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創作 霊験(4)-①油問屋の番頭の祝言

 大広間は贅沢なほど燭台が用意されて、道中の新月の夜の暗闇に慣れた目には眩しいほどだった。
 御膳が両側に並べられた真ん中の空間を向かい入れた仲人の奥方に案内されて高砂の堰に向かう。
 最前から見えていた明かりの中で光を返して一際輝く白無垢は先に高砂についている花嫁だ。お嬢さんは、ちゃんとわたしを待っていてくれた。そう思うと天にも登る気持ちだった。
 あれほど嫌いな様子を見せられて気落ちもしたが、やはり、御家の決め事に逆らう訳にはいかないだろう。そう思っていても、最後まで胸の中に燻っていた不安が、高島田で白無垢の娘の姿を目にして、綺麗に消し去られていった。
この娘が幼女の頃からこの日を待っていたのだ。

 番頭が高砂の席について、両家が祝いを述べ合っても、花嫁は微動だにしない。まだ若い娘だ。緊張しているのだろう。こっちを見たら、心配ない、と、言ってやりたい。その白く塗られた手を取って、わたしがついているから安心おし、と、言ってやりたい。
 一緒に店を盛り上げていこうと。お前の両親のように仲の良い夫婦になろうと。
 喜びに震えながら番頭は三々九度の盃に口をつける。形ばかりでいいとは思ったが、気持ちが高揚して、ついぐいぐいと飲んでしまった。味などよくわからなかったが、上手い、と、思った。普段から酒など飲まない。今日は祝言だと思うと緊張で、飯も満足に食べていない空の胃袋に慣れない酒が入って、胃の腑がかっと燃える。すぐに、少し酔いを感じる。それもいい。この場に寄っている感じもいい、と、番頭は思う。
 隣では妻となる女が勧められて盃を手に取っている。番頭はこみあげる嬉しさでそれを見る。
 花嫁が盃を置くと、これで二人は夫婦となった。両家が入り乱れて、言葉を交わし始める。番頭のところにも、お銚子を持って祝いを言う親族がやってくる。いや、めでたい、綺麗な花嫁、大店の立派な婿さん、誰も彼も言うことは一緒だ。自分は娘を見ていたいのに、これからの付き合いもある。祝ってくれる親族を無下にはできない。丁寧に言葉を返しているうちに、ふと気づくと花嫁がいない。どこだ?
 仲人の奥方がこちらに気づくまで辛抱強くそちらに視線送り、ようやくやってきた鈍いその女に花嫁はどこか、と尋ねると、気持ちが悪くなったとかで、厠に向かいましたよ。三々九度のお酒でもうっかりたくさん飲んでしまったんでしょう。若い娘さんの祝言ではありがちなことですけどね、と、こちらも酒が入っているのか饒舌だ。へい、わかりやした。ありがとうございます。と、仲人の奥方に頭を下げる。
 しかし、遅い。
 気持ちが悪いと、言っていた。
 もしや、厠で倒れているのか。
 そう思うと心配で、番頭も立ち上がって厠に向かう。
 酒の回った祝言の席は、賑わいに酔っているかのように、主役の二人が姿を消したのに気づかない。また例え気付いたにせよ、新婚の夫婦が二人して姿を消して帰ってこないのなら、それはそれでめでたいこと、よきかな、よきかな、と、いったい誰が気にしよう。

 番頭は広間の灯りから遠ざかって渡り廊下を歩いてゆく。廊下の先に白い固まり。ほら、みろ、やっぱり厠に行き着く前にあんなとこでしゃがみ込んじまってる。
 お嬢さん、世呼びかけて、いや。もう二人は夫婦なのだと思い直し、おまえ、大丈夫かい、と、背中に手を置くと、手は支えるもののないままにはふりと打ち掛けと一緒に沈んでいく。もぬけの殻だ。真っ黒な不安がざんと身体に湧き上がる。
 いやいや、と、それを振り払うように、白無垢を汚しちゃあいけねえと、ここで脱いだだけさ。番頭は打ち掛けを掴んだまま先に進む。厠の扉の前で、小さく娘の名を呼ぶ。
 返事がない。
 少し大きく呼んでみる。無言だ。
 おまえ、大丈夫なのかい、開けやすぜ、と、手をかけると、中に差し込みの棒鍵があるにも関わらず、鍵をかけていないのか、扉は容易に開く。
 換気と明り取りに開けられた窓からは今夜は月明かりのかけらも入っちゃこない。漆黒だ。だがそれでも、この中には誰もいないのはわかる。
 番頭は慌てて踵を返す。
 いよいよ早足で、どこだ?雇い人の厠は外だ、そっちにわざわざ行く訳がねえ。寝所ということもある。寝所と思うと、途端に下腹がむずむずする。気持ちが悪くて、高砂に戻れない、ならば先に横になって休んでいるんじゃなかろうか。しかし襖を開けてみるが、褥はきっちり整えられたままだ。念のため、布団をはたはたと手で探っても、ひやりとした夜の気配を感じるだけだ。
 お嬢さんの部屋は、と、再び廊下を通って母屋の娘の部屋に行く。お嬢さん、わたしです、と、番頭はもう自分を番頭とは名乗らず名前を名乗る。襖を開けても誰もいない。
 娘の部屋の襖を開け放したまま、どこだ、どういうこった、と、探す当てを無くした番頭は広間に戻る気にもなれず、一人寝所の褥で打ち掛けを握りしめて胡座をかく。

 逃げた。

 逃げられた。

 番頭は呆然と座ったまま、まんじりもせず朝を迎える。

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