチが」
「さやかちゃんだったの」「は、い?」
「さやかちゃんがポチを戻したの?」
「え、はい」
「いいのよぉ、気にしてくれなくって。ポチをくくりつけたの、わたしなのよぉ」
 おばさんは、妙に間延びしたような様子で、しゃべった。視点の定まらない、どこを見ているのかわからない顔で。
「ポチがねぇ、マスコミに吠えるでしょう。毎日毎日うるさいって、近所から苦情があったのよ。だから、吠えて暴れないように、わたしがやったのよ」「そんな!おばさん。なんでそんな……」
「わたしが!何をしたって言うのよ」
 おばさんの目が私に焦点を結んだ。言い放ち、ひたっと私をとらえた。私は動けずに、おばさんの言葉をただ、浴びた。
「子どもを死なせたのは、たしかにわたしの娘だけど、わたしじゃあないわ。わたしに聞かれたって、翔子がなんであんなことをしたのかなんて、わからない。わからないって言ってるのに!毎日……毎晩。夜中だって訪ねて来ては、おんなじことばっかり質問させてくれって。話を聞かせてくれって! ポチには言って聞かせたのよ、何度も。知らない人が来ても、吠えないでねって、ご近所迷惑だって。でも、聞いてくれないのよぉ。 あの子も……拓巳も、わたしがこんなに困っていても部屋から出てきてくれないし。もう、だれも、わたしの言うことなんて、聞いてくれないのよぉ……!」
 顔を手で覆い、細い肩を揺らして、小さい子どものようにおばさんは泣いた。大人が声を上げて泣くのを、私はそのとき初めて見た。ポチが泣き止まないおばさんの傍らに座り、心配そうに見上げていた。
 ひどい仕打ちを受けても、ご主人を想うポチの澄んだ瞳が、私には切なく、心に刺さった。
「おばさん、あの…、ポチを」言いかけて、これでは聞いてもらえないと、もう少し声を張った。私は前々から、考えていた言葉を口にした。
「あのっ!おばさん、ポチを。 ポチをわたしに譲ってください。うちで、わたしがきちんと面倒を見ます。世話をします。きっとしばらくは、まだマスコミの人がおばさんちに来たりしたら、吠えてしまうかもしれない。でも、止めますから。うるさくほえないように言い聞かせますから。散歩もごはんも、きちんとします。おばさんたちの大事なポチは、わたしにも大事です。不自由させないようにします、必ず、だから」
「だめよ」
 低く冷たく、浅川のおばさんはわたしの訴えを遮った。
「だめよ、さやかちゃん。ポチはあげられない。ゆずってあげない。ポチはね。ポチは。わたしや拓巳や翔子……みんなと一緒に不幸になるのよ。どうしようもない運命を生きるの。この浅川の家の一員なんだもの。みぃんな一緒なの。一緒に落ちるのよ。この、底なしの井戸みたいな不幸に」
「でも。それなら! もっとポチを、面倒を見てあげてください」
「見てるわよぉ」
「ごはんも散歩も、これまでどおりに」
「できる範囲でやってるわよ。できることだけは。それでいいのよ、さやかちゃん。だってポチは、うちのコなんだもの」
 おばさんはそう言うと、さらに言い募ろうとした私を置いて、家の中に入って行ってしまった。
 あとに私と、そして家族の一員であると言い切ったポチを、置いて。
 ポチはもう、浅川家の可愛らしいペットではない。なくなってしまった。ポチは浅川家の落ちてきた、そしてこれからも落ちてゆくかもしれない不運の道連れにただ、飼われている。その運命を一緒に被るために。解放してもらえないで、鎖に繋がれている。
 それだけでなく、ポチはこの後とうとう、えさももらえない状態になってしまった。浅川のおばさんは、ついにポチの存在をそこに「ないもの」にしてしまったかのようだった。
