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【symposium3】「『沖縄の風景』をめぐる7つの夜話」第3夜(12/23)「沖縄報告――「私はそこに私を見る」を支える言語/写真(のインスタレーション性)、あるいは紙面レイアウトにおける上演の試案」(発表:山本浩貴)

※本稿は、「クバへ/クバから」第3回座談会(シンポジウム)「「沖縄の風景」をめぐる7つの夜話」第3夜(12/23(水)20:00-)の発表資料です。

1 はじめに
 A.今回の要約
 B.外部から沖縄を撮影する者たち――東松照明と中平卓馬
2 ルポルタージュとリアリズム、私と公共――東松照明
 A.沖縄のためのルポルタージュ
 B.岩波写真文庫と組写真
 C.名取・東松論争――群写真とリアリティ
 D.ズレと国家――岡﨑乾二郎「写真が存在する場所」
 E.まとめ:ルポルタージュが「許す」もの 
 F.写真集における「余白」――北澤周也「「あいだ」と写真」 
3.事実とカメラ、私の所在――中平卓馬 
 A.「映像は論理である──東松照明とグラフジャーナリズムの現在」(1965) 
 B.「リアリティ復権」(1969) 
 C.「同時代的であるとはなにか?」(1969) 
 D.「言葉を支える沈黙」(1969) 
 E.「日付と場所からの発想」(1971) 
 F.「記録という幻影──ドキュメントからモニュメントへ」(1972) 
 G.「なぜ、植物図鑑か」(1973) 
 H.沖縄関係テキスト
3 沖縄訪問――写真集の具体的プランに向けて
 A.沖縄旅程、三野さん(たち)との対話――儀式、視線、ささやかな持ち帰り
 B.インスタレーションと空間
 C.「私はそこに私を見る」を支える言語/写真(集)


1 はじめに

A.今回の要約

①外部から沖縄を撮影する者たちとして、ふたりの写真家――東松照明と中平卓馬――の仕事や議論を振り返る(やっぱりいちど、丁寧に前提を共有しておいたほうがいい)。
②その上で、沖縄訪問時に三野さんやいぬのせなか座メンバーと交わした議論などもあらためて紹介し、インスタレーションの問題を持ち込みたい。
③さらに、ここ最近の山本の仕事(大林宣彦論、ホラー論、戸田ツトム論など)も巻き込むことで、リアリティや役柄、紙(面)などの問題として、今回の「クバへ/クバから」プロジェクトにおける「写真集制作」を考えられるようにしたい。

 ……が!、準備してみると、東松+中平をめぐる話だけでかなりの分量になってしまう!
 なので、ひとまず①についてやる。②③は、メンバーとの対話を通じて、概観するにとどめる。


B.外部から沖縄を撮影する者たち――東松照明と中平卓馬
「クバへ/クバから」座談会第2回で三野さんから為された発表では、東松照明と中平卓馬に焦点が当てられていた。かれらが沖縄を訪れ撮影しはじめてからすでに約50年が経過しているものの、沖縄を「本土」の側から訪れ撮影した者たちの仕事や議論として、今回のプロジェクトでは避けては通れない。
 座談会第2回においてと同様、あくまで簡単なものにはなるが、必須となるだろう情報の整理・共有として、まずはまとめる。


2 ルポルタージュとリアリズム、私と公共――東松照明

東松照明(1930-2012)
 愛知県名古屋市生まれ。明治生まれの日本人の典型を探る「日本人」シリーズ、在日米軍をめぐる「占領」シリーズ、被爆地としての長崎をめぐる「長崎」シリーズなど、戦後日本のあり方を探る仕事を多く展開した。
 特に、「占領」シリーズの延長線上で1969年に訪れた沖縄をめぐっては、多くの写真集を刊行。那覇や宮古島に約2年滞在したほか、2010年にも沖縄へ移住している。
 沖縄をテーマとした主な写真集に以下がある。
『沖縄に基地があるのではなく基地の中に沖縄がある OKINAWA 沖縄 OKINAWA』(写研、1969年)
『太陽の鉛筆』(毎日新聞社、1975年)
『光る風―沖縄』(日本の美・現代日本写真全集8 集英社、1979年)
『camp OKINAWA』(沖縄写真家シリーズ 琉球烈像 第9巻 未来社、2010年)

参考:東京文化財研究所 物故者記事
東松照明(https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/204410.html

ここでは、東松と沖縄の関係、東松と名取洋之助の論争、かれらの方法論としての組写真と群写真、そこでの事実やリアリティの問題、ルポルタージュと「表現しても良い」という認識の関係などの順で、語っていく。


