見出し画像

【symposium3】「クバへ/クバから」第3回座談会(シンポジウム)上演記録「『沖縄の風景』をめぐる7つの夜話」第7夜(12/27)「写真集制作に向けた公開編集会議の上演」(Part.3)

(Part.2はこちら


2分冊にしては?

山本 ぼくからみなさんに事前に共有した案は――あくまで仮案、たたき台として受け取ってもらえればと思いますが――①2分冊にする、かつ、②小さい判型にする、という2点から成っています。

スクリーンショット 2021-01-09 21.19.41

山本 まずひとつめ、2分冊について。

 今お話したように、今回の企画では、写真集に収録可能なテキストがすでにかなりの分量ある。と同時に、本来メインとなるべき三野さん撮影の写真もある。両者の組み合わせを、写真集としてまとめる上では考えなければならない。そこでは、例えばぼくが自分の発表でやったように、東松照明『太陽の鉛筆』における地図やテキストの扱いや、キャプションの問題、あるいは「組写真」「群写真」といった議論なども、当然関わってくるところでしょう。

 ただ、今回の場合、他の多くの写真集(や写真をめぐる表現)との明らかな違いとして、テキストの著しい多さがある。うまく一冊のなかで組み合わせようにも、テキストが単純に分量として多いために、レイアウト面でも、写真より強い力を持ってしまう可能性が高い。

スクリーンショット 2021-01-09 21.20.24

山本 今回の写真集制作に向けて、最初に想像したのは、写真とテキストがものすごく激しく関わっていくやり方でした。例えば、戸田ツトム『断層図鑑』。戸田によるテキストが基本であるけれど、そこに、様々な写真や図がガンガン入っている。

スクリーンショット 2021-01-09 21.20.53

山本 衛星写真みたいなものから、グラフ、ただのノイズにしか見えないものまで。ものすごい読みづらいんだけれど、これを例えば、「写真集」として見てみることは可能だろうか。写真や図がメインであり、そこに、読みづらいけれどテキストがたくさん入っている――そういう写真集は今回ありうるかもしれない、などと考えたりしていました。

 またこれは、同じく戸田ツトムによるデザインの、伊藤俊治『ジオラマ論――「博物館」から「南島」へ』です。やはりテキストと写真が常に拮抗するような(とはいえ幾分か整理されたかたちでの)デザインが為されている。同じようなことをやろうとすると、(カラーページの入り方など含め)ものすごく計算が必要で、大変だけれど、でも、やっぱり面白くもありますね。
 ただ、これはこれで、やっぱりテキストがメインのデザイン方法なので、テキストの側に写真や図が飲み込まれていってしまう感じがある(テキストと図がもともとそのような関係性を持つように著者によって作られている、というのはもちろんだけれど、それだけでなく、デザインレベルの問題でもあるはず)。このようなデザインを、例えば座談会のテキストアーカイヴのページにおいて実行するのはぜんぜんありだけれど、でも、写真集全体をこれで通すというのは、果たして写真にとってベストなのだろうか、みたいなところがある。

スクリーンショット 2021-01-09 21.22.16

鈴木 キャプションみたいになっちゃうってことでしょ?

山本 まあ、そう、テキストの側からしても、写真に寄与するキャプションみたいに機能してしまうことが果たして良いのかどうか、みたいなところもあります。今回の企画の特殊なところですが、三野さんによる写真や撮影行為と、例えば座談会での議論は、どちらが上というわけでもないはず。一方に一方が従うのではなく、ある程度切れている必要があるんだと思うんです。


書物は自律し、完結性をまとう

山本 繰り返しになりますが、座談会第1回のページなどでは、テキストがたくさん並んでいるなかに、そこで言及されている三野さんの過去作の写真がどんどん入ってくる、というのは良いと思うし、この『ジオラマ論』みたいな方向性でレイアウトしてみたいと思っています。ただ、三野さんによる沖縄での写真も同様に組んでいくというのは、そのままではあまり良くないというか、やるにしてもかなりアクロバティックな解決方法を見いださなければならないだろう。あるいはもしやれたとしても、どこまで効果的か、ちょっと疑問がある。