 優しい見方をすれば、おばさんは、きっとそれまでの頑張りすぎの反動で、何かが心の中で、燃え尽きてしまったのだと察することは出来た。何もかもが嫌になってしまったのだと。
 察することは出来たけれど、私は、おばさんを許せなかった。私は優しい人間などではないのだ。おばさんの、ポチという命に向き合う気持ちの軽さを、許せなかった。どうしても、納得できなかった。
 おばさんには、この後も、きちんと世話をするからポチをうちに譲ってくれと、何度もお願いした。母からも言ってもらった。でも、浅川のおばさんはポチを譲ってはくれなかった。えさもやらず、散歩にも連れて行かず。排泄物の始末や、ブラッシングもしてやらず。おばさんはただ、ポチが弱って死んでいくのを待っているように、ハナミズキの木の下にポチを放置し続けた。
 
 ハナミズキの白い花の季節が終わり、緑陰の濃くなる初夏。私は決意した。 ポチを、解放してあげようと。それが、戻って来られない場所への旅立ちであっても。
 殺鼠剤は高価だが意外にあっさりと手に入った。通信販売で、サプリメントのついでに購入するような感覚で。えさに混ぜてもポチが不審に思わないほどの少量で効果が得られるもの、そしてもちろん、即効性のものを私は選んだ。 ポチに余計な苦しみを与えたくはなかったし、私にはポチが毒に苦しみ死に至る様を、害を成した者として見届ける義務があると考えたから。
 そのころ、ポチの世話は私が、浅川のおばさんの黙認の下やっていた。えさに散歩、小屋周りの掃除やブラッシングなどなど。ポチは以前のように毛艶が出て、やせて骨の浮いていた背中にも少し肉がつき、すっかり元通りの可愛らしい飼い犬の姿を取り戻した。
 死んだ姿がみじめに痩せこけた野良犬のような様子ではあんまりだと思ったので、私は出来るかぎりの手間をかけ、ポチの世話をした。
 そして、これで大丈夫と思えるようになった頃に。
 私は数日間、故意にえさの量を少なくしておいて、慢性的にお腹をすかせたポチに、毒の入ったえさを与えた。もしもポチがえさの異常に気がついたり、死なずに何日もただ苦しむだけだったりしたらどうしよう。そんな私の心配は、必要のないものだった。
 その日の夕陽は、溶けたガラスをこぼしたようにとろりとして、いつもよりどこか、赤い色に感じられた。ポチは私が目の前においてやった毒入りのえさを、「よし」の合図ももどかしそうな勢いで食べた。ボールに顔を突っこんで、それまでの数日より量の多いドッグフード。その中の見慣れない粒状のものが殺鼠剤だなんて、毒だなんて、思いもしない様子で一心不乱に食べた。背中に夕陽の最後の輝きを浴びながら。
 きれいになったボールを未練たっぷりに舐めていたポチが、顔を上げて私を見た。
 きっと、ポチが目にした私は、異常な様子だっただろう。口を震える両手でふさいで叫びそうになる声を抑え、今にも腰を抜かしそうにふらふらとしながら、目だけはしっかり、ポチの口許を睨んで…。
 これは、いけない。これでは、ポチが不審に思う。ポチが最後に見る私を、笑顔で残したい。
 私は深呼吸を繰り返し、震えをなんとか収めると、逃げ出したくなる気持ちと戦いながらハナミズキの木陰に膝をつき、ポチのほうに手を伸ばした。「ポチ、きれいに食べたね…えらいね、いいコだね」
 握りしめてこわばった指を開いて腕を伸ばす。ポチは私の指を舐めようとこちらに数歩、寄ってきた。その歩みが鈍いように見える。気のせい? 毒がまわり始めたの? 