A.沖縄のためのルポルタージュ
『〈11時02分〉 NAGASAKI』(1966年)や『日本』(1967年)など重要な写真集をすでに発表していた東松は、『アサヒカメラ』特派カメラマンとして沖縄へ初めて訪れ、2ヶ月間取材する。その後、集中的に沖縄を撮影することになる。
 沖縄において東松は、「占領」シリーズ・「日本人」シリーズの発展や、日本と東南アジアの関係をめぐる思索(沖縄へ関心を持つきっかけのひとつだった柳田國男『海上の道』や、島尾敏雄の「ヤポネシア論」からの影響でもあるだろう)などを進めていくが、思想的に重要なのは、ルポルタージュをめぐるものではないか。

 誰のために写真を撮るか、という極めてシリアスな設問がある。ぼくの場合、誰のために沖縄へ行くか、と言いかえてもよい。今、問題になっているのは、国益のためとか社会のためといったまやかしの使命感だ。率直な表現として自分のためと答える人は多い。自慰的だけどいちおううなずける。が、そこから先には一歩も出られない。ぼくは、国益のためでも自分のためでもないルポルタージュについて考える。
 被写体のための写真。沖縄のために沖縄へ行く。この、被写体のためのルポルタージュが成れば、ぼくの仮説〈ルポルタージュは有効である〉は、検証されたことになる。波照間のため、ぼくにできることは何か。沖縄のため、ぼくにできることは何か。この十日間、そのことばかり考えてきた。
東松照明「日誌=波照間島 沖縄のため、いまぼくにできることは何か」、『カメラ毎日』1972年4月号(強調原文)

 「ルポルタージュ無効論」をさらに「無効」にする撮影行為。それが沖縄での撮影を可能にするのか、あるいは沖縄での撮影が成功(?)することによって「ルポルタージュ無効論」の「無効」化が果たされるのか。写真家・比嘉豊光の「ヤマトンチューのカメラは、沖縄を見世物として晒す。それは差別する者の目だ」(東松照明「沖縄通信(下)ヤマトンチュの差別のもとで」『アサヒカメラ』1972年11月号)という言葉に晒されながら、沖縄で撮影を続け、1975年9月に『太陽の鉛筆』を観光する。そこでは次のように書いている。

写真家は通過者であったり滞留者であったりする。が、それも、見る状態が変化するだけで、見つづけることに変わりはない。写真家は、医師のごとく治療するでなく、弁護士のごとく弁護するでなく、学者のごとく分析もせず、神父のごとく支えるでなく、落語家のごとく笑わせもせず、歌手のごとく酔わせもせず、ただ見るだけだ。それでよい。いや、それしかない。写真家は見ることがすべてだ。だから写真家は徹頭徹尾見つづけねばならぬのだ。対象を真正面から見据え、全身を目にして世界と向き合う、見ることに賭ける人間、それが写真家なのだ。
東松照明『太陽の鉛筆』1975年

 見ることがすべて。東松は同年4月に中平との対談で次のようにも語っていた。

もうひとつのファクターとして「私性」の問題ね。古い写真でいいなって思うのは「私性」の希薄な写真、歴史の風雪に耐えて残っちゃっている写真の大半がパブリック・ドキュメントだ。パブリック・ドキュメントというと、直ちに報道写真を想像されるんではないかと恐れるんだけど、報道写真ではなくてね、「私性」の彼方に撮ってしまった「公共」とでもいうか、そういうものなんだけどね。
東松照明+中平卓馬「写真事始」『流動』1975年4月号

 「「私性」の彼方に撮ってしまった「公共」」としてのルポルタージュ。
 のちに東松は、公においてではないにしても、自らの「日誌=波照間島」における発言を否定することになるのだが(※)、「本土」から沖縄を訪れそこで写真表現を行なう、といったとき、ルポルタージュへの賭けが生まれていたこと、またそれを通じて単なる私性でも公共でもない、私性と公共のあいだの緊張関係がもくろまれていたこと(そしてそれがベストではなかったと振り返られていること)は、福岡出身・東京在住の三野新が沖縄において撮影を行なう「クバへ/クバから」においても、重要な前提としてあるだろう。

※新里義和「東松照明×森山大道」(『越境広場』2号、2016年、越境広場刊行委員会)によると、「東松照明と沖縄 太陽へのラブレター」展を企画していた新里が写真とともに東松によるテキストを展示しようとした際、「東松が口に出した言葉が「波照間の文章だけは使わないでくれ。」であったのだ。私が理由を尋ねると、「あの文章は間違っていた…。と言ったきり、それ以上語らなかった」。

 「沖縄のため」になる写真表現を目指す――それにより、「本土」側の人間である自身が沖縄で撮影することを成立させる――上で、単に公共に与する表現を行なおうとするのではなく、「「私性」の彼方に撮ってしまった「公共」」こそを探る。東松のこうした姿勢の背後にあっただろう議論として――特に彼の、写真集をめぐる方法論に関わるものとして――写真家・編集者の名取洋之助の仕事、ないしは名取と東松の論争を、概観していく。


