願文 空想が現実になる世界の実現
天台宗を開いた伝教大師最澄は延暦六年(787)満20歳に『願文』を著した。これは比叡山に入り、独り修行生活をおこなった最澄が自己のありようを真摯に見つめ、深い考察のもとに純粋な理想をかかげた、格調高い文章である。
今20歳を終えようとしている私が、最澄ほどの誓願と文章を書けるとは思わない(それほど格調高い内容である)。しかし彼が『願文』を著したことで、その思想と修行の様子が桓武天皇にまで達し、宮中の役職に任命され、短期留学と共に空海と出会い、最先端の天台教学を学び、806年桓武天皇の期待と共に天台宗が開創された事実は見習うべきではないだろうか。
最澄ほどの智慧に達していないとしても、今この瞬間に私なりの『願文』を書く意義は十分にあると思う。いずれそれが誰かの目に留まり、私が実現しようとしている世界へ共感と協働が起こるかもしれないと考えるためだ。
私はここに「空想が現実になる世界」という理想をかかげ、自己のありようを見つめながら、発明がどのように寄与するのかを記したいと思う。
1. 現代社会はなんて窮屈で退屈か
2022年現在、文明の進歩とは対称的に人々の精神的豊かさは貧困を極めている。COVID-19を発端に、社会制度や人間の行為そのものに自分達が翻弄されてきたことがより明らかになったためだ。近代以降の科学合理の社会は人類に繁栄をもたらしたのは間違いない。しかし同時にあまりにも窮屈で退屈な社会を作り出すことになった。人々は生産性を担う人材として扱われ、創造的な物事は社会ルールに従って評価される(ハイデガーの総駆り立て体制を思い起こさざるをえない!)。未来予測はあまりにも単純であり、多くの人が安定的な生活に流されるようになった(安定という名の幻想だ)。
一方で文明社会外の不安定さはついに(安定と思われている)文明社会内で姿を見せ始めた。気候変動や地球温暖化、資源の枯渇などである。それと同時に文明社会の不安定さもついに露呈し始めた。戦争や格差、政治、人権などだ。今あらゆる「正しい」と思われていた事態を見直さなければならない時代になっている。その最たるものが固定と分業である。世界はもっと流動的であり、我々はもっと何にでもなれるのだ。その自覚が今求められているのである。
いくつか具体的な問題を挙げておきたい。小さい頃は何にでもなれると言い聞かせてきた大人(広範であるが)がある瞬間から現実を見ろという。なぜなのか?現実とは何なのか?お姫様になりたい、仮面ライダーになりたい、ポケモンマスターになりたい、結構ではないか。社会は大きな同調圧力を作り出し、彼・彼女ら自らが現実的(と言われる)夢を掲げるのを期待する。固定的で分業的な既存の社会システムの中に無理やり押し入れようとするのだ。これを窮屈で退屈と言わずして何と言う?
学校における偏差値教育。あらゆる可能性を秘めていた一個人は偏差値という社会慣習によって一瞬にしてその可能性を奪われる。君には無理だ。君にはこれがあっている。なぜ意思を尊重しない?
「現状の君の偏差値は〇〇だから君はこの大学のこの学部に行くべきだよね。」
なぜ興味もない学問を学ばなくてはならない?
「大学には行けるなら行っておかないとダメでしょ。それじゃあ社会でやっていけないよ?」
なぜ進学という選択肢しか与えない?
「君のためを思って言っているんだよ!」
だったらなぜ耳を貸さない?
