【雑記】私と結合術:バベルの図書館と華厳経、あるいはアルス・コンビナトリア

淡い記憶に沈みゆく中で微かに煌めくイマージュというものは誰にでもある。大学の授業も同様にあれだけの時間を過ごしておいて印象的なものというのはごくわずかだ。だがそのごく一部の印象的なことが後々に大きな問いかけとなって現れることがある。

SFC入学したての秋に受けた「デザイン言語実践」という授業で私はそのような体験をした。デザイン言語というのはデザインを言語と同じように身体的に扱おうではないかという総合大学ではじめてデザインを扱ったSFCにおける学問的ムーブメントのひとつつである(詳しくは脇田玲『デザイン言語入門』奥出直人・後藤武『デザイン言語』脇田玲・奥出直人『デザイン言語2.0』山中俊二・脇田玲・田中浩哉『x‐DESIGN』)。その内容は授業で知るってよりも脇田さんの本で知ったが、多くの学生にとってデザインとは何かということを、あの単に表層的な装飾としてのデザインではなくて、この人類を動かすほどのインパクトを持ったデザインという営みの概説を授業で知ることになる。ちなみにその立役者の一人である山中俊二先生はその後、東大に行くわけだが今では東大において"College of Design"という一大構想を発表し世間を賑わしている。そのところを知ると培われたデザインの源流の拠点が移ったのだなと実感する。それはさておき、我々はここでデザインに関わること、例えば代表的なバウハウスからマクルーハンのメディア論など縦横無尽に学ぶことになる。なぜこれほどまで広範なのかというと、基本的に各デザインを主とする先生方がオムニバス形式にワークショップも踏まえて自身のデザイン論を展開するからだ。だからデザイン言語実践という名前はついているものの、基本的にはデザインに触ってみましょうみたいな会である。

さてワークショップというものの、私が入学した2020年はCovid-19のど真ん中。全てオンラインで先生方も随分と苦労されていることが伝わるような授業であった。しかし印象深い記憶が残っている。その時の講師陣はファブリケーションの田中浩哉先生、プロダクトデザイナーの鳴川肇先生、メディアアーティストかつDJの徳井直生先生であった。それぞれ印象深い課題を出された覚えがあるが、本論とは異なるのでここでは避けておこう。ただここで田中さんからマクルーハンのメディア論、鳴川さんからはクワクボリョウタというヒントを与えられた。そして徳井さんから与えられたのがホルヘ・ルイス・ボルヘスの「バベルの図書館」である。

Jorge Luis Borges

ホルヘ・ルイス・ボルヘス。ポストモダン文学における幻想小説の立役者である。夢や無限、神などの象徴を用いた幻想小説は読むものをテキストの網目へと引きづりこむ。あのウンベルト・エーコが「ボルヘスはハイパーテキストを先取っていた」と言っていたらしい。徳井さんはそんなボルヘスに学生時代に引き摺り込まれたひとりなのだという。あの有名な「バベルの図書館」だ。

エリック・デマジエール 「バベルの図書館」

その図書館にはあらゆる文字の無限通りの組み合わせが記述されている本が収蔵されている。「AAA….」「AAB….」「AAC….」…。それはすなわち、この世の全てを記述したテキストがあることを示唆させる。聖書というテキストの組み合わせの書物も、失われた書物のテキストの組み合わせの書物もすべてがここにある。主人公はこの無限の書物群の中から彼が探し求める書物を求めて彷徨い続けるという。(実際にこれを表現したサイトがある https://libraryofbabel.info/

ニーチェの永劫回帰を思わせる文字のパターン。あらゆるものは全て組み合わせで表現可能であるとしたとき、バベルの図書館には全てが内蔵されているとも言える。徳井さんはそこから影響を受け、創造とは組み合わせであり、可能性の空間の中での探索であると位置付けた。そして徳井さんの実際の研究作品であるAIやリズムの研究は存分にそれが活かされているように感じる。

ここで私に到来した二つのイマージュがある。ひとつは組み合わせへの拒絶。もうひとつは図書館である。

組み合わせというものが創造なのかという疑問は常に持っていた。シュンペーターの言葉だけを借用してイノベーションとは新結合であると良い、〇〇×△△だと息を吹き込む連中を随分とみてきた。しかし私から言わせれば、果たしてそれは創造なのか、単なる組み合わせにすぎないのではないかという拒絶感が襲ってきた。私が知っている創造とは組み合わせで表現されるようなものではない。何かもっと原初的な、はじめの言葉のような、それ以上に還元できないきっかけであるという確信があった。例えば文字やスプーン、机など、決して組み合わせで還元したらその本質を失うようなもの。それこそが創造であり、他は全て模倣なのだという確信があった。プラトンは全ての人間の行為はミメーシス(模倣)でありポイエーシス(制作)が可能なのは神のみだと言っていたそうだが、私はそうは思わないのである。だから学とは真似ることだと意気揚々に言う連中にも呆れてしまう。それくらい組み合わせという言葉に敏感だった。

