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関係性から紐解く「しんどさ」の形 ~ スティグマ解消に取り組む精神科医が語る、精神疾患の見方 ~ 精神科医・医学博士 増田 史 氏 (July 2023 Vol.007)


インタビューコンセプト

今回は、普段接する機会が少なく偏見が持たれがちな精神疾患についてです。精神疾患や傷つき体験を「しんどさ」と捉え、それがどういうものなのか、どのような「見方」ができるのかについてお話を伺いました。

インタビュイー紹介

増田 史 ⽒
精神科医・医学博士。滋賀医科大学精神科助教。脳機能研究や児童思春期を中心とした臨床を行うほか、精神疾患に対するスティグマ(偏見)解消にも取り組む。二児の母。

記事本文

「偏見」への気づきが精神科への道を開いた

遠藤: 福祉に関わるようになってから発達や心の問題に関心が高 くなっていたので、本日はとても貴重な機会をいただきました。まず、増田先生はなぜ精神科医を志されたのかをお伺いしてもよろしいでしょうか。
 
増田: はい。私はもともとテンションが低く不安感を抱きやすくて、子どものころは「こんなにしんどいのになぜ生きているのだろうか」と考えこんでいました。しんどいときは哲学の本を読んで慰めを得ていましたね。そういうことがベースにあるのですが、精神科医になろうと思って医学部に進んだわけではありませんし、医学部で勉強しているときも救急医や産婦人科医がおもしろそうだなあと思っていました。そんななか、医学部5年生のときにあった各科での実習の際、精神科での実習に一番衝撃を受けました。幼少期の頃、道で叫んでいる人がいると「あの人は精神病だから」、「精神科病棟に入ると出てこれない」などと聞かされたこともあり、実習に行くまでは精神科に対して偏見(スティグマ)を持っていました。でも実習に入った時、「みんなと同じ人」がここにいるんだということを知り、すごく驚きました。なんで全然違う人たちだと思ってしまっていたのかと恥ずかしくなりましたし、同時にこの思い込みは私だけではないと考えました。その思い込みをこのままにしておけないと考えたんです。実際、精神科にかかっている人たちは治療すると回復していきます。でも、スティグマのせいで受診すること自体にハードルがありますし、社会に出ることにもハードルがあります。精神科の実習で、この「ハードル」を何とかしたいと強く思いました。人が回復していく過程は不思議で、可能性があって、興味深いというポジティブな気づきもあり、そういう思いを持って精神科医になろうと決めました。


「トラウマ」から精神病を考えてみる

遠藤: なんで人間が精神病というものを発症するのか、すごく不思議です。先天的なものもあればストレスなどから発症するものもあると 思いますが、端的に、なぜ精神病が起こり得るのかを聞いても良いですか。
 
増田: わかっていない、というのが現状ですね。原因自体もわかっていないものが多いです。逆に原因がわかったものは、脳神経内科が診療することもあります。
 
遠藤: 精神病というより脳の病気というカテゴリになるんですね。
 
増田: 脳の病気という理解が進んでいます。例えば「てんかん」は、以前は精神科が診ていました。でも機序がどうなのか、どこに脳波の異常があり、顕微鏡で観察したとき脳の変化はどのように見られるかがわかってきました。認知症に関しても、現在は脳のどこに、どのようなたんぱく質が溜まるのかがわかってきました。そのような、脳への影響や機序が判明しつつある病気は脳神経内科が診るようになってきています。逆に、脳のどこが、どういう機序で、どのような異常があるのかがまだわからないものが精神科の診療対象となっています。
 
遠藤: まだまだ未知の世界なんですね。
 
増田: そうですね。重度のうつ病の治療に「電気けいれん療法」というものがあります。全身麻酔下で脳に電流を流すのもので、すごく効果が見られるのですが、実はなぜ有効なのかがまだ完全にはわかっていません。
 
遠藤: お話を伺う前に何冊か本を読んできたのですが、症状に重複したところが多く、そういった面でも曖昧さをはらんだ領域なのだと感じました。増田先生は診察するなかでどういうところを注意して診られているのでしょうか。
 