 じゃあ、どうやってテキストと写真を切り離すか……というより、それぞれに自律させるか。前半後半みたいな感じにするとか、右開きと左開きで分けるとか、いろいろ考えていました。写真パートを4色(カラー)にして、テキストパートを1色(モノクロ)にする、それを折りごとに混在させるみたいなこともありうるかもしれない。本はたいていの場合、16ページで一折りになっています。つまり大きな紙に印刷をして、それを八つ折りにして小さな本を作り、それをページ数分束ねて一冊にするという方法をとるのですが、その折りごとにインクを変更することができるので、そのあたりをうまく調整すれば、前後編みたいな分け方をしなくても、うまく混在させられるのかもしれない。

スクリーンショット 2021-01-09 21.22.51

山本 しかし……などと考えているうちに、いっそ、という気持ちで出てきた案が、「2分冊」でした。

 それによって得られるものとして、もちろん、写真パートとテキストパートをそれぞれで自律させるということがあるわけだけれど、おそらくそれだけではない。写真パートを、いっこの仮設的な写真集として考える余地が生まれるんじゃないか、とも思ったんです。つまり、仮止めというか、いったんここに置きました、というようなものとして写真集を作れるんじゃないか、と。また、もう一方では、テキストパートを、写真パートに対する戯曲のようなものとして見せることもできるかもしれない、とも思った。笠井さんが、契約書を一種の戯曲として捉えるという考え方を提示していましたが、それをデザインレベルでも実行できるのではないか、と。

 つまり……紙の本というのは、いったん1冊にまとめて刊行すると、これでもう完成、という感じになるわけですね。当たり前の話ですが。例えばウェブページだったら、いちどリリースしたあとでも、どんどん更新したりできる。でも、紙の本だと、一箇所誤植があるだけで、たいへんなことになる。変更がぜんぜん効かない。誤植が起こったことも含め記録し保存してしまう、強力なアーカイヴ性を持っているわけです。


仮説的なもの、戯曲的なもの

山本 そうした、強固な硬さ、自律性、完結性みたいなものを、今回のプロジェクトにおいてどこまで機能させるかというところが、ちょっと難しいなと思っていて。「クバへ/クバから」では、沖縄をめぐって表現を行なう上での戸惑いや抵抗みたいなものについて、えんえんと試行錯誤していくこと自体がすごく重要とされていますよね。また、これまでの三野さんの作品においても、常に、一度上演した作品の映像記録などを転用して別の作品を新たに作っていく、さらにそれがまた次の作品へ……というように、何度も制作が始まってはいったん止まり、始まってはいったん止まる、という、繰り返しが見られるかと思います。

 そういった制作スタイル――ひとまずひっくるめて「仮設性」と呼びますが――を、どのように、紙で印刷された写真集という、全く仮設的ではない、出版されてしまえばもうガチッと固定されてしまい変更が効かないような表現形式において、実現するか……。そのとき、2分冊というかたちで、1冊をテキストメインに、もう1冊を三野さんの写真メインにした上で、後者を仮設的なものとして扱うというのは、もしかしたら有効かもしれない。

 つまり、ただ2分冊にすることで仮設性が得られるというより、2分冊にすることで写真パートをテキストパートとの対比のもとで仮設的上演とすることが可能なのではないか、ということです。写真パートのほうの紙面レイアウトも、単純に三野さんが撮った写真を並べていくというのではなく、テキスト集のなかから、三野さんが重要と思ったところをどんどん引っ張ってきてもらって、写真とともに組み合わせていく。写真の時系列もぐしゃぐしゃにしていいと思う。座談会第1回でも触れた三野さんの過去の仕事として『Z/G』というものがありましたが(第1回座談会上演記録Part.7参照)、あれで為されていた、いくらか戯曲めいたところもあるたくさんのテキストやメモと写真の不規則な組み合わせ、に近いやり方を、今回の写真集においても適用するわけです。

 ある種、メモ帳みたいな仮設的性質の強い写真集と、その元となった戯曲としてのテキスト集。テキストの方は、アーカイヴ性も強い分、どうしても固定性からは逃れがたいでしょう。ゆえに、ガチッときれいにレイアウトする。一方、写真集のほうは、テキスト集をもとに、仮にいったん遂行されたものとして構築できないか。もしかしたらバージョン2、バージョン3が、今後ぞくぞくと作られていくかもしれないようなものとして、写真集のほうを考える。これが、2分冊で目指すところというか、2分冊で可能にしてみたいところです。

