桜梅的芸術論#3 『爽快』

 たまたま退勤時刻が友人と一緒だったので、彼の提案で、駅前にいつの間にかできていた居酒屋へ行くことになった。
 大体定刻通りに上がり、更衣室へ行くと彼がいた。「探していたのか」と問われ、「そうではない」と返し、「更衣室へ入るのを見ていた」と意味のない嘘をついた。

 往々にして白々しい嘘をつく。
自分には才能が無いのだから仕方がない。などと言うときは、たいてい悔しがる素振りをして内心孤高を信じているものだし、頭に血が昇っても、ぐっと堪えてつばを飲み、シニカルな嫌味ったらしく自業自得と笑ったりする。
 往々にして、そんな嘘をつく。

 前回、作品とは何だと考えた結果、そもそもそんなものは無かったのという結論になった。誰にも話していないが (話すような相手もいないが)、 昨日久々に絵を描いて、やはりその考えがチラついて、自分は誰だ?ということを布団の中で考えていたら、いつの間にか眠っていた。
 あまり考えたことは無かったが、他人は何を考えながら絵を描いているのだろう。案外何も考えてなかったり…。

 そんな状態だが、久々に線画まで辿り着いた。(Twitter参照)
 頭使って生きてかないとなぁ…。
 
 自分の絵について話すことが、どうしても昔から苦手だが、あんまり短いのもどうかと思うので少し話してみようと思う。(尺稼ぎ乙)
 実際、誰しも、あらゆる所から影響を受けて、その積載の上に新たな絵を作り、それをも積載の一部にしてはまた生きていくものだ。
 人物と背景の輪郭を同じ太線で一体にして囲うのは、アルフォンス・ミュシャから。ずっと昔、初めて見た時の複雑な心境はとても一言では言えない。焦がれる程愛しく、反吐が出る程妬ましく、爽やかな敗北の中で一生の忠誠を誓うような、とにかくそんな気持ちだった。
 誰かの作品からインスピレーションを受けて、参考にする内にいつの間にか我が物として振る舞えるようになる。
 この世の全て、あの世の全てさえもアイデアと成り得る。経験も感情も、あらゆるものに注視し、そして作品にする為には愛さなければならない。
 熱狂的な幻想から生まれるもの、私が行っているのは、そこに見えるものの模写である。
自分は、そこから生まれるものを信じているし、それが芸術であると思う。

 それが、外部からの影響であったとしても良いのではないか。私のは悪い言い方だった。『音楽からの指示』と『インスピレーション』との間には、己の実力であるか、との疑念が挟まっていたような気がしていたが、そうではなく、『インスピレーション』こそが『音楽からの指示』だったのだ。

 清々しい気持ちである。今日からまた、楽しく絵が描けそうだ。

 

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