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多様性の捉え方

IT系の業務の仕事をしていると、多様な人がいることに気付く。

ITのことはほとんど知らないけど、ドキュメントを正確に書く人。
目の前の問題には没頭するけど、全体的な視点が抜けている人。
自分のことは棚に上げて、他人を批判ばかりする人。
コミュニケーションは得意だけど、仕事はできない人。
全て自分の責任と思い込み、人の責任も背負ってしまう人。
開発はできるけど、計画は立てられない人。
これらの人を統合していく人。
などなど。

多様な人がいて、それぞれの得意分野を活かしながら業務を遂行していく。悪い人はいない。ただ、得意分野ではなく、不得意分野が主な業務となってしまうと、全体としての生産性が悪化する。

だから、どの人がどの業務をするのかが大事であると感じる。

ここで、不得意分野に関して2つの捉え方がある。

1. 不得意分野を割り当てた側が悪い。
上司は自分の得意、不得意を知っているのだから、得意分野を業務に割り当てるべきだ。

2. 不得意分野の業務をしている側が悪い。
江戸時代ではないのだから、自分で得意分野の業務に移れるように努力すべきだ。

受動的な人は1を善と主張し、主体的な人は2を善と主張する。多様性を善とする人は、1も2もどちらも善であると主張する。

最近まで受動的であることは悪であり、主体的であることが善として捉えられる風潮にあった。今はSDGsの流行もあり多様性が善として捉えられつつある。どのような人も受け入れ継続可能な社会を作り上げようという風潮である。このことは受動と主体の対立がアウフヘーベンに達したということもできるだろう。

私は以前から主体性のない人は悪い人という考え方や風潮に違和感を持っていた。多様性が善として捉えられる現在の風潮はとても素敵だと感じる。生まれた時点で不平等であり、主体的になれる人と、なれない人がいる。主体的になれば、人生は変えられるという人に出会うが、それは主体的になれる要素が偶然あったからに他ならない

主体的になれということは簡単だが、主体的に生きることを善とされなかった人は、自分の善を否定しなければ主体的にはなれない。つまり悪を善として捉え直すことができて、漸く主体的になることができる。これを逆の立場に置き直して考えるならば、主体的な人に対して主体的であることは悪なので受動的に生きよと言われるに等しい。如何にこの実現が難しいことかが分かる。

各個人にコナトゥスが存在することを忘れてはならないし、存在しないような世界にしてはならない。

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