B.岩波写真文庫と組写真
 東松は大学卒業後、「岩波写真文庫」の制作スタッフとなり、『水害と日本人』(1954年)、『戦争と平和』(1955年)、『やきものの町――瀬戸』(1955年)、『塩の話』(1956年)などに関わる。なかでも特に『やきものの町――瀬戸』は、東松自身が企画を担当したこともあり、レイアウトが他とは異なる(写真がそもそも大きい)。
 「岩波写真文庫」は、1950年から1958年まで、「物語る写真」「眼でみる百科」などをスローガンに286巻刊行された、当時強い影響力を持っていたテーマ別写真集叢書。
 編集長である名取洋之助は、1910年東京生まれ。東松のさらに上の世代の写真家・編集者。1928年にドイツに渡り、当初は演劇に強い関心を持っていたが、美術工芸学校で学んだのちテキスタイル・デザインの仕事につく。31年にカメラを入手して以降、報道写真家として活動を始め、同年、ウルシュタイン社の契約カメラマンになる。グラフ雑誌(『Berliner Illustrierte Zeitung(ベルリーナ・イルストリールテ・ツアィツング)』など)で活動したのち帰国、木村伊兵衛や原弘らとともにデザイン会社「日本工房」を立ち上げ、海外向けのプロパガンタ雑誌『NIPPON』(1934-1944)を刊行。
 複数の写真やキャプションなどを組み合わせることで特定の被写体や主題や物語を非常に明確に立ち上げる、所謂西欧的な報道写真の撮影・編纂方法を重視し、それを「組写真」という言葉とともに日本で広めようとした。「岩波写真文庫」も、そうした実践の一つとしてあった。意図の明確な写真が、複数、キャプションや少し長めのテキストと巧みに組み合わされ、例えば「沖縄」の歴史と現在が効率的に表現される(『沖縄―新風土記』1958年)、など……。

 組写真をめぐり、名取自身はどのように語っていたか(以下、いずれも『写真の読み方』岩波新書、1963年より。ただし名取によるテキストの多くは、美術・写真批評家の多木浩二や、「岩波写真文庫」編集者の犬伏英之が代筆していたとされる)。

 写真は文字に比べるとあいまいな記号です。一枚の写真はいろいろに読むことができる。読む人の経験、感情、興味によって、同じ写真でも、解釈が違い、受けとり方に差がある。この記号としてのあいまいさを、どうすればふせげるか。カメラマンの意図、編集者の意図を、その意図どおりに読者に伝えるには、なにかよい方法があるだろうか。

 写真はそれ自体としては、読み取り方をひとつに絞ることができず、また、具体は写せても抽象的な概念を写すことはできない。さらに、撮影行為はそもそもが極めて主観的なものであるとも名取は言う。客観かつ、抽象的なものも含めての写真表現を行なうには、写真をめぐりさらに「嘘」の操作が必要である……。

写真は写しただけでは完成したものではありません。とくに、コミュニケーションの手段として写真を使う場合、写しただけの写真は、未完成品です。説明のつけかた一つで、写真は逆にも読める。何枚かの写真を組んでレイアウトすれば、強調したり、省略したりできる。いわゆる写真編集の段階で、撮影時の意図とはかかわりなく、話をつくり、印象を変えることができるからです。
 写真を何枚か並べると、抽象的な概念が表現できるということは、写真によって物語ることを可能にしました。ただ見せるだけでなく、カメラマン、あるいは編集者の意図したように読ませることのできる写真、それもそうとう正確に読ませることのできる写真が誕生しました。いわゆる「組写真」です。
写真は何枚か使うことによって、一枚の写真としての弱点を克服し、物語ることができます。現実の流れから切ってしまうことができます。現実の束縛から逃れることができます。それが、新しく写真が獲得した方法であり、場なのです。

 名取による具体例も引こう。

名取洋之助1

名取洋之助2

 それぞれ同じ写真を使用しているが、レイアウトとテキストを変えることで、「好意的、否定的の二つのルポルタージュをつくって」いる。

 極めて当たり前のような話だが、名取はこうした、写真をテキストともに複数使用することにより可能となる抽象的な概念・感覚の立ち上げと、多くの人への正確な(≒読みが分散しない、一律化した)共有、個人ではなく集団による制作を、〈良いもの〉として評価した。
 組写真は、編集・レイアウトを行なう者による、強力かつ単一の虚構・物語の立ち上げと共有を目指す。それは、写真に写らないような事実・真実まで写真を通じて高速で表現・伝達するための方法論だが、同時に〈写真に写らないような事実・真実〉それ自体の虚構性も問題になるところだろう。
 名取いわく、こうした虚構性をめぐる操作が最も顕著にあらわれたのが「戦争写真」だった。「戦争写真を戦争らしく見せるため」に、本来ならばありえない角度からの撮影を試みたり、あるいは粒子やブレなどのノイズを組み込んだりすることで、〈写っているもの〉を超えた「真実感」「ほんとうらしさ」を共有したのである。またそうした応用した者のひとりとして、名取はヒトラーの名を挙げてもいる。

