聖書はもういらないの?
「聖書はもういらない」 野原花子 幻冬舎
アンチなタイトルなので、つい読んでみたくなった。
これは論証ではなく、著者が壮絶な苦しみの末に辿り着いた結論だった。もちろんそういう結論を出すのもわからなくはない。個人的なことに口を出すつもりも毛頭ない。とはいえ、こうしてアンチな体をとった本となっている以上、聖書を信じる信仰を持つ者としてどう考えるかを示す必要があるだろう。
歪んだ教え
キリスト教徒にはいくつかの「流派」のようなものがある。ここでは大きくカトリック、プロテスタントリベラル派、プロテスタント福音派の3つに分けてみよう。著者は、プロテスタント福音派だ。ちなみに僕もそうだ。カトリックやリベラル派と比較すると、福音派は聖書をそのまま文字通り信じる信仰を持っていると理解されている。そのため、著者が信仰に躓いたという場合、それは聖書そのものが悪いと判断されやすいことになる。だがしかし、個人の体験を普遍化するという営みは、注意深くなされる必要がある。著者の体験がいかに悲惨であろうと、よしんばキリスト教の歴史がいかに黒かろうと、それで直ちに「聖書が間違っている」ということにはならない。「それはまた別の話」なのだ。
一読してすぐわかるのは、著者が信じている「聖書の教え」が明らかに歪んでいることだ。著者はこう書いている。
全ての問題の発端がここに書かれている。最初から、聖書とは違う教えを指して「こんな教えは違う」と言っている。それはその通り、違う。「本当は人生を・・」以下を聖書の教えだと思い込ませているものこそ、著者の言う「マインドコントロール」の正体なのだ。著者の心の洗い出しという点では良かったのかも知れないが、それを普遍化するのは性急だ。
歪んだ教え
献金や奉仕は、教会や信仰を支える大切なものには違いない。だがそれを、上記のような「信じるだけで救われるのではなく、それらが必要」という文脈で使うのは、かなり歪んだ聖書の見方である。いきなりカルトっぽくなるのだ。本当は、献金や奉仕は「救われた者が」するものであり、「救われるために」するものではないのに、それを取り違えている。「救われるために」するなら、著者のように疲れ切ってしまう。延々頑張り続けなければならないのだから当然だ。
でも聖書はそんなことは言っていない。聖書のメッセージはあくまで「信じれば救われる」である。
著者が「・・だけではなく、本当は」と信じていたのであれば、そう教えた人がそれを付け足しているのである。著者は残念なことに、初めから、それが聖書の教えであるかのように装った、歪んだ教えを信じさせられていた。そのように歪めて教える人、それが聖書の教えだと信じる人はいる。牧師に逆らってはいけない、疑問を呈してはいけない、奉仕や献金の実践で信仰を判断する、という教えである。そして多くの場合、彼ら自身もまた、誰か先の人による歪んだ教えを聖書そのものだと思い込まされている犠牲者なのだ。
キリスト教の黒歴史
本書が書き綴るキリスト教の黒歴史は、歴史を学ぶ人なら普通に知っていることだ。確かに、聖書の教えは利用されやすい。だから黒歴史というものがある。そしてアンチは、これらをすべて聖書そのものに原因があるとする。僕が驚いたのは、著者がそれまでの信仰生活の中で、この歴史に触れたことがないということだ。本書の最後の部分にこうある。
それが本人の意志に反してなのかどうかわからないが、情報遮断の怖さがここにある。僕たちは、この信仰を持っていない人が大多数の世の中で、反対する人も中傷する人もいる世の中で生きているのだ。自分が何を信じているかを本当の意味で知るためにも、いろんな情報に触れて、世の中における自分の信仰の位置付けを確認することは、大事だと思う。
聖書が利用されやすい理由
なぜ聖書は利用されやすいのか。聖書のテーマである「魂の救い」は、人間の永遠の行き先に関わる究極の問題だ。それをどう考えるかは、生き方に大きく影響する。何かを信じる人は、良きにつけ悪しきにつけ、強い。それは大きなエネルギーを生む。そのエネルギーをうまくかすめ取ることができれば、取った人の大きな利益になる。だから人はそれを利用しようとする。偽物の登場だ。