 私の指が届くところまで一歩の距離を残し、ポチは突然、背中を丸め咳をした。
 ガッ! ガッ! と、苦しそうに、いま食べたものを戻そうとした。濁って白いよだれを流し、よろけたポチがとうとう、よこ倒しになる。
 そこまでが、やっとだった。限界だった。もう、見ていられなかった。
 私は、声を上げないよう服の袖をかみ締め、その場から逃げた。必死で、逃げた。それまでのどんな覚悟もぼろぼろになっていた。
 私はポチの最期を、看取れなかった。
 ポチはきっと、苦しみながら孤独に死んでいったのだろう。私は、臆病な殺害者だった。
 翌朝。ポチの亡骸は、浅川のおばさんのいたって事務的な処理によって浅川家からなくなった。市の大型ゴミを個別に取りにきてくれる軽トラックが、他のゴミと一緒に、ポチの遺体の入ったダンボールを荷台に積み運び去った。 私は学校に行っていてそれは知らなかったのだけれど、その時間、家にいた母から聞いた。
 おばさんは軽トラックがポチを乗せて去ってゆくのを、細く開けた玄関ドアの隙間から見ていただけだったらしい。

 ……言えない。やっぱり言わない。
 罰が伴わない罪の、告白はきっと、許されない。
 拓巳くんには、浅川家の誰かには、言ったところで仕方ない。告白したところで謝罪の気持ちはないのだもの。謝らないなら言わないほうがまし。知らせないほうがいい。
 罪を背負ったまま生きる。そう、私は誓ったから。
 結局は使わなかった携帯電話を机に置いて、私はベッドに横になった。  

 夏休みが始まり数日した午後、私は拓巳くんに携帯電話で呼び出された。
 仕事で調べものがあり、図書館を利用したいということだった。
「あんまり俺、そういうところに縁がなくてさ。さやかのよく行く図書館でいいから、使いかた教えてくれない?」
 私が現役の大学生だというので白羽の矢が立ったらしい。うちの大学の図書館でいいならと、私は承諾した。正直に言えば、わたしはこの数日は外出を避けたかったのだけれど。
 母のお腹はふくらみの中心が下がってきていた。おなかの形が変わったことに驚く私に、母はお腹の中で胎児がいよいよ、生まれいずる準備を整えているから、と教えてくれた。
「いいわよ、行ってらっしゃいよ、さやか」
 私がやはり外出は断るべきかと迷っていると、母は台所に立ち、いただき物の枝豆を茹でながら言った。
「わたしが一人の時にもし陣痛が来ても、ちゃんと病院に行けるわよ。初めての出産じゃないんだもの。どうしたらいいのか迷うこともない。大丈夫よ」 あまり大事にして動かずに過ごすのも、経過が順調な妊婦には良くないという。だから八割がたの家事は母がやってくれている。
「でも…」
「わたしがさやかを産んだ時は、大学の講義の最中に陣痛が始まったけど、ちゃんと病院まで自分の足でたどり着けたし、お父さんにも自分で連絡したんだもの。今度だってどうにかなるわよ」
 母は私を産んだ当時、はたちの大学生だった。
 大学でサークル活動を通じて出会った父も、同じ学部の四年生だった。
 母は今回妊娠して以来、私を出産した時のことやら子育て中の出来事を、よく話してくれるようになった。私が小さい頃から進学塾で講師をしている母とは、やっとゆっくり会話することが出来るようになった。
「…私がいても役に立たない?」
「そうねぇ。…いてくれれば心強い。でも、実際に何か役に立つことをしてもらおうとは、思っていないの。さやかには今よりむしろ、産んだあとのほうに期待してるわ。きっとわたし、さやかを産んだ時ほどの頑張りはきかないと思うのよ。赤ちゃんのお世話だけで手一杯になるかも。毎日の買い物や掃除に洗濯、もしかしたら夜中のミルク作りなんかも頼むかも。覚悟してね」
 だから今のうち、もっと気軽に外出していらっしゃい。そう気遣ってくれている母の笑顔に送られ、私は拓巳くんの待つ、大学の図書館に向かった。
 午後の図書館は夏休み期間中のこともあり、利用者は少なかった。
 拓巳くんは図書館の静謐な雰囲気に圧倒されている。私は調べたい資料の具体的な書名も定まっていない様子の彼を、資料探しのプロである図書館職員に早々に引き渡してしまった。入学からの約四ヶ月の図書館通いで、顔馴染みになった調査係の彼女なら、わたしがするより短時間で的確に、拓巳くんの求める資料を探し出してくれるはずだ。