別にシュンペーターを批判するわけでも、プラトンを批判するわけでもない。創造=組み合わせの図式が何か大切なものを逃していると考えるわけだ。しかし考えれば考えるほど、そういうものは目につく。これこそ結合術と呼ばれる、元来西欧哲学を方向づけたひとつの方法論なのだった。

それはライプニッツの記号論理学を代表とする、最小構成単位としてのモナドとそれらの組み合わせ法としてのアルス・コンビナトリアに気づくのは必然だった。もっともアルス・コンビナトリアに気づいたのはたまたま松岡正剛のペンの引き方という動画を見ていたときの書物がそれで、その中で発明術として紹介されていたことから気になったにすぎない。しかしそれを調べるうちに、その基本的なコンセプトを知るに至り、組み合わせへの非関心はむしろそれを引きつけたのだった。

アルス・コンビナトリアとは結合術の名の通り、要素を結合することであらゆるものが創造可能だとするひとつの説である。これが西欧哲学に脈々と流れており、ライプニッツの記号論理学において結実した。この結合術がやはりバベルの塔と引っかかり記憶に残っていたのだ。しかしそれだけではない。アルス・コンビナトリアは結合術なのだが、発明術と呼ばれているのである。そして私はつい発見してしまったのだ。中沢新一と高山宏の論考を。彼らはその中でインヴェントにおけるインヴェニーレ(二つあるものの間を来る)から中沢は精霊であり、ニッチとして見る。そこにすかさず、高山はアルス・コンビナトリアかと腑に落ちるのだ。なんて悔しいのだろう。私はこの発明というぬめぬめした真っ黒なものを追い求めてようやくそれが、異なる次元のエネルギー転移であり、秘すれば花なのだと気づいたのにも関わらず、彼らはこれまでの地層からずばりと言い当てるのだ。悔しいな、悔しいな。追いついたと思えばまたすぐ大きな壁にぶち当たる。だが未知への探究者たるもの歩みを止めてはならぬと思わされるのだ。

風の谷のナウシカ
「そなたのしようとしていることはもう何度も人間がくり返して来たことなんだよ」
鬼滅の刃

今日こそわが青春はめぐって来た!
酒をのもうよ、それがこの身の幸だ。
たとえ苦くても、君、とがめるな。
苦いのが道理、それが自分の命だ。

オマル・ハイヤーム『ルバイヤート』小川亮作訳

そのようなこともありながらも先に進もう。結合される要素を記号として見る記号論理学に照応するは華厳であることは間違いない。全ての記号を内包した(照明した)華厳における一即多の原理は有力無力の法によってその本質をあらわにする。私が思うにこの有力こそが象徴であり、象徴は意味喚起する元型的イマージュによって意味の連関を紡ぎ出す。それが有名な井筒の華厳の図の内容だと思うのだ(そういえばライプニッツは中国思想に影響を受けていた)。

井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス』

こうして、バベルの図書館は華厳的であり、そこにはアルス・コンビナトリアの存在が示唆された。しかし私は本源的なのはそれらの奥底にあるイマージュであると主張したいのだ。決して創造は組み合わせでもなく結合にも終始しない。確かにその側面もあるが、それ以上のものを創造は持っていると直観するのだ。

もうひとつのイマージュにも触れておかなくてはならない。図書館。あの徳井さんの説明から離れないイマージュ。思い出すたびにそこへと連れられていく。

第一に、私には記憶というものをイメージで捉えるクセがあった。そしてそれは癖ばかりか速読の手法としても有効だと教わった。イメージは剥がれない。ある一つの記憶術なのである。同様にして、当時話題だった記憶術「記憶の宮殿」がなんとなく思い浮かぶ。私はそれを習得するに至らなかったが記憶とイメージの結びつきを知るには十分だった。

O・フォン・コルヴェン

第二に、アレクサンドリア図書館。古典時代の最大の図書館はコルヴェンの絵画とともに想い浮かぶ。おそらく出会いは高校歴史の授業だと思うが、アレクサンドリア図書館という語感がなんとも忘れ難いものであった。だから2020年に休学のすすめという記事を書いていたときもこれだけは忘れなかった。私は12人のインタビューを終え、最後に提唱者の黒川清先生のところへインタビューに行った。黒川先生はその膨大な知識を披露し、浅学だった私はついていくのに必死だった。ただアレクサンドリア図書館という言葉だけが耳に残った。その文脈の意図も忘れてきているが、黒川先生の後ろにある膨大な図書と黒川先生が語る膨大な情報量が私を未知なる世界へと連れていった。それがまるで図書館そのものだった。その新鮮さだけは忘れ難い。だから最後に別れる時に、「常にどんな物事にもなぜと思いなさい」とギラっとした目で私を見て言い放った言葉を忘れない。知の世界の膨大さ、図書館のイマージュを知る。

だからこの図書館というイマージュは知の営みをする時はいつでもそばにあった。バベルの図書館とアレクサンドリア図書館は異なるもののその図書館とそこにある無限の記号というイマージュが私を今も離さない。この大きな印象は今も私の中でうごめいている。それは大きな問いとして、「知とは一体なんなのか」「果たして創造とは結合なのか」「發明とはなんなのか」と。

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