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「赤ひげ」映画感想文

 ちかごろ黒澤映画を一杯見ています。刺激的です。

 映画を見るときには公開年が重要であると最近学びました。映画などの芸術物は社会に対して何らかの問題提起を促すものであるから、その時々の時代背景、つまり時代の文脈を多少は勘案したうえで見つめてみると言いたい事がより伝わってくる、とのことです。(例としては、1954年の「ゴジラ」が第二次大戦または原水爆の恐怖の記憶の反映であるのに対し、2016年「シン・ゴジラ」が3.11と福島原発事故の恐怖の記憶の反映だったこと。)映画を通して観客が心に浮かぶ感情が異なります。

 1965年公開の「赤ひげ」を見ました。黒澤明監督最後の白黒映画、原作モノ、主演は三船敏郎と加山雄三。本編185分、インターミッションありです。ジャンルは江戸時代の医療もの、とでもしておきます。

 1965年は日本で白黒テレビがほぼ普及しきった頃でしょうか。1964年の東京オリンピックを中継で見るために各家庭がテレビを備えたタイミングですね。つまりこれは、映画業界が未曽有の危機に直面し始めた時でもあります。今なおそうですが、テレビが登場してから映画という業界、ジャンルそのものが衰退しはじめます。使える金は従来より少額に、才能ある人々は他ジャンルに流れ、何より社会の皆々様が映画を見る頻度がどんどんどんどん減っていった時代。黒澤監督は1971年に手首をカミソリで切る自殺未遂を起こします。人間の自殺の動機なんて推し量る事さえすべきではないし出来ないのですが、日本映画への絶望だと一般には言われていますね。

 「赤ひげ」はそんな逆境で作られた映画ですが、黒澤監督がだからこそと気合を込めたと言われ、内容的には凄く充実しています。構成、演技、画面、情緒、どれも濃かったです。大好きな場面は、やはり最後の井戸に向かって叫ぶ場面です。

 感想として、一つ。不治の病によりたった今目の前で亡くなったおじいさんの前で赤ひげが「結局医者に治せる病気などほとんどないんだ。病気というのは大部分が無知と貧困のせいだ」みたいなことを憤懣やるかたなく言っていたのを聞いて考えたことがあります。自分が幕末モノが好きなせいもありますが「医者というのは続けていくうちに人の病気だけでなく国の病気も治したくなるものだ」という言葉がとても合理的に聞こえるようになりました。

 公衆衛生、とも言いますか。目の前にある病人の病気や怪我人の怪我を都度都度治すだけの存在ではなく、それを引き起こす社会の構造、システムそのものを直そうとする取り組みのことです。名作戦国幕末漫画「風雲児たち」は幕末を綺羅星のごとく駆け抜けていった偉人たちを取り扱う漫画ですが、医者の数があまりに多くて驚かされます。中学の教科書に載っているようなあの人も実は医者だったとかたくさんあります。

 江戸時代なんて、麻酔もないし、外科治療もろくに普及してなければ、寿命も50年だった時代です。老若男女がたまたまよくわからない病気にかかる→治せない→死ぬ。までがあまりに簡単すぎて、早すぎて、とても見ちゃいられない。せっかく苦労して治しても、事故や犯罪に巻き込まれて、木の葉みたいに簡単に死ぬ。特に、10歳にも届かないような子供やずっと不幸だった人が苦しみながら死んでいくのを見るのはとてもつらい。「ブラックジャック」や「JIN-仁-」を読んだことある人ならこの感情は少しわかるかもしれないです。

 ただ、いくらどん底にあっても何らかの形で人は幸せを見出す生き物です。飯が少しだけ旨い。誰かが一瞬でも優しくしてくれる。今日は少しだけ息がしやすい。そんなのは現代の自分から見れば1グラムほどもない小さな幸せに見えますが、彼らにとってはそうではない。他は全部動きようもないほど不幸なのに、時には涙が出るほどうれしいことがある。真っ暗闇に居る人には小さな光がよく見えると言いますが、その光はしょぼいものでも偽物でもなく正真正銘の本物で、それが魂を救うんです。

 こんな文脈で使うのはまた誤用かもしれませんが、トルストイは「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」と小説の中で言いました。これを個人に置き換えても同じだと自分はずっと考えてきましたが、黒澤のいくつかの作品、特に今作「赤ひげ」を見て、幸せの形も実に多様ではないのかと感じるようになってきました。





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