桜梅的芸術論#2 『幻肢』

 名作のような書き出しを思い付こうと悩んでしまう。書き出さなくては何にも始まりはしないのに、でも実際、なにを書けばいいか分からない。

何を描けばいいか分からないと昨日の自分。仕事からの帰り道、愛車(自転車)で風を切りながら、漠然とした其れが何なのかを考えた。描けるときは何があるのだろう。分かったことがあるので、ここに記しておく。

 偏執と音楽。ここでいう音楽とは、誰かの既存の作品。
偏執とは、ある一つの物事への異常な興味。ただし、大抵は作品が完成するやいなや急速に薄れてしまう。何時だって、過去作に関心が湧かないのは、この性分のせいである。

 いわゆる、〈ハマった〉曲ができると、さながらそれに指示されたように鉛筆を動かし始める。自分の脳のどこにこんな想像力があったのだろう?と終ってから疑問に思うことはあっても、最中は止まることなく描き続ける。
資料こそ用意すれど、幻想は、止めどなく色づき、咲き乱れ、あらゆる理想が継ぎ足されていく。

 私の絵は、”幻想の模写”である。ただ、夢のよう。

 濃い黒によって夢は胎動を始める。薄い線からただ一本の最適解を選び取っていく。やがてそれは”絵”の姿を形成し始める。
 濃黒、金、緑青やらの、細かったり溜まったりしたその糸の下、鉛のあとを取り去れば、そこは疑いようのない青空。
ここは桃源郷である。人生は、ここへ行くためにあるのだと思う。
好奇心の先、深い絶望の後、死ぬる程の嫉妬の底、息の詰まる程、ただもう美しいのだ。

 木々がざわめき始める。風が吹いて、花びらの色が分からなくなる。

 本当に、分からなくなる。
 何色なのか、分からなくなる。私は、何色のペンで以て続ければいいのか。数秒前まで見ていた景色が思い出せない。

 失敗が、不成功が恐いのだ。何度も私は、失望を繰り返し、其のたびに時間を無駄にした、と感じる。

 焦ってはいけないのに、幻想は冷静を受けいれてはくれない。どこまでも、わたしは堕ちなければならない。血眼で求めなければならない。さもなければ、たちまち幻想は崩壊するのだ。

 違う。そもそも、幻想という存在は私のものではない。それは、音楽からの指示ではないのか?
 きっと、私の作品などというのは、どこにもないのだ。私は、指示されていただけだ。
作品とは、何だろう?
自分の心から生まれたものを写したものが作品だとしたら、私が、自身の作品と呼んでいたものは、幻肢だ。
作品とは何だろう。どうすれば、作品になるのだろう。
 
 整理のために考え始めたのに、ますます分からなくなった。
さて…どうしたものか。

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