 「写真の嘘にひっかからないためにも、記号としての写真の特性がもっと広く知られることは、ぜひとも必要」だと名取は語る。
 写真とはそもそもが虚構であり、主観的である。ゆえに作り手側はその虚構を操作し、主観を客観として立ち上げなおそうとする(レイアウトし提示する以上、そのような操作は避けられない)。読者はそれに接して「ほんとうらしさ」を(一種の反応として?)感じるだろうが、同時に、その「ほんとうらしさ」をめぐる操作の方法論を知っておく必要もあるだろう、と。
 名取にとっての写真、あるいはそれが立ち上げる「事実」や、それにより為される「ルポルタージュ」とは、こうした多重的な虚構により初めてもたらされる、〈多数への正確な共有の度合い〉の問題としてあった。


C.名取・東松論争――群写真とリアリティ
 名取と東松のあいだには、1960年にいわゆる「名取・東松論争」が起こっている(以下、林田新「星座と星雲――「名取=東松論争」に見る「報道写真」の諸相」(『映像学』84号、日本映像学会、2010年)を参照)。

 まず、写真批評家の渡辺勉が「新しい写真表現の傾向」(『アサヒカメラ』1960年9月号)で、東松をはじめとする若手写真家たちを取り上げ、物語ではなく映像そのものに注目し活動していると評価。
 それに対し、名取が「新しい写真の誕生」(『アサヒカメラ』1960年10月号)で反論。「事実を尊重し、現実の中から、ある空間、ある時間をきりとることで成り立っている写真と比べれば、たしかに異質ではある」としつつも、それは「新しい写真表現」ではないとし、「何枚かの写真の画面と、その配列の総合として生まれる効果」に注目すべきだとした。名取は岩波写真文庫で報道写真家としての活動を始めた若手写真家、つまり自らの弟子にあたる者たちとして、東松と長野重一(1925-2019)を取り上げ、後者を「あくまでストーリーを理解しやすくするための手段」として写真を用いていると評価。一方、東松は、「これはもっぱら印象だけの写真だ。他人にわからせる努力はほとんどなされていない。人によっては何が何だかわからないだろう。長野の写真を巧みな解説記事とすればこれは写真で描いた詩といえよう」と批判する。

報道写真は特定な事実、特定な時間を尊重する。〔…〕東松はこの報道写真の、特定の事実尊重を捨てた。時とか場所とかに制限されない方向に進もうとした。逆にいえば、報道写真とは、時間、場所にとらわれないことによって絶縁してしまったのだ。
名取洋之助「新しい写真の誕生」『アサヒカメラ』1960年10月号

 これに対し、東松は翌月の同誌に寄稿(「若い写真家の発言・1 僕は名取氏に反論する」『アサヒカメラ』1960年11月号)。名取は自らの育ての親ではないとした上で、「写真の動脈硬化を防ぐためには、「報道写真」の悪霊を払いのけて、その言葉が持つ既成の概念を破壊することだ」と反論した。

 注意してもらいたいのは、ぼくが岩波写真文庫に席をおいたという理由で、また、写真は記録だ、といったとしても、報道を目的に行為したとしても、いわゆる報道写真家にはならないということだ。傍点は名取氏が考えるようなという意味である。
 それから名取氏は「特定の事実尊重を捨てた」ことで僕が報道写真家でなくなったという。かりに僕がいわゆる報道写真家だったとしても、途中で特定な事実尊重を捨てたおぼえはない。いわゆる報道写真家を拒否したまでだ。
「若い写真家の発言・1 僕は名取氏に反論する」『アサヒカメラ』1960年11月号、強調原文(傍点)

 名取において、写真により表現される「事実」とは、多重的な虚構により初めてもたらされる、〈多数への正確な共有の度合い〉の問題であった。
 それは虚構ではあるとはいえ、可能な限り、撮影・編集に先立つ現実(リアリズム)こそに従うことを目指す(それに従うことが、〈多数への正確な共有の度合い〉に近づく手立てである、と言えようか)。
 一方、東松における「事実」はそれとは異なるという。論争から10年後の1970年、東松はやはり名取の「組写真」を引き合いに出しつつ、それとは異なる自らの技法を「群写真」と名付けている。