増田: 精神疾患って、診断概念がどんどん新しくなってきているんです。「ICD11」という診断基準では、新しく「複雑性PTSD」が追加されました。従来は、生死にかかわる事故や、強姦という単一の出来事に対するトラウマ反応が続いているものをPTSDと呼んでいました。複雑性PTSDは、本人が 非常につらいと感じた出来事が反復され、トラウマ反応を起こしているものを指します。もともとは戦争に行った兵士や、虐待といったものを念頭に置いた診断ですが、いじめにも当てはまってきます。また、明確な虐待でなくても、養育上の傷つき体験が繰り返され、それによるトラウマ反応を伴う場合も対象になる可能性があります。昔の傷つき体験が原因で今の症状が起こっている場合、薬での治療が難しいことがあります。その場合、傷つき体験自体をケアしていかないと良くなっていきません。そういう目で見ると傷つき体験が隠れている病態は多いと感じています。
 複雑性PTSDはフラッシュバックやトラウマ反応に加え、①気分変動も大きく出る、②自己肯定感が低い、③対人関係上の困難をきたす、という3つの症状があります。これって結局、うつ病に見えたり、双極性障害に見えたり、境界性パーソナリティ障害に見えたりするため、そのように診断がつく場合があります。今ある診断で症状の改善が見られない人については、トラウマの軸で見つめ直さきゃいけないと思います。
 
遠藤: 過去の傷つき体験が現在に影響をおよぼすという因果関係が根っこにあるんですね。
 
増田: それは以前から心理学では言われていたと思うのですが、精神疾患の診断は横断的で、「今ある症状が何か」で分類していて、その分類に対する薬が決まっています。遡って以前の体験を見つめ直すということが精神医療の分野では十分にされてこなかったんです。
 
遠藤: 極端なことを言えば、「忘れ薬」があったら解決するんですか。
 
増田: そうとも言えるかもしれません。自閉症スペクトラム障害がある方は、覚えやすいけど忘れにくいという特性を持ちます。それは良いことのように見えて、ものすごく困ります。ネガティブなことが残りやすいし、フラッシュバックを起こしてしまいやすいんです。でもまだトラウマケアの考え方は一般的ではないんです。
 
遠藤: 忘れ薬ができるまでは、過去のトラウマをどう捉え直すかがポイントになるのでしょうか。
 
増田: それはまさに議論されている最中です。リスクもありますから。もともとエビデンスがあると言われているトラウマ治療は、1回50分の治療を10回するようなものしかないんです。それだと医者は時間がとれなくて実施が難しい。心理士の先生はその治療をできるのですが、じゃあ医者が診察の中でもっと提供できるものはないのか、ということで現在開発が進んでいます。

伊藤: 精神科の先生に診てもらえる子もでも、頻度が1か月に1回とかですよね。そのわずかな時間に何ができるか、ということを考えるととても難しいと思います。だからこそ、普段の学校や家庭で大人が何をできるかということに関して、精神科医にアドバイスをもらって実践することが大事だと思います。
 
遠藤: 確かに、身近な環境において何ができるかですね。例えば、傷つき体験を持っている子どもと、その周りにいる大人で傷つき体験の捉え直しを試みても良いのでしょうか。心の問題に関しては素人が立ち入るものではないというイメージがありましたが、やはり危険なのでしょうか。
 
増田: 一番近くで見ている人たちが考えて行動することは良い結果を生むことが多いと、私は思います。診察室で月に10分会うだけの医者の言うことより信頼に足ることですし、恐れることはないと思います。トラウマを乗り越えるケアの方法として、物語にするという方法があります。出来事をストーリーにして、そのストーリーに対する見方を新たにし、「あの時の体験は実はこういう捉え方ができるんだ」と体感してもらう方法です。


 「今」の豊かさで、傷ついた過去を捉え直す

遠藤: 傷つき体験が虐待であったような場合、捉え直しができるものなのでしょうか。例えば、虐待による傷つき体験を持つ子どもと毎日対峙する大人にできることはあるのでしょうか。

増田: とてもあると思いますよ。毎日安定した気分で「そこにいる」ということ自体がすごく治療的です。親の機嫌に振り回されてきた子たちですから、気分が安定している大人に接することは希望になります。自分がちょっと気持ちをぶつけてもいなくならないし、揺らがないという安心感が得られますから。
 