 拓巳くんのいるレファレンスカウンターを見渡せる場所で、私はソファに身を沈めた。ここで待っていれば、拓巳くんを迷子にしないで済むだろう。持参した、読みかけの文庫本を開く。
 ……ある女の子に拾われた幸せな子犬。年月の経過とともに変わってゆく家族。そして「ボク」こと飼い犬のムクと自分の余命を知ってしまった、持病を抱えた「にいちゃん」とのあてのないふたり旅が、ムクの視点で描かれる……。
 夏休みの課題に、動物が出てくる文芸作品の読書感想文を書かなくてはいけない。そのためにこの数日、持ち歩いている文庫本だ。犬を不幸が襲うとわかっている作品は読むのがつらく、ページを繰る手が止まる。それでも犬が出てくる作品を、私は読むべきだと思った。ポチも、それを望んでいると思うから。
「お待たせ、さやか。ありがとうな」
 資料をコピーした紙の束をケースに入れて、拓巳くんが戻ってきた。満足そうな様子から、調べものがうまくいったことがわかる。
「もういいの?早いね」
「うん。図書館の職員さんのおかげで。それ、何の本?」
 バッグに入れようとした文庫本を、拓巳くんに見つかった。
「あ……、学校の課題なの。感想文を書くの」
「ふぅん。さやか、昔から勉強熱心だったよな。朝早くからいつも勉強してて。部屋の明かりが点くから知ってたんだ」
 おれはさやかが起きだす頃が、寝る時間だったなぁ。と、拓巳くんは苦笑いした。
「そうだよ。あれから、拓巳くんとおばさんが引っ越して行ったあとも、ずっと私はまじめに勉強してきたの。だから親孝行にも国立大学に通えてる」
 浅川家のさいごの二人は、ポチが死んだ数週間後、公営の住宅に移るとだけ言い残して引っ越してしまった。その後、浅川邸は売り家になり、しかし買い手がつかず、そのままになっている。
「なあさやか、ポチのこと、まだ引きずってる?」
 いきなり直球が来た。
「そんなことないよ!急で孤独な、かわいそうな最期だったけど、私が獣医になりたいのとポチのことは別だよ?」
 日暮れ間近、建物の外に緑のイチョウ並木を眺め、私は犯罪者の持つ狡猾さの速度で、用意してきた言葉を選ぶ。
「そうかぁ。なんか意外。俺が引き籠るのをやめたのは、ポチのおかげだから」拓巳くんは隣のソファに腰を下ろした。
「ポチは拾われてきてからずっと、うちの家族を支えてくれていた。ポチがいたから、俺たち家族はみんなで笑い合えたし、助け合ってこられたんだと思ってる。俺が交通事故に遭うまでは。そのあとの、うちの傾きっぷりはすごかったからそれこそ、ポチがいてくれなかったらって思ったら…」
 拓巳くんは左脚をゆっくりさすりながら続けた。
「で、ポチが死んでいなくなって、やっとこのままじゃいけないって気がついたんだ俺。もう母さんを支えるのは俺だけなんだ。俺の望んだようにじゃなくても、俺のために必死になってくれた母さんを、俺が護るときだって」
 何だか都合のいい解釈ではないかと、私は少しひっかかった。ポチもひとつの命だったのに、まるで浅川家のための「お守り」みたいな言い方だ。
「ポチがさいごに教えてくれたから、俺は今の自分を見つけられたんだと思う」
 ……ポチはこの拓巳くんの言葉を聞いて、果たして喜ぶだろうか。うれしげに誇らしげに、尻尾を振るだろうか。
 ああ、きっと、嫌な気はしないだろうな。ポチは人が好きだったから。浅川家のみんなの笑顔がただただ、大好きだったから。
 ポチが生きてここにいるのなら、今のこの拓巳くんを黒いきれいな瞳に映し、尻尾を振って彼の足許に体を擦りつけに行くだろう。きっと。
「仕事、たのしい?」 ひとつだけ、聞いてみた。ポチも聞きたいだろうこと。
「ああ。まだ使いっ走りの仕事しか回してもらえないけどここで頑張っていきたいって、思う」
 拓巳くんの声に、陸上選手だった頃の凛とした響きが戻っていた。それを聞き、私の心の中にいるポチが、しゃんと澄ましてまっすぐ座り、ワンッ! と一声吠えた気がした。

 帰り道、拓巳くんを大学の駐車場まで送ってきたところで、携帯電話が私を呼んだ。この着信メロディは家族からだ!