 写真と写真を組み合わせるのは、単写真のおしゃべりを止めさせるためではなく、逆にさらに多くのおしゃべりをさせるためだ。はっきりとした意図をもって、写真を複数で提示すれば、それは単写真の持つ音量をさらに増幅する。このような群としての写真を、ぼくは、名取氏のいう組写真と区別するために、“群写真”と呼びたい。
 群写真は写真をマッスとして、星雲状の塊として提示した状態をいう。したがって、ストーリーを持たぬ群写真では、5Wも起承転結も問題とはならない。群写真は、名付けられる以前のさまざまな現実の対応物として、見るものの前に投げ出される。群写真は、自ら全体の方向性を示しはする。だが、写真の意味付けはやはり文字によるしかない。
東松照明「組写真から群写真へ」『アサヒカメラ教室 第3巻 スナップ写真』1970年

「名付けられる以前のさまざまな現実」。その対応物として、複数の写真を並べていく。結果、組写真において見られたような、多数に共有されうる単一の事実が語られていくのではない(複数の写真が単一へと収束するのではない)。
 むしろ、一枚一枚だけでは語られなかったような情報量が、お互いを掛け合わせるように立ち上がり、それでもって「現実」と呼ばれるのである。その「現実」は、一言で外から言語化され、多数に共有されるものではない。写真らにおいて生じ、かつ、公というよりもおそらくは私的にそのつど把握されるものだろう。
 言い換えれば、そのようなものこそが、東松において(写真表現を通じて見出されるところの)「リアリティ」として考えられたということだ。

 後年の語りとして、東松照明「リアリティとは何か」も参照しておこう。

 当時のぼくらは写真の世界で明確なアンチ・テーゼをかかげて出てきたわけではない。前の世代というのは、木村伊兵衛、土門拳を頂点とする、戦前からの報道写真の流れを組む人たちで、日本の写真界の主流だったんですね。そういう前の時代の写真に馴染めないという違和感をもってた何人かの若い写真家が福島によって集められた。それまでは「私」ではなく「公」のドキュメンタリー。ぼくらは、客観性信仰を疑いはじめた世代の走りであり、大人は信じられない、といった戦時中の記憶を引きずった世代でもあった。
 〔…〕フィクションとドキュメンタリーの境界があいまいになる時代。人工的につくられたものが、自然物を凌駕するという時代の走りです。いまふうにいえば「ヴァーチャル・リアリティ」。そこで問題となったのは、事実と虚構の関係。ドキュメンタリーとフィクションを区別しない。写真の世界では、それまでテイクする(撮る)写真とメイクする(作る)写真に分けて考えられていた。だけど、どっちかでなきゃならないという理由はないし、二分法に拘束されたくない。
 ぼくはリアリズムという言葉は好きじゃない。リアリティという言葉は好きだけどね。ぼくらはリアリティを、実と虚の境界線上の曖昧な領域で偶然発見することが多い。そのへんではゴダールと共通している。予想はしばしば現実によって裏切られる。裏切られたときの驚きを画面のなかに取り込む。そこがヴィヴィッドであったりする。考えてみると、現実というけど、だれかが仕掛け、だれかがつくったもの、虚構、ということでもあるでしょ。現実を絶対的なものとは考えない。自分でつくる場合もある。自分でつくったものを自分で撮って、自分でつくる。テイクでありメイクであるような場合があるわけです。
東松照明「リアリティとは何か」(『現代思想』1995年10月臨時増刊号 総特集:ゴダールの神話、青土社)
 ぼくが写真集を編む作業とゴダールの映画編集の作業は、製作のプロセスにおいてひじょうによく似ていると思います。ぼくは、「組写真」という言葉を否定して、「群写真」という言葉を使ってる。基本は一枚一枚の写真だけど、それを群化することによって、重層的なイメージがでる。映画のように時間を編むのではなくて、空間を編むのですが。でも、作家として似たような悩みがあって、似たようなところでつっかえてる。こういうふうに思い入れているけども、わからんだろうなと思いながら、なおかつ入れていくとか。なぜ入れたかとだれかに聞かれても、「入れたいから入れた」としか言えないような。
東松照明「リアリティとは何か」(『現代思想』1995年10月臨時増刊号 総特集:ゴダールの神話、青土社)

 ここで東松は、客観信仰とは異なるかたちで立ち上がる「リアリティ」について語っている。客観的現実とされるものが、しかし誰かによって作り出されたものである可能性……そのもとで、ドキュメンタリー的に撮影する(テイクする)写真と、フィクションとしてメイクする(作る)写真の対立を超えたものが模索される。てがかりとされるのは「(予想が)裏切られたときの驚き」である。客観的対象物として〈現実=リアリズム〉があるのではない、やはりあくまで写真の画面とのあいだで起こる私的な経験として、〈リアリティ〉があるとされるのだ。


