【雑記】無意味性を擁護する

あらゆる物事に「意味」を求められる時代。人々はそれらの意味が<見出す限りでの意味>あるいは<与えられた意味>でしかないのを知っていながら、意味を求める。

実存主義から何年経っただろうか。人間はついに意味から解放され、自由を手にしたにも関わらず、自ら意味によって自身を規定しようとする。それは意味の後ろに広がる社会という広大な物語に自分を位置付けようとするためだ。すなわちそれは社会にとって意味があることを求めているのである。

無意味であることは多くの人にとって恐ろしいことであろう。あの「マロニエの根」のように、意味がないということは恐ろしい。それが自らの無意味性を暴露されたのなら、不安でたまらない。無意味とは意味からの疎外でしかないのだから、自己を自ら疎外して受け入れられるほどの精神性を万人が持ち合わせているとは思わない。それが孤独というものであって、あらゆる意味から外れる代わりに、世界は孤独者とつながるのである。

ある人aにとってある物αが意味があるとは、aが持つ意味秩序Aに自身と物が秩序づけられていることを表す。その意味秩序こそ社会あるいはその人が見ている世界なのだ。そして言語や制度がそれらを明文化する形で秩序を物質形象にまで落とし込んでいく。それが監獄の誕生である。そしてその意味秩序の妥当性は段々と権威性を帯びていく。ゆえに意味秩序を支える構造こそエピステーメなのだ。

意味秩序は全てのものをその秩序体へと組み込んでいく。それらはやがて人を離れ、社会を離れ、「大きな物語」へと変わっていく。そこにおいては固定化された形で無意味なものは無意味なものとして決められていく。

だが本来的に無意味である人間は気づいているのだ。無意味であることの無限の可能性を。つまり人間の自由性を。そして意味とは我々が与えている形でしかないことを。だが我々はそんな簡単に無意味にはなれない。すでに強力な物語の上に立っているからだ。

だから我々は物語の上に立っていることを忘れて、忘れるくらい没頭して、事物事象で遊ぶしかないのだ。あらゆる事物事象の無意味性はその時になって看取される。αでしかなかったものが、βにもなりうることをそこで知るのだ。

そうやって事物が様々な意味に変わる時、新しい意味は新しい意味の秩序体を示すのである。逆に言えば、大きな物語ではない新しい物語は無意味からしか生成しえないのだ。人々はそれを実験や遊びと呼んできた。

無意味性とは新たな物語の種である。我々はあらゆる先入観も持ち込まず、その無限の可能性に没頭し続けることが求められるのだ。

PS:
考えてみればこれが「無用の用」ということであろう。

人皆知有用之用、而莫知無用之用也
人は皆、有用の用を知れども、無用の用を知るなし

荘子・人間世

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