「はいっ!お母さんっ!」確信があった。母からだと。
『大きな声ね。びっくりするわ。さやかが家を出てすぐ、陣痛がきたのよ。お父さんに連絡して、もう病院に連れてきてもらってるの』
「そうなの!大丈夫、お母さん…?」
『入院したら、あとは産むしかないわ。いやぁね、今頃になって鮮明に、さやかを産んだときのもっのすごく痛かったのを思い出しちゃった。じゃあ、さやか、慌てないけど、家に誰もいない、から、用が済んだら…病院に来てね』「すぐ行く! すぐそっち行くからっ、おかあさんっ!」
 会話の後半、母の息づかいが苦しそうになっていくのが感じられたあと、通話が切れた。
「いまの、さやかんちのお母さん?どっか具合悪いのか?」
「入院したって。赤ちゃん産むの。お願い!拓巳くん、私を病院まで連れてって!」
 私があと数時間のうちに姉になることを話すと、拓巳くんはいとこたちが見せたのと同様の様子で、びっくりしていた。
「いや、確かにおばさん若いけど。産める年齢なんだろうけど、まさかそんな。あ、おめでとう。いやぁ、おめでとうって言いそびれるくらいびっくりした」
「ありがとう。私も、最初は何の冗談かと思ったけど、今はもう……、おかあさんも赤ちゃんも無事に出産が済んでくれたら、それで――」
 拓巳くんは快く頼みを聞いてくれ、彼の運転する車は、私を父母がいる総合病院へ向けて運んでくれていた。
「よかったな、さやか。俺ちっちゃい頃から放課後さやかが一人で遊んでたの知ってるからさ。休みの日も家族で出かけたりしない日はやっぱり、一人で家の前で遊んでたり。一人っ子って暇そうだなって思ってた」
「一人っ子だって、楽しいことや得なことはいっぱいあるんだよ。それと私にはポチもいた」
「うん。でも、そのポチもいなくなってさ。あの家を出てから、さやかがどうしているか、たまに気になってた。寂しがっていないかとか」
「私はいつも通りだよ。弟か妹が生まれるって判ってからは、張り合いが増えた。この歳の差じゃ、きょうだい喧嘩とかはできそうにないけど」
「公園とか連れてったりする?」
「うん―─」 言いながら気づいた。拓巳くんは私の不安になる気持ちを解きほぐそうとしてくれているのかも。
「ママさんたちに混ざって子供同士で遊ばせたり、ベビーカーを押して商店街を連れて歩いたりしてみたい」
「若いママさんですねって、言われたり?」
「いいね、それ。格好いい!」 自然に笑顔になれた。
「さやかんちは…しっかりしててくれよ。俺んちみたいに崩れるな。きっとポチも、さやかを見守ってるから」
 正面を見て運転してる拓巳くんが少し早口に言った。サングラスをしていて、表情は見えなかった。

 市立の総合病院。ここは私が生まれた病院でもある。
 私の生まれた瞬間に立ち会ってくれた助産師さんが、なんと今回も母に担当としてついてくれていた。
「松本さぁん、さやかちゃんが飛んできたわよ」
 廊下を走って産科の前まで。母はまだ分娩室に入る前の段階で、学校の保健室のような部屋のベッドに座っていた。
「きちんと用は済ませてきたの?」
 病院内は空調がよく効いているのに、母は額にぷつぷつと汗の玉を浮かべていた。こころもち、顔色が白い。
「うん。もう帰りがけだったの。ここまで、拓巳くんに送ってもらった」「それでこんなに早くついたのね」