D.ズレと国家――岡﨑乾二郎「写真が存在する場所」
 こうした東松的〈リアリティ〉を、造形作家・批評家の岡﨑乾二郎が論じている(明記されてはいないが、上記『現代思想』ゴダール特集が意識されているのではないか)。

・岡﨑乾二郎「写真が存在する場所」(『現代思想』2013年5月臨時増刊号、総特集:東松照明 戦後日本マンダラ、青土社)

 岡﨑は、東松を、土門拳によるリアリズム的な写真理論と名取洋之助による物語的写真理論の両方を受け継いだ「物質性と物語」の写真家だと位置づける。
 その上で、東松的〈リアリティ〉について、コンセプチュアルアートや、ミシェル・フーコーによるルネ・マグリット「これはパイプではない」の分析などとともに語る。

「この桜の写真は桜の写真ではない」あるいは「この桜は桜ではない」と感じさせることができれば、東松照明の写真は成功していることになる。たとえば「この沖縄は沖縄ではない」。そして観客は次にこう思う。「この沖縄ではない沖縄こそ本当の沖縄かも知れない」。この中に三つある「沖縄」という語が指す対象がズレてくる。同一ではない。こうしたズレが作り出されたときはじめて東松の写真の物質性も際立ってくるのですね。その効果まで、おそらく東松は計算済みだったでしょう。特定の何かの像であることから解放された写真。このとき感知されるリアリティ、現実性はかえって実際の対象(たとえば桜とか沖縄とか仮に措定された)のもつ現実性であるかのように勘違いもされる。すり替わって感知されてしまう、というようなことも起こる。東松は写真を通常よりもちょっと(かなり)大きな大きさで写真を焼くとか、通常より発色を強くだすとか、こういた〔ママ〕仕上がりの技術にものすごく執着し、つねに最新の最高の技術を使って制作していた。写真の物質性を際立たせるために。そのためにもまずいちばん重要なのはキャプションであり、他の写真との関係であった。観客を仮設的に設定したコンテキストにのせてしまうことがいちばん重要だった。そしてページをめくると裏切られる。キャプションを見て(「これはパイプではない」のように)ズレを感じる。そのときに、物質性が全面にでてくるということです。
岡﨑乾二郎「写真が存在する場所」『現代思想』2013年5月臨時増刊号、総特集:東松照明 戦後日本マンダラ、青土社

 単に「写真そのものはどうでもいい」「それをめぐる文脈操作だけが重要である」などといった話にはなっていないこと、また瞬間的ではなく持続的な鑑賞経験の話になっていることが重要だろう。
 文脈操作によって生まれる知覚・思考レベルでの矛盾やギャップ、それが観客にもたらすショックの時間経験が、写真そのものの持つ物質性と共鳴し、後者を視覚可能な「リアリティ」として強烈に喚起させる。物質性と物語は、それぞれが単独で成立するものではなく、両者がともに個別の負荷を発揮し、観客の肉体において互いに交わることによってはじめて、増幅されたかたちで受容されるものである、ということだ。
 そしてその延長線上で、「沖縄とは何か」といったような、「代弁」「象徴」などをめぐる技法の問題が出てくる。「沖縄のリアリティ」を単独で表象する写真なんてありえない、しかしいわゆる「沖縄らしさ」からずれた写真でもって「沖縄がここにある」とされたとき感じられる負荷の経験が、「沖縄のリアリティ」と誤認されることはありうる。
 それくらい、人が感じる「本物らしさ」とはぐずぐずである、という話であると同時に、東松が目指した「「私性」の彼方に撮ってしまった「公共」」としてのルポルタージュの内的構造をここに見出だすこともできるだろう。

・国家と表現(の先の沖縄)
 さらに付言すれば……ここで「沖縄とは何か」という問いが出てきたように――また名取における「事実」が〈多数への正確な共有の度合い〉と絡んでいたように――リアリティをめぐる問題は、制作者・鑑賞者らの共同体、なにより「国家」をめぐるものとして機能しもする。
 先にも触れたが、名取は、海外向けプロパガンタ雑誌『NIPPON』を組写真の技術でもって制作していた。あるいは東松も、『日本』(1967年)など、自らの写真(集)制作を通じて、戦後日本における「日本像」を模索していた。さらに東松の場合には、その先に沖縄が存在していた。
 戦時下において報国的な写真表現を行なったという、(名取をはじめとする)写真家らの過去を批判的に捉えつつ(※)、しかし戦後日本の統一的イメージを個々人において模索する必要にも迫られるなか、虚構と現実、私と公共の緊張関係の先を探るための、クリティカルな「問い」そのものとして、沖縄が注目される……中平卓馬においても同様の構図が見られるだろう。

