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ファンサービスをしない監督 落合博満は野球ファンに何を与えたのか 第32章

第32章 2011年の激動にも動じない、先を見越した戦略

 2011年は、落合監督の3年契約最終年である。
 もしかしたらこの年限りで契約終了となるのではないか。私にはそんな懸念があった。3月25日に西川順之助球団社長が退任したからだ。
 落合の能力を高く買ってくれる社長がいなくなり、エンターテイメントとしてのファンサービスをしない落合を快く思っていない勢力が台頭すれば、落合の続投はないかもしれない。

 落合やコーチ陣も、そんな球団の動きを敏感に察知していた。しかし、落合は、勝つことこそ最大のファンサービスという理念を貫き通す。
 そして、球団史上初の連覇を達成して、かっこよく辞める、という団結を見せることになる。

 中日は、2010年にリーグ優勝を果たしたとはいえ、大型補強をしなかった。そのため、中日の戦力は、巨人や阪神に比べるとかなり見劣りするものだった。

 逆に巨人や阪神は、優勝できなかったこともあって、巨大戦力をさらに巨大にすべく、大型補強を重ねていた。

 それでも、落合は、対抗しようとはしなかった。代打の切り札がいない、という点を補てんするため、横浜を戦力外になった佐伯を獲得。ライトを守れる外野手ということでドミニカ人の若手グスマンを獲得する。
 そして、投手を中心とした守りの野球を貫き、ベネズエラ人の若手投手ソトを獲得した。
 つまり、足りない部分だけを補う。これが就任以来一貫した落合の方針である。言いかえれば、この程度の補充で連覇は達成できる、という目論見でもあった。

 驚いたのは、ドラフト1位では故障中の佛教大学の投手大野雄大を指名したことだ。
 大野は、佛教大学4年の8月に左肩を痛めており、プロ野球の各球団が上位指名回避を検討するほどだった。
 入団しても1年目から即戦力として起用できる可能性は低かった。

 しかし、中日は、大野が故障から回復すればエース候補になれると見込んで1位指名に踏み切った。
 落合は、戦力の補てんとともに、数年後に中日の主力選手になるであろう逸材を手に入れておいたのだ。

 落合は、球団史上初のセリーグ連覇とともに、その先まで見越して戦略を練っていた。

 しかし、2011年は、例年にない出来事が多発する年となる。
 最大の出来事と言えば、3月11日に起きた東日本大震災である。東北の太平洋側を中心に多数の死傷者を出した地震と津波、そして、日本中を深刻な被害に陥れた福島原発の爆発事故。東京電力の迷走が拍車をかける形で、日本中が電力不足に対する不安で騒然となった。

 プロ野球選手会は、開幕日の延期を求めた。世論も巻き込む紆余曲折の結果、開幕日が3月25日から4月12日に延びた。そのため、日本シリーズが11月後半になる、という変則的な日程となった。

 中日にとっても、この日程変更には大きな影響を受けた。
 落合監督就任以来初となるビジターでの開幕となったからである。中日は、開幕から前年最下位の横浜に負け越す、というありえないスタートを切ることになる。

 だが、1年という長い期間を戦う上で、想定外はつきものである。落合監督の8年間の中で、ほとんど想定外のなかった年は、私の思い浮かぶ範囲では2006年のペナントレースくらいだ。
 落合は、苦しい状況に陥っても決して慌てなかった。ビジターで負けてもホームで圧倒的に勝てるチーム作りをしていたからである。

 変則日程とともに、この年は、飛ばない統一球が導入となった。
 中日の各打者は、この飛ばない統一球に苦しめられながらも、中日の投手陣にとっては追い風となった。
 投手を中心とした守りの野球を貫く落合にとって、飛ばない統一球は恐れるに足りなかったのだ。

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