「さやかちゃん、お母さんね、まだしばらく陣痛に間隔があるから、もう少しこの部屋で頑張ってもらってるの。しばらく付いていてあげてもらえる?」「はい。あの…父は?」
「おばあちゃんたちに、電話で…知らせに行って、もらってる。さやか」
 母が苦しくなってきた息の合間に私を呼んだ。
「腰、さすっててちょうだい」
 言われるまま、ベッドに横向きに寝た母の腰に手を当てた。汗に湿って温かい。
「もっとしっかり! さやか。さやか、よく…見ておいてね! どんな生き物もみんな、お母さんが、こんなに大変な思いをして、この世に……生まれてくるのよ、ああっ! もっとしっかり押してってば!」
 普段の母なら、こんな大きな声で怒鳴らない。私は母の剣幕に圧倒されて、握りこぶしで必死に母の腰を押しさすった。やはり出産は本能の領域で、いま母は一個の命の器になっているのだ。
「松本さん、もうそろそろだと思うから、分娩室に移る前に一度、内診させてね」
 どのくらいの間、力を込めて母の腰を押していただろう。そう言いながら、カーテンの向こうから若い小柄な女医さんが現れた。
「じゃ、お嬢さんはお疲れさまね。廊下に出て、お父さんと待ってて」
 われに返ると、私も母に負けないほどに汗まみれになっている。タオルを貸してもらって廊下に出ると、父が待合ソファの横に立っていた。
「さやか、お疲れさん。お母さんを手伝ってたのか」 助産師さんに聞いたよと、父は微笑んだ。
「汗かいちゃった。お母さんはもっとだけどね。……お父さん、座ったら?」「いいよいいよ。さやかが座っとけ。おれは、立って待ってる」
「おばあちゃんたちとは、連絡とれたの?」
「ああ、どっちの実家もあした来るとさ」
「結構クールだね」
 両方の祖父母とも、それほどの遠方というほどではないところに住んでいるのに。自分たちで自動車を運転したりもするのだし。
「おれたち一家を認めてくれてるんだろうよ。ちゃんと自分たちで出来るって。まあもう、孫の誕生なんて、めずらしくもないしなぁ」
 父は大学を卒業後の進路を、本社が東京で転勤ありという条件だった一般企業の内定を蹴り、母の実家に誠意を見せるため、堅実な公務員の道を選んだと聞いた。大学を休学した母と赤ちゃんの私を抱えて若い頃からずっと頑張ってくれたんだと、感謝している。
「ねえ、お父さん。お父さんたちもしも、私が出来なかったら、結婚してた?」
 どうしてこんなところで、こんなときに思い出したのか。そして口にしたんだろう。私は翔子さんの事件があってから時々考えていた疑問を初めて言葉にしていた。
 翔子さんが殺してしまった彼女の子も私も、交際中の男女が思ってもいなかった妊娠で授かった子だ。なのに、翔子さんの子は虐待を受けて死んでしまった。私はこうして生きている。出発点は一緒だろうに、どこで違ってしまったのか。
「してたよ、たぶん。おれにはお母さんしか『玲子さん』しかいないとわかってたから」
「子供が出来たのと結婚と、順番が逆でいやじゃなかったの? おじいちゃんに会いにくくなかった?」
 浅川家に来た翔子さんの彼の、後悔と書いた透明の紙を張り付けたような無表情を思う。
「そりゃ!玲子さんの親父さんに挨拶に行った時は、もう生きた心地がしなかったけど。一緒になればいつかは子供も授かるんだろうし、早すぎて玲子さんには苦労かけたけどさ。さやか…」