遠藤: では被虐待経験そのものはどう捉えたらよいのでしょうか。
 
増田: その 経験そのものの捉え直しをする必要があるかと言われると、そうでもありません。例えば、「その関係性だけじゃなかったんだ」と思えるようになれればよいのではないで しょうか。虐待による関係は確かに自分を形作ったけれども、それが全てじゃないと思えるようになることです。
 
遠藤: 親ではないかもしれないけど、特定の誰かと深い関係性を結ぶことがひとつの契機になるんですね。
 
増田: 深い、かつ健全な関係性ですね。率直に言うと性的な関係にならないということです。ある程度年齢を重ねた子の場合、適切な距離の取り方を学ぶことが大切です。

「しんどさ」に、本人と周りはどう向き合えばよいのか

遠藤: しんどさを抱えている子の周りにいる人が何か行動を起こす際、ポイントになることはありますか。
 
増田: 当事者含め、関わる人たちの信頼関係は重要だと思います。
 
遠藤: 余談ですがちょうど最近、人を信じられないのは「絶対的な弱さ」と言えるのではないかとか考えていました。
 
増田: 信頼関係と弱さには相互に関わり合うものがあると思います。人とつながるときって「強さ」ではつながれなくて、「弱さ」でつながっていくんです。飲み会は、実は弱さを共有する場だったのだと思います(笑)

遠藤: なるほど(笑)。弱さを開示するタイミングはありますか?
 
増田: そういうことを語れる「場」があると良いと思います。ルールとして、今は語りましょう、批判せず聞きましょう、ここだけの話にしましょう、と。それがわかっていれば、ひとつ話せるタイミングになるのではないでしょうか。
 
遠藤: 周りにいる人たちの関わりや信頼関係が重 要な一方で、しんどいという思いを抱えている、しんどい境遇に置かれている子ども自身が、SOSを出せるようになれるきっかけはあるんでしょうか。
 
増田: それに関しては、「子ども側から」というのは無理があると思っています。大人の方が子どものしんどさに気づけるようになる必要があります。大人が気づくためのがんばりをやめるとまずいと思いますよ。また、大人が子どものSOSに気づくには、大人が自分で自分をケアできないといけません。自分にできないことを人にはできないので、まずはそこからですね。大人だからと言って無理せずに「ちょっとしんどいな」、「何か体の調子に違和感があるな」と感じたら、栄養ドリンクを飲んでごまかさずに、素直に体のサインに従って休んだりして欲しいですね。我慢する経験が積み重なると、次第に体の感覚や感情に鈍感になってしまいますし、今度は自分が後輩や子どもに我慢を強いる側になってしまいますから。
 
遠藤: 大人側の気づきが重要ということですが、著書「10代から知っておきたいメンタルケア しんどい時の自分の守り方」に、しんどかったら学校を休んでも良いし無理に社会に出なくても良いという内容もあったと思います。とはいえ、そのように過ごしていると社会で生きていくのが難しくなってしまうのが現状であり、親御さんはそこで葛藤を覚えられるようにも思うのですが、そこはどう思われますか。
 
増田: それは「個人が社会に適合できることを良しとする考え方」を前提にしていると思います。もともと私たちは好きで生まれてきたわけではないので、もっと堂々としていて良いし、あまり抱え込まずに快適さを求めていけば良いと思っています。例えば合理的配慮について。学校側の理解は進んでいますが、まだまだ積極的に理解を求める発言をしていく必要があるかもしれません。でも、それでその子が快適に過ごせるようになるのであれば発言していけば良いのではないでしょうか。引きこもる場合でも、快適に引きこもるというか、合理的に引きこもるというか(笑)。将来に不安があるのであれば早めに相談していけると良いですよね。相談される側のスティグマも減ってきたと思います。
 
遠藤: 今のお話を聞くと、まだまだ自分は頭が固い側にいるんだなと思いますね(笑)。おっしゃるとおり、「個人が社会に適合できることを良しとする考え方」で話していました。
 
