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ファンサービスをしない監督 落合博満は野球ファンに何を与えたのか 第34章

第34章 先を見越した真夏のデーゲーム廃止と快進撃~2011年~

 2011年の前半戦終了時、中日は、2位ながら借金2と苦しんでいた。通例であれば、落合が次の年も監督続投なら、前半戦終了時に白井オーナーから続投要請がある。
 しかし、2011年は、それがなかった。白井文吾オーナーは、続投について「決めかねている」との発言をしていた。
 後から考えれば、当時、落合監督続投を求める白井オーナーと、落合監督退任を求める坂井克彦球団社長・佐藤良平球団代表との間で結論が出なかったからだと推測できる。

そして、8月5日に中日が5位へ転落したとき、坂井克彦球団社長は、東京スポーツのインタビューに応じている。
「監督人事にも影響しますか」
 という記者からの質問にこう答えたのだ。
「成績は関係ないんじゃないですか。それよりも、お客さんが入らないことを心配しているんです」(東京スポーツ2011.08.06)
 ついに坂井球団社長は、たとえ好成績でも落合解任の方針をほのめかした。

 8年連続で監督というのは、既に中日の球団史上最長だった。新鮮さがなくなってきて球団やファンがマンネリ化を感じてしまうのも事実である。

 とはいえ、一流選手の大リーグ流出によるプロ野球全体の地盤沈下の中で、中日が突出して観客動員に苦しんでいたわけでもない。

 下記がナゴヤドーム創設当時からのナゴヤドーム観客動員数、およびプロ野球全体の観客動員数の推移である。

ナゴヤドーム  プロ野球
  年   観客動員数   観客動員数
1997  2,607,500   23,496,000
1998  2,537,000   21,664,500
1999  2,541,000   22,410,500
2000  2,479,500   22,441,000
2001  2,421,000   22,923,500
2002  2,404,000   22,952,500
2003  2,336,500   23,664,500
2004  2,330,500   24,454,000
2005  2,284,400   19,872,215
2006  2,398,698   20,407,538
2007  2,390,532   21,187,029
2008  2,427,805   21,638,197
2009  2,298,405   22,399,679
2010  2,193,124   22,141,003
2011  2,143,963   21,570,196

 ナゴヤドームの場合、2005年からの実数発表となる前(2004年以前)は、満員を2000人程度水増しして発表していたため、あくまで参考記録として10~15万人程度はさし引いて考えなければならない。他の球場でも、ほぼ同様のことが言える。

 こうして一覧で見ると、確かにナゴヤドームの観客動員数は、2008年をピークに減り始めて2011年までに28万人程度減っている。2008年9月のリーマンショックの影響をもろに受け、さらには福留・川上・ウッズ・中村紀らが次々に抜け、生え抜きのスター選手だった立浪・井上が引退していったからだ。さらに、北京五輪での中日選手の不調、WBC不参加でのメディアからのバッシングや巨人人気の低迷によって、巨人戦の地上波中継激減の影響も受けた。

 観客減少の要因として最も大きかったのは、一時代を築いた選手たちが退団していったことだが、それは、どんな常勝チームであっても経験する。
 そのとき、大抵のチームは、世代交代の狭間で勝てなくなる時期が来るが、落合は、それを防ぐチーム作りをしていた。
 であるならば、観客動員の減少を落合の責任にすべきではないだろう。

 プロ野球全体の観客動員も、WBCで2度目の世界一になった2009年までは増え続けたものの、そこから2年で83万人程度減らしている。とはいえ、2011年は東日本大震災と原発爆発事故があって日程や使用球場も変わったため、観客減少は参考程度で考えるべきである。

 全体的に見ると、実数発表になって以降、プロ野球全体の観客動員数とナゴヤドームの観客動員数は、ほぼ連動している。つまり、観客動員への課題は、中日だけが抱えているわけではなく、プロ野球全体が抱えているのである。

 しかし、どんなに周囲の状況が変わろうとも、落合の采配は、8年間、常にシーズン全体を見通していて、何人の選手が抜けようとも、揺るがなかった。
 手持ちの駒を最大限に活用し、前半戦は様々な選手を試しては成長している選手を見極めていき、後半戦に備えていく。故障者は、決して無理をさせずに完全な状態になるまでスタメン復帰を見送って、控えで調子のいい選手を有効に起用して競争力をあおっていく。

 その期待に応えて平田、大島、堂上剛といった若手選手も著しい成長を見せて、野手にも選手層に厚みが出てきた。それが故障したレギュラー選手を万全な状態になるまで調整させられる強みを生んだ。
 特に谷繁は、7月下旬に1軍復帰しながら、スタメン復帰は8月中旬にするなど、選手の試合勘や疲れも考慮した落合采配が随所に見られたのである。

 そうして、ついに谷繁がスタメンに復帰した8月中盤から中日は、首位追撃を開始する。ソトが日本野球に適応し始めて先発投手として頭角を現し、調子を上げた川井と故障から復帰した山井も先発の一角に加わって、投手陣の厚みが増した。
 8月下旬には井端・ブランコといった攻守の中心選手が万全な状態で復帰し、ようやくにして落合がベストと考える戦力が整ったのである。

 さらに、落合は、シーズン開始前から8月以降のスケジュールに対して、あらかじめ手を打ってあった。
 落合は、球団に交渉し、8月にナゴヤドームで開催となる17試合すべてをナイター開催にしてもらったのである。夏休み期間だけに、デーゲームで家族連れの観客動員を狙いたいところだが、落合は、あくまで勝利を追求するため、疲れがたまる真夏のデーゲームを廃止したのだ。

 9月には23日からの3試合連続デーゲームにしたものの、3試合とも15:00開始として、選手のリズムを考慮している。さらに、リーグ優勝の行方に直結する10月のナゴヤドーム10連戦はすべてナイターとした。

 あとは、もはや疲れが見える他チームとの差は、明らかだった。私が中日の優勝を確信したのは、9月7日の巨人戦である。この試合は、先発山井が好投して3-2で勝利する。山井に目途が立ったことで、先発ローテーションに隙がなくなり、負けが込む要素が全くなくなった。

 落合が8年間かけて作り上げてきたチームの理想形。それは、落合自身が語るこの言葉にある。

「チームで勝つという唯一最大の目標を達成するためには、パフォーマンスをある程度計算できる、投手を中心に試合運びを考えざるを得ない」
「負けない努力が勝ちにつながる」(『采配』ダイヤモンド社 2011.11.17)

 残り試合を全勝できる状態にチーム力を整えた中日は、他チームを圧倒する。9月を15勝6敗3分で勝ち抜けた中日は、10月も優勝を決めた18日まで10勝4敗2分という強さを見せたのである。

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