 父が私の顔色を窺うのがわかった。
「さやか、もしかして自分のせいでお父さんとお母さんが仕方なしに一緒になったとか、思ってるのか?」
「……浅川さんの、翔子さんみたいなこともあるじゃない。あの子は何のためにこの世に生まれてきたんだろうって。あの子も私も立場は一緒なのに」 想定外に授かったという点で、一緒なのに。
「あれは、あの家庭はきっと、お互いを思いやる余裕が二人になくて、そのしわ寄せがいちばん弱い子どもに行ったんだろうなぁ。おれもさやかのちっちゃい頃は仕事で必死だったから、家族サービスとか充分じゃなかったかもしれないけど。しんどい時は玲子さんとさやかの姿を思い浮かべて頑張った。おかあさんだって、さやかを産んだ自分の選択を正しかったって思うために頑張っていたと思うよ」
「私は負担じゃなかった?」
「なぁに言ってんの!」
 突然の大声に、私たち親子は廊下を行く看護士さんにキッと睨まれた。
「子どもなんてのは、多かれ少なかれ負担は負担なの、親にとって。負担だからいらなかったとか、虐待して殺しても仕方ないなんてことない。必要だったんだよ。そこにいなくちゃいけなかったから、子どもは生まれてくるんじゃないか。せっかくの授かりものを、大切に育てないでどうするのさ。おっまえ、大学生だろ? 動物のといえども、命をあずかる医者になるんだろ? もっとしっかりしてくれよ」
「…うん」
 父の手に頭を上から押さえられる。ぐしゃぐしゃと乱暴に頭をなでられた。 その力強さが、私の存在を引き受け育ててくれたんだと思えた。少しだけ。少しだけ心が、軽くなった気がした。

 分娩室に移された母は、1時間足らずで女の子を無事出産した! 
 予定日より十日ほど早かったためか、まだ名無しの「松本ベビー」はやや小さめだったが、それでも元気に産声をあげ、私たち家族を安心させた。
 母子ともに問題なく迎えた退院の日に「松本ベビー」には「かおる」という名前がついた。
 かおるはよく飲みよく眠る、親に楽をさせてあげられるいい子だった。
 八月も末のある午後。私が夕飯の買い物から帰ると、かおるが泣いていた。新生児期特有の、甲高い大きな泣き声は玄関のドアを開ける前から耳に届いていた。
 大急ぎで台所に荷物を置いて手洗いを済ませると、かおるのベビーベッドが置いてある部屋に走る。薄い肌着一枚で転がされている赤ん坊は手足をばたつかせることが出来るようになり、体中で不快を訴えていた。
「おむつが気持ち悪いのか、かおなかすいたのか、それとも部屋が暑いのか寒いのか…どれが正解?」
 言いながら紙おむつの様子を見ると、ぷよぷよになって膨れている。
「おむつだね。代えてあげるよちょっと待ってね」
「ああ、さやか、ありがとう。知らないうちに寝ちゃってたわ」
 母が額をこすりながら部屋の入り口まで来て言う。
「いいよ、お母さん。おむつかえくらい出来るよ」
 母のやり方を見て、憶えている。おむつの交換を終えると、私はまだぐずるかおるの後ろ首をそおっと支えて慎重に抱っこし、窓辺に寄った。
 窓の外には浅川家のハナミズキが濃い木陰を作っているのが見える。ポチにも、うちの様子は見えているだろうか。
 ―─ポチ、この子がうちの、新しい家族だよ。かおるというの。見えている?