増田: うまく社会を使っていく、くらいの認識で良いと思いますよ。精神科もそのためのツールとしてほしいです。

※読者に寄り添った、とても優しさに溢れた本です。


「関係性」を軸にしんどさや精神病を考えてみる

 遠藤: だんだん研究が進んできて、脳の病気とみなされたものは脳神経内科で診るようになってきた。けれど未知の部分が多い。そんな精神科の領域にあるような病気は「関係性の病」と言えるようなものなのでしょうか。
 
増田: そう言えることもあると思います。いわゆる「医学モデル」で考えると、個人のなかに課題や病気があると考え、「社会モデル」で考えると社会に課題があると考えます。車いすを使っている方がリハビリをするのが医学モデルに基づくケア、段差を無くすのが社会モデルに基づくケアです。社会とうまくいかないことで問題を起こす発達障害が最たるものですが、発達の特性を持つだけじゃ「障害」とはなりません。 特性があって、それと社会との折り合いが悪くなることで発 達障害と呼ばれるようになります。精神疾患で生じる困りごとの多くは、社会との関係性の中に生じてきます。
 
遠藤: なるほど。「社会との」関係性ですね。
 
増田: もちろん個人と個人の関係性が深く関わっていることもあります。でもわたしたちがより注目するのは社会との関係性です。
 
遠藤: 先ほど伺った「しんどくて学校を休む子と学校」も、社会との関係性ですよね。一方で、個人と個人の関係性において、よく課題が見つかるポイントはあるんでしょうか。
 
増田: 不登校の子だと学校との関係性、特に先生・クラスメイトなど、身近なところでしょうか。関係性の鋳型になっているのは親子関係が大きいと思います。
 
遠藤: 親子にせよ、2者だけだったら関係性がこじれたときにどうしようもないなと思いますし、そこに介入してくれる第三者が求められている気がします。
 
増田: そういった2者関係に埋没しそうなところをオープンにしていくのはひとつ重要ですし、かつとても難しいと思っています。「親子関係がうまくいっていない」ということを外部に出すというのが今の社会通念的に恥ずかしい・かっこ悪いと感じたり、そんなもの外部に出すもんじゃないと思われたりとか、そういう考えはまだまだ根強いですよね。
 
遠藤: 僕も、例えば自分と奥さんの関係とか、自分と子どもとの関係で第三者からフォローが欲しいと思うときがありますが、そういう介入をしてくれる人は周りにはいないですね。いてくれたらすごい助かると思うのですが。
 
増田: それは重要なことだと思います。第三者に入ってほしいと思えない人もいますし、子どもは第三者に入ってほしいとはまず考えないですよね。子ども自身が 親との関係においてしんどさを感じることにハードルがありますし、それを相談しようと思うことにもさらにハードルがあります。特に親子関係だとそれが子どもにとって最初の「全世界」になってしまうので、今の自分の境遇や今持っている関係性を「正しい」ものだと認識しないと、子どもたちはやっぱり生きていけません。そうなると、あまりよろしくない関係性でもいったんは受け入れざるを得ませんよね。
 
遠藤: たしかに。疑えないですよね、そこは。
 
増田: 疑えないと思います。それは新社会人と上司との関係性でも起こることかもしれません。
 
遠藤: そのことに対する解決策のようなものはあるのでしょうか。著書では、親はあくまで一人の個人だから親の言うことは全てではないし、ときに疑ってもいいんだよ、とあったと思いますが。
 
増田: 周りに他のモデルとなる大人がいることが ひとつの突破口になると思います。しんどい関係になっているということは親もしんどさを抱えているはずなので、親側をケアする必要もあります。
子どもがジュースをこぼした時に親がどう反応するかは、幼い時、同じことをした自分が親にどうふるまわれたかがベースになっていることがままあります。今、子どもを持つ親御さんでも、小さい時親に叩かれたり怒鳴られたりした経験があるなど、尊重されてきた経験が少ない方もおられるのではないでしょうか。まず「自分は結構ひどい仕打ちを受けてきたんだな」ということを見直さないと、同じことを繰り返してしまいます。

遠藤: 自分が受けたことを正当化しないということですね。
 
増田: そうなんです。正当化したくなるのですが、「自分はそんなふうにされなくてもよかったんだ」と見つめ直すことが大事ですね。
 
伊藤: 教育面からのアプローチも大切ですね。人権という概念、対話の重要性、自分の意見を伝えても良いこと、同時に相手の話も聞くことなどを、私も現場に入って少しずつでも子どもたちに伝えていきたいです。


「尊重」とは、他者の立場を謙虚に想像すること

 遠藤: 人権という概念や対話の重要性を浸透させていくにあたって、僕たちが「自分とは違う他者」を尊重したり理解しようとしたりするときに重要なことはありますか?
 