※東松は「名取・東松論争」において名取が持ち出した「報道写真」という言葉について、のちに次のように語ってもいる。
「「報道写真」という言葉ですよね。報道写真という言葉は、戦争の記憶とまつわるもんですから、私はすごく抵抗があったんですよね。」「東松照明オーラル・ヒストリー 2011年8月7日」『日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ』2013年、http://www.oralarthistory.org/archives/tomatsu_shomei/interview_02.php


E.まとめ:ルポルタージュが「許す」もの
 名取にとって「事実」とは、多数の人間に特定の「物語」を共有すべく(人間が写真を読み取るその傾向のもと生み出された手法でもって)整えられた写真+レイアウト、それが結果的に表すだろう現実認識こそを指していた。
 ルポルタージュはそのプロセスにおいて生じる写真+レイアウトを指し、ゆえに同じ写真らを用いても、そのレイアウトによっては「好意的、否定的の二つのルポルタージュ」が作られうることになる。

 一方、東松にとっての「事実」とは、「名付けられる以前のさまざまな現実」である。文脈操作によって生まれる知覚・思考レベルでの矛盾やギャップ、それが観客にもたらすショックの時間経験が、写真そのものの持つ物質性と共鳴し、後者を視覚可能な「リアリティ」として強烈に喚起させることによって、「事実」は見出される(あるいは創造される)。

 東松の方法論である「群写真」をめぐっては、組写真との比較とともにすでに分析が多くなされているが(※)、端的にまとめれば、「隣り合う写真の間に時間的・空間的・因果的な隣接関係を構築するのではなく、全体を通じて単写真の内容を一定の方向へと増幅させるべく写真を組み合わせる編集技法」「それぞれ固有の内容的・形式的な特徴を持つ写真を、類似性が見出されるべく相互に組み合わせていく編集技法」(林田新)と言える。

※例えば以下など。
・林田新「星座と星雲――「名取=東松論争」に見る「報道写真」の諸相」『映像学』84号、日本映像学会、2010年
・土屋誠一「「時」のモンタージュ 東松照明論」『現代思想』2013年5月臨時増刊号、総特集:東松照明 戦後日本マンダラ、青土社
・竹葉丈「東松照明《わたしの町》 リアリズムと「組写真」の間で」『現代思想』2013年5月臨時増刊号、総特集:東松照明 戦後日本マンダラ、青土社
・北澤周也「東松照明『日本』(一九六七年)と「群写真」――社会化された自由な「群れ」」『美術手帖』2019年6月号、美術出版社

 また、そうした「群写真」という方法論が明確に言語化された前後のタイミング(1970年前後)に、東松が沖縄を訪れはじめ、「被写体のための写真」「被写体のためのルポルタージュ」を通じて「〈ルポルタージュは有効である〉」という仮説を実証したい、と表明してもいたことは、重要だろう。
「対象を真正面から見据え、全身を目にして世界と向き合う、見ることに賭ける人間」として写真家を定義し、「名付けられる以前のさまざまな現実の対応物」としての「リアリティ」を持った写真を撮影し、編む。その身振りでもって「国益のためでも自分のためでもない」、「沖縄のため」のルポルタージュを実行する……。
 単なる客観を目指すのではない。また、組写真的な、人間に沿って構成された「事実」に従属する語りでもない。「「私性」の彼方に撮ってしまった「公共」」という、あるいみ矛盾した状態としてのルポルタージュ。
 おそらく注目すべきは、それが成功したかどうか以上に、当時の東松が〈沖縄を「本土」から訪れ撮影し、自らの作品として表現する〉ことを自らに許す上で、ルポルタージュの成立を持ち出せばいい、と考えていた(少なくともそのように言語化した)ことだろう。
 のちに東松が自ら「あの文章は間違っていた…。」と語ったことも踏まえつつ、東松の仕事を、ルポルタージュとは異なる角度から引き継ぎ言語化・実行していく必要があるだろう。


F.写真集における「余白」――北澤周也「「あいだ」と写真」
 座談会第2回で三野さんが語った『太陽の鉛筆』『自然の鉛筆』の2冊について、同じく論じているテクストを、補足的に紹介しておきたい。

・北澤周也「「あいだ」と写真――『太陽の鉛筆』の余白、ではなく写真集の「潮間帯」をめぐって」(『美術手帖』2020年10月号)
 北澤が注目するのは、写真集における「余白」。そもそも世界最古の写真集と呼ばれる『自然の鉛筆』は、台紙に直接写真を貼り付けるというやり方で制作されていた。そこで写真とは、地=台紙に対する図=「「標本」=specimen(実物見本)」としてあったわけだが、その後、「地としての「台紙」が、印刷技術の発展に伴って写真と一体化し、近代的な写真集の始まりとして、ひとつの平面上へとミキシングされることにな」った。
「近代的な写真集においていわばシミュレートされた「台紙」としての余白は、写真の標本化にも物理的に寄与しないいっぽう、作品の個性と強度をその内側に拘束する「ホワイトキューブ」の基本的な性質とも分かたれる」。