「ほら、かおる。外は暑いんだよ。もう少し大きくなる頃には、涼しくなって散歩も出来るからね。行こうね、一緒に」
 泣き治まってきたかおるに、まだぼんやりとしか見えないだろう景色を窓から見せた。
「さあ、お腹がすくまでもう少し、寝ててもらうよ」
 ベビーベッドに下ろす。ついでにやわらかいほっぺをつっと撫でてみる。くすぐったそうに背けた顔が、にいぃっと笑った。生後ひと月足らずがたち、月齢なりのきちんとした反応が返ってくるようになったのが面白くて、今度はかおるの手を観察してみた。握り締めている指を解く。
 朝、沐浴させた時は開かせて洗ったのにもう、手のひらには小さな綿ぼこりを握っていた。
「こんなに小さい手でも、しっかり手相があるのは面白いね」
 誰にでもなくつぶやいてかおるの手をきれいにしてやる。
 そのとき。かおるが私の指を握りこんだ。
「あ…」驚いた。意外に力がある。
 握られた指をそのままにしてどうするのか見ていると、きちんと私のほうを見て、かおるがにっと微笑んだ。そして目を開け私を見、もう一度、目を細めて笑う表情をした。
 まだものも言わない、非力で純粋な存在が私に、笑いかけた。そのことが、うれしくてただただありがたくて、指で繋がる小さな命に許されている気がして。私は少しだけ、すこしだけ泣いた。 


 夏休み明けの初日の、最終の講義は語学だった。
 語学はクラス単位での受講だ。講義の終了後はいきおい、ホームルームのような雰囲気になる。
「松本、美味い土産が欲しいって言ってただろ」
 クラス委員大沢が満面のドヤ顔で通路をこちらに寄ってきた。
「まっちゃん、人気のお土産をちゃんとリサーチして買ってきたんだからね。感謝しなさいよ!」
「さやか、和菓子より洋菓子がいいんでしょ? これ絶対おいしいから。同じのあたしも買って食べたんだ」
 そう言ってみんなで手渡してくれたのは旅行先にある本店以外での販売をしていない有名店の、焼き菓子の小さな詰め合わせだった。
「あ、ありがとう、みんな。ホントに買って来てくれるなんて思ってなかったのに……」
「だって、さやか、家の用事で大変だったんでしょ?」
「その歳で初めてお姉さんになるなんて、貴重な体験過ぎだって」
「大沢だけに話すなんて、水臭いじゃないの!」
「そうよそうよ。なんで大沢くんだけに特別に教えるのよ、さやか」
「だって…ほら、うそみたいな話だし、あんまり、知られたくなかったんだよ。もうっ、大沢、何でみんなに言うの!」
「いや、おめでたいハナシなわけだし、いずれみんなの知るところになるんだよ、こういうことは」
「学園祭とか連れてきてよ、妹さん。写メ撮ってないの?」
「連れて歩いて、自分の子だって言ったりしても、通用しそうだね」
 わいわいがやがやと、自主的なホームルームは続く。
 私はそろそろ電車の時間が気になってきたので、席を立った。今日も早く帰って、夕食の準備をしなくてはいけない。
「ほんとにお土産、どうもありがとう。大事に食べるよ。また明日」
 駅までの道を走り、電車に乗って、家路を急ぐ。不意のいただき物がなんだかとてもうれしかった。
 通い慣れた商店街を抜け、我が家に向かう。母に報告しよう。けど、その前に。
 私は浅川家の庭に足を踏み入れた。
 ハナミズキの木陰はもうすぐなくなる。秋になり葉が紅葉すると、そのあと木の下には木陰ではなく落ち葉のじゅうたんが出来る。
 ぽつんと忘れられたポチの小屋。私はいつものようにハンカチを敷き、もらったばかりの焼き菓子をひとつ、包みから出して上に乗せた。
 ―─ポチ。おいしいんだって、このお菓子。私もあとでもらうから、ポチにも一つ食べてほしいんだ。ポチ、拓巳くんはきちんと仕事をして、元気でやってるよ。よかったね。そうそう、もう少しして気候がよくなったら、うちの妹を連れてくるよ、ここに。
 ポチ、私が…。ポチの命を奪った私が言うのはおかしいけれど、ポチのことは忘れないからね。
 ずっとずうっと、忘れないから。
 だからポチ。ポチも私を見ていてよ。
 ポチに約束したとおり、優秀な獣医さんにきっとなるから。

 あの木陰にいたポチは、ここにいる。わたしのこころの片隅に。木陰のポチを、私は今もこれからも、ずっと背負って生きていく。