増田: 私は、他者を尊重するとは「想像力を働かせること」だと思っています。また、自分たちの想像力には限界があるということを謙虚に認めることだと思います。みんな他者の立場を勝手に想像して「いや、それは大したことないだろう」とか判断しているわけじゃないですか。それは自分の想像力を過信しすぎだと思います。私が妊娠・出産を経験したときも、「歴代の女性がずっと通ってきた道だから大丈夫だろう!」と思って自然分娩を選択したのですが、陣痛も出産も痛くて痛くて…。そのあとの子育ても思っていたよりずっとハードでしたし…(笑)。
 
伊藤・遠藤: ハードですよね…(笑)
 
遠藤: でも今の「ハードですよね」も、増田先生・伊藤さんの「ハード」と僕の「ハード」は違うと思いますが、この認識の差異は埋めていく必要があるのでしょうか。埋めていくとしてどうすれば良いのでしょうか。あくまで想像は働かせるけど、そこに謙虚さを持とうということでしょうか。
 
増田: そう思います。精神疾患のある方に対しても、「それくらいの不安大したことないでしょ」とか、「幻覚とか妄想も大したことないでしょ」とか、想像もできないのに、言えませんよね。でもそのしんどさの部分に共感することはできます。
 
遠藤: 陣痛の痛みも、男性は一回経験してみろとよく言われますが、「体験してみる」というのはどうですか。
 
増田: 体験ツールも開発が進んでいて、統合失調症の幻覚妄想体験VRツールもあります。ただこれは大体の勉強が終わった研修医の方に体験してもらっています。学生さんにも何度か体験してもらいましたが、患者さんと接した体験が乏しいため、レクリエーションのようになってしまい、上手くいきませんでした。ちゃんと勉強して、患者さんと接した研修医の先生に体験してもらうと、感想はやはりシビアなものになります。
 
遠藤: 体験のタイミングも重要なんですね。


「生きている理由」と「幸せになる」ことを考えてみる

 遠藤: 最後に、今の増田先生が子どもに「なぜ私は生きているの?」とか、「増田先生は何のために生きているんですか?」と聞かれた ら、どう答えられますか。
 
増田: そういえば聞かれそうで聞かれたことないですね。
 
遠藤: 思っている子は少なからずいると思います。無意識かもしれませんが。
 
増田: 子どもにそういう問いかけをされた時こう答えるかはわかりませんが、「生きる理由は無い」と思っています。根本的に「意味は無い」というところを押さえたうえで、よくわからないが「生きていることはありえないくらいの奇跡」だと思っています。
 
伊藤: 私の子どもには発達障害の診断があるのですが、最近その子に言われました。「元々好きで生まれてきていない。なんでこんな障害者に生んだんだ」と。それを聞くと母としてすごく悲しくなるのですが、まずは「ごめん」と言います。ただ私も「あなたを今のあなたに産もうと思って産んだわけではない。ただあなたは今『生きている』のだから、今を少しでも楽にできるようにしてみない?」という風に言います。発達障害のある子は、現実世界が苦しいからこそ、「生きている意味」をどうしても考えてしまうようなんです。私の子どもは「いっそ考える力も無く生まれたほうが自分は楽だった」とも言いました。でも「私にとってはあなたが存在してくれることはすごく幸せなことだし、生きる意味がよくわからなくても、今『生きている』のだから生きるしかないよね」と、そういう話をしていたことがありました。母にとっては生まれてきてくれたことが奇跡で、大切な命と思っていても、息子のような思いを抱えて生きている人たちにとっては、まだ「人生に快適さを求めよう」という段階になっていないのだと思います。多数派が生きている社会に適合して生きていきたいとも思っているけど、疲れすぎちゃうからできない。そういう葛藤の中で生きているんでしょうね。
 