ダイヤモンドの偽物が出回るのは、本物が最高の価値を持っているからだ。本物の価値が高ければ高いほど、偽物を使うメリットは大きくなり、被害も大きくなる。被害にあう人にとっては大変迷惑な話である。だから、「もうだまされるのは懲り懲りだから、私はダイヤモンドに興味を持ちません」と言うのはその人の自由だ。しかしそれを「ダイヤモンドなんて価値はないんだよ」と言ってしまうのは、違う。むしろ、「偽物が出回るなんて、いいモンだっていう証拠だ」と言うほうが相応しい。
行いによる救い
真面目に教理的な側面から考えると、著者が信じていたのは「行いによる救い」という、聖書の中でイエスやパウロが批判している「律法主義」と同じ類の考え方だ。パウロは、ユダヤ人クリスチャンがこの考え方に侵されそうになるのを「異なる福音」「ほかの福音」と警告している。イエスへの信仰はそれだけで救いを完成させるものである。しかし教会はこれまで人々に、信仰「プラス割礼」、信仰「プラス洗礼」、信仰「プラス奉仕」、信仰「プラス献金」、そういったものを付け加えてきた。パウロも最も初期の手紙で「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか」(ガラテヤ人への手紙3:1、新改訳2017)と嘆いている。
聖書にはちゃんとそう書いてある。読めばわかるはずだ。なのにどうして「人生をかけて献金や奉仕やあらゆるエネルギーを捧げていくことになります」などと考えてしまうのか。なぜそれが誤りだと気づかないのか。2000年経っても相も変わらず。何と残念なことだろう。
「行いによる救い」は疲弊する
「行いによる救い」は人を疲弊させ、信仰の喜びを失わせ、本来良いものであるはずの福音を、暗く醜いものに変えてしまう。それが本書を読むとまざまざと実感できる。努力し続けないと救いが得られないと、「喜んでいるフリ」をし続けるのが「行いによる救い」の信者だ。辛い顔はできない。疑問も口にできない。不信仰は救いを失うことだから。それは苦しいだろう。疲れるだろう。そしてこの「救いは信じるだけではなく行いの結果与えられる」という考え方が、マインドコントロールを許してしまう温床となっている。いらないのは聖書ではなく、このように歪められた教えである。
しかし本当はそうではない。救いとは、忠実な信仰生活の結果与えられるご褒美ではなく、信じたときにただで与えられ、決して失われないもの、賜わり物だ。もう与えられているものだ。(ここが最も通じにくいところだろう)
「委ねる」とはいうけれど
本書にはこんな箇所もある。
「人生を捧げているのだから神は責任を果たすべき」というのは、「費用に見合ったサービスを提供すべき」のと同じ理屈だ。自分が神と対等か、むしろ「こちらは金を払った客」という言い方だ。何かおかしくないだろうか。信仰を捨てた今、そう考えているというなら理解できる。しかしこれは、著者が信仰の中にあったときに考えていたことなのだ。「神に従う、委ねる」と言っているキリスト者の態度としては、ちぐはぐだ。それが歪みである。それは神を主権者、支配者、創造者と信じる聖書信仰ではない。どこで歪んでしまったのか。それが最初に示した「信じるだけで救われるのではなく、本当は人生をかけて献金や奉仕やあらゆるエネルギーを捧げていくことになります」という部分だ。最初から、聖書を歪んで受け取っている。だから「救われるためにこんなに一生懸命やっているのに、こんな結果になるなんて」と、神を無責任と感じてしまう。神は、すでに救いを与えてくれた。それを受け取ったのがキリスト者であるはずなのに、そうは牧師から教えてもらわなかったのだろうか。そうは聖書から読み取れなかったのだろうか。
プラスしたい心理
「プラス何か」を聖書が言っていない以上、それは人が足したものだ。神の救いの方法は単純だ。信じる、救われる、以上。これがあまりにも単純すぎるために、「そんな単純なはずはない、何か要求されるのが当然」と思ってしまうのだろうか。世の中では何かを得るには対価を払うのが当たり前だから。それが献金だ、奉仕だ、信仰を形で表せ、そう言われると納得してしまい、本来「救われたから」するものを、「救われるために」必要なものに思ってしまう。こうして信仰「プラス何か」が入り込み、それが「聖書の教え」と信じ込んでしまう。神が救うと言ったのならどうしたって救うのに、勝手に「プラス何か」を付け足してしまう。要するに、単純すぎて信じられない。それが人間の心理だ。
アンチな本はいい。自分が何を信じているかを考えさせてくれる。なぜ人はそれを信じられないのかを、考えさせてくれる。