2. 文明を築く発明
「文明論とは人の精神発達の議論なり。」(福沢諭吉『文明論之概略』)。文明論の立場をこれで措定してみる。「文明の進歩は…真実の発明にあり。」(福沢諭吉『学問のすすめ』)。その進歩は発明(私はこれを本質的に無から有への転換として扱う)にあるという。内容の議論から離れ、私は人間が持続的に生活する基盤(文明)の豊かさのためには発明が必要であることを強調したい。
発明とは無から有への転換である(発明論にて詳細に議論している)。それは全体を俯瞰し、統一体を創り上げることによってなされる。20世紀の代表的な発明家バックミンスター・フラーは専門分化を危機と見做し、発明の重要性を訴えた。つまりある部分だけを極めた職業的人間では発明がなし得ないのである(自らなろうとする人を非難はしない)。
全体から生じる発明。万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチが最高の発明家と言われる所以はここにある。純粋な心の羅針盤に従い、職業に抑え込まれることなく、広範な領域(と分節されるもの)で新しいものを作り出した。彼の功績は今なお引用され、その仕事のインパクトが伺える。
発明のこの開拓的な立場、つまり新しい道を開拓することでより豊かな社会を導き出す性格を表した言葉がある。「人間が想像することは人間が実現できる」。SFの父、ジュール・ヴェルヌが言った(とされている)言葉だ。
海底二万里や地底旅行など現代においても大きな影響を与える作品を残してきた彼の驚異の旅シリーズは同じくSFの父であるハーバート・ジョージ・ウェルズの作品とともに人々に未来への期待を抱かせた。実際、月世界旅行は人々を月へと駆り立てた。
私はこの「想像することが実現する」ことこそが発明の本質だと考えた。なぜなら発明の無から有への転換の立場では認識論や存在論と相まって、その意義を論じることが困難であるためだ(そのための特許法である)。もちろんその立場も論じるが、重要なことはヴェルヌの言葉通りだと考える。
発明の意味と本質を見てきたが、なぜそれが可能なのか。私はそれを論じるために発明論を構築している。つまり想像したことが現実になるとはどういうことかを明らかにしたものだ。それを踏まえつつ、その本質が発明だとするならなぜ文明の発達に寄与するのかわかるのではないだろうか。
発明は意思によってなされる。ヴェルヌで見てきたように、こうなったら面白いという夢に起因するのだ。であるなら、今我々の窮屈で退屈な文明には何が足りないのか。それが発明である。それを導く夢、空想である。文明で精神発達を論じられるのならまさしく夢・空想への抑圧が文明の進歩を阻害し、精神発達を止めていると言えなくもない。
世界の豊かさには発明が不可欠である。我々はまず発明を知り、発明が可能だということに気が付かないといけない。人々がそれに気づいたのだとしたら、退屈で窮屈な社会は無縁になるだろう。
3. 自身の解脱から人類皆解脱へ
私は発明的涅槃を目指している。これは想像即創造が可能な発明の境地だ。私は自分の好奇心と探究心に身を任せ、発明の深淵に臨んでいた。しかし窮屈で退屈な社会はそれを良しとはしなかった。
私はここでようやく気づいたのだ。空想が現実になるには社会全体もそれに応じた精神革命が必要であると。発明それ自体は私にとって生き方そのものであり、他者には関係がない行為であると考えていた。しかし現代社会に呑まれ、自身の力で発明可能であるということに気付けていない人が多くいることを実感した。
私は自身のためでなく、他者のために発明を極めなくてはいけない。なぜ仏教が上座部から大乗へと、そして一切衆生悉有仏性へと至ったのか、その片鱗を感じたのだった。発明には主体が存在するがそれは拡張可能な主体である。私が他者のために極める発明は巡り巡って発明自体の次元を高めるのだ。
最澄ほどの凡愚の自覚は私にはできない。ただ発明の意義を知った私は他者のために発明を極めなくてはならない。誰もが発明の可能性に気づいた時、それこそが空想が現実になる世界に他ならないのだ。私は発明により精神革命を成さなくてはならない。誰もが空想が現実になることを疑わない世界だ。
4. 5つの誓願
謹んで迷狂の心に従いながらも、ここに発明的精神革命による空想が現実になる社会の実現のための誓願を発する。
5. 空想が現実になる世界
願わくば、ヒト-イキモノ-モノを超え、あらゆるものの意思が尊重される宇宙の実現ために、発明的涅槃への修行を通し、誰も想像したことがないワクワクするような世界へと発明家活動をなし続けていく。
(2022.5.11)
<参考文献>
• 講談社学術文庫「日本仏教思想のあゆみ」竹村牧男(2015)
• 真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺「最澄『願文』」、http://www.horakuji.com/lecture/nippon/ganmon/index.htm
• 悠悠三界「『願文(がんもん)』を読む」(2004.10.21)、http://yuyusangai.com/sougya/ganmon.html