スクリーンショット 2021-01-09 21.23.13


イメージの、持ち運びやすい大きさ

山本 もうひとつ、「小さい判型」について。これは、2分冊の延長線上で、単純にコストの問題を意識しつつ行き着いたところではあります(特に郵送費! 厚みが3cmを超えると一気に郵送費がかさむので、なるべくそれを抑えつつ、ページ数も確保したい、としたとき、厚さ3cm以下の2冊を横並びにしてA4封筒で郵送できる判型にすればいいのでは、と考えたのでした。判型が小さいなら写真一枚一枚が小さくても違和感が少なく、結果的にページ数の圧縮につながるでしょうし。もちろん印刷コストの問題が別途入ってくるわけですが)。と同時に、写真から、特権性や「完成された作品」性をいかに剥奪し、操作可能な仮設性へと持っていくか、という狙いもありました。

 当たり前の話ですが、写真集って、写真をしっかり見せていくことを目的にしているがゆえに、判型が大きく、一枚一枚をバーンと強く見せていく傾向がやはりある。持ち運びも大変で、価格も高い。ただ、今回の写真集で主となる、沖縄で撮られた写真は、そのような特権的な、強い見せ方をしていいのか、という疑問があった。それよりも、もうちょっとコンパクトで、自由に動かせるもの……ポストカードくらいの大きさでもいいのかもしれない、と思ったんです。もちろん、あんまり小さくするともったいないというか、写真の力が薄れるので、そのあたりもすごく悩ましいところではあるんですが。

 いったん紙面上に置かれてはいるんだけれど、読者の手で、ほかの場所、ほかのページや場所に気軽に手で動かせるかもしれない、というくらいの、絶妙な大きさや見せ方を探れないかな、という気がしています。

スクリーンショット 2021-01-09 21.24.34

山本 いま、仮に「B6」という大きさを考えています。ちょうどこの紙の大きさですね。いまここにある本だと、『ジョゼフ・コーネル コラージュ&モンタージュ』、これは正確には四六判だけれど、感覚的にはかなり近いです。

スクリーンショット 2021-01-09 21.24.57

山本 写真集のほうの製本方法は、コデックス装をひとまず想定しています。ぼくとhでデザインした『光と私語』で採用した製本方法です。こういう、かなり仮止めのような印象を与える製本で……。

スクリーンショット 2021-01-09 21.28.46

山本 見開きでがっつり開くので、写真も見せやすい。『光と私語』は、B6よりすこし小さいサイズですが。

スクリーンショット 2021-01-09 21.29.18

山本 ついでに言うと、メモ帳のような書物というのは、三野さんの『Z/G』のほかに、例えば『Casa de Lava-『溶岩の家』スクラップ・ブック』も意識しています。映画監督のペドロ・コスタが『溶岩の家』という映画作品を制作する際にもとにしていた自身のスクラップブックを、日本で書籍化したものです。デザイン面では、なんでオリジナルはもっとボロボロで柔らかいノートだったはずのものを、硬い、ハードカバーにして刊行したんだろう? とか、思うところはちょっとあったりするんですが。

スクリーンショット 2021-01-09 21.30.11

三野 このデザインは秋山伸さんですね。

山本 そうですね。このように、写真とテキストが、何かしらの意図や気づきのもとで、しかし完結し固定された「作品」としてではなく、あくまで仮のものとして配置されている。見開き単位を意識しつつ、ひとまずメモとして並べられたそれらは、なにかの役に立ち、使われた(ペドロ・コスタの場合は映画制作)、その痕跡としても残されている。そういった空間を、今回の写真集(という書物)のなかに立ちあげられないかな、と思っています。


(Part.4につづく 順次公開予定)

ここから先は

0字
ご購読いただくと、三野新の過去作品や映像アーカイヴ、写真集に収録予定の写真(一部)のほか、レクチャー、シンポジウムの映像・テキストアーカイヴがすべてご覧いただけます。 ワークショップ、展覧会の予約申込もご購読者を優待します。 さらに4ヶ月以上ご購読いただいた方には、写真集1冊(予価:税込5,000円)を贈呈いたします。もちろんプロジェクトメンバーも大喜び。あなたのご参加が、多くのひとにとって、忘れがたい大切な記録になりますように。

写真家・舞台作家の三野新と、いぬのせなか座による、沖縄の風景のイメージをモチーフとした写真集を共同制作するプロジェクト「クバへ/クバから」…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?