増田: 「社会に快適さを求めてはいけない」というのも、そう思わされる社会であることがすごく厄介だと思います。欲望は抑圧しなきゃいけないという圧力を感じます。私自身、もう少し幸せになりたいと思うようになれたのって、ここ数年なん ですよね(笑) 。それまではそう思って良いなんて思ってなかったんです。
 
伊藤: 私が著書で一番印象的だったのが「幸せは自分でつかんで良い」というところでした。
 
増田: 幸せって、「快」か「不快」かということでもあるんです。不快で耐えているということが賞賛され続けると、みんな「不快で耐えている」という状態を選んでいくようになってしまいます。そうしたら親が喜んだり、周りが褒めてくれたりするから。そうなるとどんどん自分を不快に追い込んでしまいます。

遠藤: 確かに、「不快に耐えている」ということが賞賛される部分はあると感じます。でも、例えば僕にとっての「快」と、他者にとっての「快」がぶつかったときはどうするんでしょうか。
 
増田: 人権を侵害しない範囲で「快」であれば良いと思います。ぶつかるときは権利がぶつかっていると思いますよ。
 
遠藤: ここまでのお話であった、社会との関係性や想像力、弱さといったことを考えると、「権利」という概念をより明らかにしていく重要性を感じました。今日は貴重なお話、ありがとうございました。

編集者あとがき

編集者あとがき(遠藤)

 精神疾患を持つ方が現実に対して感じる「ハードル」。これはまさに、想像力と尊重が欠如した「認識の差異」だと思います。「人とつながるときは、『強さ』ではつながれなくて、『弱さ』でつながる」という名言がありました。僕は多様な関係者ができること(強み)を持ち寄り、協力して課題に立ち向かうことで社会が良い方向に変化すると考えています。ただ、それを真の意味で成し遂げるためには、まず私たちが「弱さ」によってつながることが重要なのだという気づきを得ました。それ以来、「弱さとは」についても考えを巡らしています。例えば、ある人が持つ弱み(内向的な性格、足が不自由であることなど)が社会との関係性の上で「生きづらさ」にまで昇華してしまったものが「弱さ」なのではないかと、最近つらつら考えていました。「弱さ」がどういったものであれ、謙虚な想像力と尊重をもって受け入れられる社会を考えていきたいと思います。今回もお読みくださり、ありがとうございました。

編集者あとがき(伊藤)

 増田先生に初めてお目にかかったのはコロナ禍の2022年5月。子ども支援に関する研修を主催される先生に協力するため、打合せに赴いた時でした。他職種連携をテーマに、日頃から感じている医療と学校現場とのズレ、それを乗り越える方法について話し合えたことは大変学びになりました。この時、医師の【権威性】についても話題にもなりましたが、医療と学校、福祉との連携を阻んでいる一因である医師側の【権威性】も、こちらが作り出している価値観に過ぎず、やはり直接会って話し、理解し合う事が1番大切なのだなあと思ったのでした。また、その権威性は活用すべき特徴なのだということも。今回の取材でも、優しさと敬意に溢れた先生の姿勢は以前と変わりませんでした。先生の魅力は、単なる優しさとは違い、想像に想像を重ねてもまだきっと足りないだろう、相手を心から尊重する気持ちからくるものだと感じています。先生、遠藤さん、ありがとうございました。

編集者紹介

編集者 遠藤 綜一
滋賀県職員。予算経理に6年間従事し、その後児童養護施設を担当。多い時は年200冊読む本の虫。好きな作家は中村文則。
 
編集者 伊藤 いつか
社会福祉士。介護職や小学校教員を経験後、特性有の子育て経験等も生かし昨年度まで県教委のSSWとして勤務。現在休業中。4児の母。

私信のようなもの

伊藤さんと出会ったのは昨年の春ごろでした。共通の知人から「きっと似たようなこと考えてるから」と紹介を受け出会いました(お見合い…?)。それから1年以上、たまにメッセージのやりとりをさせてもらうなか、この度1年ぶりに出会い、一緒に取材に行くことができました。僕の性格上こうやってつながっていられるのはとても珍しく、ご縁とはこういうものを言うのだなあと感慨深い思いです。またご一緒できることを楽しみにしております。

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