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【symposium】(Part.5)「クバへ/クバから」_第1回座談会(レクチャー1)上演記録「三野新の作歴とプロジェクト全体の基本構想をめぐって」
(Part.4はこちら)
写真・映像・身体――『アフターフィルム』
三野 そういったことを継続して考えていった先で、8年後から10年後、つまり2016年から2018年にかけて、『アフターフィルム』を制作しました。これもある種の「写真言語」について考えつつ、写真と鑑賞者との関係性、あるいは「枠とは?」みたいなものを考えながら作っていた作品です。
発表方法としては、映像作品が流れているのと同じ空間に写真作品も展示されているという、インスタレーションの形式をとりました。この写真群は『アフターフィルム――あなたを見ているわけではない』シリーズと名付けています。
鈴木 これ、「やばいよやばいよ」みたいなやつでしたっけ?
三野 そうですそうです。セリフですね。
笠井 前提知識がない方に補足するための質問です。アフターフィルムというのは……?
三野 サミュエル・ベケットが脚本を書いた『フィルム』っていう映像作品があるんですけど、その「アフター」という意味です。すごい雑に説明すると、カメラに追われ続ける主人公が、部屋に追い詰められて、実はお互いがドッペルゲンガーみたいな同じ人間だったっていう作品です。カメラと被写体が登場人物で、カメラは被写体を追いかけて、被写体は逃げ続けていく。最終的に自分の部屋(かつての母の部屋でもあるようだ)に入って閉じこもって、カメラが被写体の顔の正面を見ると、実はカメラは自分自身だったっていうオチなんです。
そのプロセスの中でも滅茶苦茶いろいろあるんですが、主人公の被写体が最終的にどうなってしまうのかは作品では明かされません。でも、お互いが見つめ合ってしまった後も、カメラ・被写体ともに絶対に存在し続けるだろうという想像が自分にはあって、彼ら/彼女がその後どうなっていったのか、自分なりに想像して作ったのが、『アフターフィルム』です。ちょっと見ましょうか。
三野新『アフターフィルム』/2021年5月末までの限定公開です。
三野 はい。こんな感じです。いや、いい作品ですね(笑)。
鈴木 惚れ惚れしました? 2018年の自分どうですか?
三野 いやすごい。こんな作品作ってたんだ。
なまけ 「なるほど」って隣から。(笑)
三野 今作では『A motorcycles goes to Alphaville』では重視されなかった、写真と身体、映像と身体、イメージと身体への関係性の方に制作の意識を持っていきました。もしくは参照元であるベケット『フィルム』における視線の問題みたいなことの混じり合いが意識されています。
『アフターフィルム』では、出演していただいている深澤しほさんと、スペースノットブランクの小野彩加さん、中澤陽さんとで、パフォーマンスバージョンも発表していて(「アフターフィルム:performance」2018年8月5日、SCOOL)、その上演のあとにいぬのせなか座の2人、山本くんと鈴木くんにも急遽アフタートークをお願いしたりしました。
SCOOLでの「アフターフィルム」上演時の記録写真(撮影:三野新)
山本 その日は、映像バージョンを上映してから、パフォーマンスバージョンを上演して、という流れでしたね。
三野 両方の形式で見せることで、身体の実在性と記録されたものの対比、さらにそれを見ている鑑賞者との関係性を意識していました。鑑賞者が、イメージに映る身体(『アフターフィルム』では「顔」に注目した)をじっくり見るときに生じる「変な」感情や実感としてのレイヤー操作、さらにそこに物語を入れ込む構造的なレイヤーにまで拡大・適用して用いるというか、映像そのものを見る経験を現実に拡張させるような操作を行うこともまた意識していた部分です。
今作はベケットの『フィルム』を意識するとより面白いものになっていますが、もちろんこれだけでも完結する作品ではあります。写真・映像・身体のイメージを用いて批評する、ということを意識してやっている部分があることがお分かりいただければ。
山本 『アフターフィルム』は他の三野さんの作品と比べると、おそらくかなり抽象度が高い部類に入りますよね。社会との具体的な関係というよりは、映像と身体と言葉をめぐる根本的な領域――特に「何をもってそこに魂や能動性を見出すか」という問い――を、短編というかたちで、丁寧に試行錯誤しているような。
三野 かなり間接性が高いというか、あんまり政治性や社会性は意識せず、本当に純粋に、見え方に関する表現というものを追求した側面があった作品ですね。当時はそれだからこそできる表現があると思っていた。
山本 パフォーマンスバージョンでは、確か、映像内で用いられていたのと同じテキストを使い、映像と同じ役者たちが、ほぼ同じ身振りでもって観客の前で演じていましたね。
三野 もちろん身振りは映像のほうから若干変更してはいるんですけど、ほとんど同じですね。
山本 役者が別の役者の頭を持って動かすといったような、撮影時に行なっていただろう身振りを、上演として展開する。それにより、映像では写っていなかったところまで観客に情報が開示される。結果、映像バージョンで試されていた「何をもってそこに魂や能動性を見出すか」という問いが、再度、別角度から検証されることになる、と……。
(Part.6につづく)
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