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帰る国があるということ


 私は、四半世紀にわたって複数の国に暮らし、二年ほど前に日本へ帰って来た。アメリカには20年以上暮らした。私が暮らした地域は、外国出身者も多かった。いろいろな形でアメリカにやって来て、今は医療や宇宙などの分野に就いている人が多かった。そんな彼らとは、子育てを通じて、それこそ通学で利用するスクールバスのバス停に子どもを送り届ける時、毎朝のように会って立ち話をしたものだった。話題も地元コミュニティや子供が通う学校の話から、専門的かつ抽象的な議論まで振れ幅は大きく、会話について行くのは大変だった。が、コミュニケーション術を学んだのはその時だったと思う。
 
 その時、親切に話をふってくれたのが、イスラエル出身のママ友だったのを今でも覚えている。ほどなく、モントリオールに引っ越してしまったのだが、子ども同士が同じ学年だったこともあり、クラスは違っても何かと立ち話をしたものだった。その彼女には、子どもが4人いた。アメリカでも4人は多い方である。そして、彼女の親戚は世界に散らばっていた。日本人とは違う。その彼女がある日、私にぼそっと言ったのだ。「あなたには帰る国があっていいわね。私にはないわ。それに、私は不安だから、子どもをたくさん産んだの。親戚もそうで、だから世界に散らばっているのよ。」と。その時はじめて、帰る国がない人もいるのだと認識した。

 帰る国はあっても、帰りたくない場合もある。治安が悪いとか、国家が破綻しているとか、医療制度が崩壊しているとか、いろいろ。また、両親の国籍が異なる場合や、親自体がハーフ(ミックス)で母国が定まらない場合、子どもにとって帰る国がどこかわからないこともある。パスポートをいくつも持っている場合だってある。もはや何人か一言では言えなくなる。そんな人たちを、アメリカは寛容に受け入れてくれていた。なので、アメリカに暮らしていた頃、「な、アメリカはいい国だろ。なのに、どうして日本に帰るんだ?」と訊かれることもあった。

 しかし、今思うのは、帰る国があるということが、どんなに幸せであるかということだ。日本は食べ物が美味しいとか、電車やバスの発車時刻が正確だとか、コンビニや宅配サービスが世界一だとか、そんなことを言っているのは、すでに平和ボケしているのだろうと思う。
 
 日本という国は、今のところは平和で治安もよく、政治経済が安定している。私だって、そうではない国に暮らしていたこともあったではないか。そうではない人たちにだって沢山出会ったではないか。暑くもなく、かといって寒いわけでもなく、金木犀の香りがどこからともなくする中、ジョギングをしながら、あれこれ思いを巡らし、日本で暮らせるありがたみをずっしり感じた。

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