曽水に生きて 成瀬正成 下

17 娘の死と大坂の役 夏の陣

年末、諸藩こぞって大坂城の総掘を埋めた。また徳川方は城壁を打壊し、二ノ丸の掘まで埋めようとしたため、約定が違うと、豊臣方の家臣である大野治長が、小吉達「駿府年寄」に文句をつけてきた。小吉達は治長に対し「交わした約定と違うところはない!」と突っぱねたが、治長は引き下がらす、さらに難癖をつけてきた。それを聞いた小吉は声を荒らげ「そちらは何故舅である将軍秀忠公に従わず、和睦後も兵を解放せず、養うのか?」と問いただしたら、ようやく治長は押し黙った。

年末25日に大御所家康公は二条城に戻り、翌年の正月3日名古屋、岡崎を経て、2月に駿府に戻った。駿府に戻る前大坂で、阿茶局は家康公にどうしても吉正に会いたいと駄々をこね、会わしてくれなければ、駿府には帰らないとまで言った。仕方なく家康公は、前田利常に事情を話し、吉正を茶臼山の陣まで来させるようにして、阿茶局に会わせた。阿茶局は吉正を見るなり、母のように涙ぐみ、ただただ抱きしめた。吉正も涙ぐみながら「お方様、今はまだ戦の後始末の最中です。この戦が落ち着きましたら、私が必ず駿府までご挨拶に伺います。どうかそれまでお方様、お健やかにお過ごしくたざい」と丁寧に、挨拶をした。その言葉に、阿茶局は聞き分け良く「わかりましたが、私も良い歳ですから、あまり待たせないでくださいね」と涙を拭きながら笑って言った。その場に同席していた秀忠公は「今度は江戸でもゆるりと会おうぞ!」とも言われ、一緒にいた利常もこの状況に驚いた。
将軍秀忠公をはじめ、義利公、頼将公は大坂に陣を敷いたまま、堀の埋め立ての完了を待った。それに伴い3人の「駿府年寄」も茶臼山に留まり、堀の埋め立てを見守った。月内に堀の埋め立ては完了し、先に義利公と頼将公が、19日には将軍秀忠公が伏見城に帰還したが、大坂方の再びの挙兵の噂もあり、江戸に戻らなかった家臣もいた。

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