 そこで写真集の紙面とは、「ページをめくるという身体動作」なども巻き込みながら「「図と地」のヒエラルキーを批判的に切り開く」奇妙な「あいだ」、あるいはそれにより生じる図と地の(GUI=グラフィカル・ユーザー・インターフェイスにも比されるような)重なりを抱えた「余白」としてある、と。

 その延長で、東松の『太陽の鉛筆』における、写真とキャプションまたはテクストの関係も検討される。
 「琉球諸島と東南アジアの島々」において撮影された写真らが「構図に従って」画一化された余白のなかに配置され、さらに余白には島名をあらわすシンプルなキャプションや、島々の信仰・儀式を「琉球諸島から東南アジアへの連なりの内部に見出そうと」する東松のテクストが添えられている。
 結果、「写真集の「余白」は、キャプションの安住する場所としてではなく、島嶼を取り囲み、離島を離島たらしめ、アイデンティティの交差と離反を繰り返させる両義的で流動的な「海」の様相を呈する」。そこでは個別の写真(あるいは島々?)が持つ強度よりも、互いの差異や同質性をめぐる反復過程こそが意識されるという。

 書籍における余白は、書き込みにより対話を可能にする場所であり、所与の思考空間である。しかし、写真集の余白は必ずしも書き込みを誘発しない。それでもなお、対話はありえる。それは余白との対話である。目(意識)を逸らす場所として、イメージを見る/イメージに見つめられる緊張関係を逸脱し、我に返る場として機能すると同時に、その読みにおいて記憶と忘却のせめぎ合い(潮間帯)を誘発する、劇的で流動的な場として、イメージの置かれた場所よりなお緊張感を有してしまう。そしてこのなかにこそ、東松照明はいるのだ。
 写真集の「潮間帯」は、まさに批評の空間である。視線や意識、記憶と忘却の闘争線が蠢く場であり、肯定と否定、共感と断絶がせめぎ合うこれらの両岸を脱構築しうるのが「あいだ」なのだ。イメージと余白がせめぎ合い、キャプションというドアノブによって半開きにされた扉が、島嶼と海の潮間帯を露呈させる。余白の波間に揺れるかつてのイメージは、他のイメージを侵食し、互いを巻き込んでゆく。それは、群として示された写真の「関係」を成り立たせてしまう。「関係」は、うやむやにされつつ決定づけられてゆく。

 こうした、写真とそれを取り巻くテキスト、あるいは紙面や余白の問題は、どんな写真集を考えるときにも最低限必須なものとしてあるだろうが、今回の「クバへ/クバから」プロジェクトのように、単に良い写真を撮って提示すればいいというのではない、コンセプチュアルな模索が重く食い込んでくる写真集の制作においては、さらに徹底して思考されなければならないところだろう。
 写真をどのように撮り、どのような情報とともに紙面上に並べ、一冊にまとめるか。あるいは一冊にまとめていくなかで、写真と情報の関係を担う紙面レイアウト(のルール)が、どのように形成されるのか……。


3.事実とカメラ、私の所在――中平卓馬

中平卓馬(1938-2015)
東京都原宿生まれ。総合誌『現代の眼』編集部に勤務、東松照明に映画批評の寄稿を依頼したことをきっかけに写真家として活動を始める。多木浩二、高梨豊、岡田隆彦らとともに季刊誌『PROVOKE』を創刊。1973年の『なぜ、植物図鑑か』など、批評家としても活躍。沖縄へは1973年7月に訪れ、1974年1月からは『朝日ジャーナル』取材のために沖縄を再度訪問。沖縄をめぐり作品・文章をのこすが、1977年9月に倒れ記憶の一部を失う。翌年、沖縄での撮影をきっかけに写真家復帰、『アサヒカメラ』12月号に「沖縄 原点1」を発表。以後も沖縄を繰り返し訪れては撮影を行なった。
沖縄をテーマとした主な写真集に以下がある。
『沖縄・奄美・吐カ喇1974-1978』(沖縄写真家シリーズ 琉球烈像 第8巻 未来社、2012年)
『沖縄』(RAT HOLE GALLERY、2017年)

参考:東京文化財研究所 物故者記事
中平卓馬(https://www.tobunken.go.jp/materials/bukko/809126.html

ここでは、中平のテキストを年代順にたどっていきながら、彼の思想において「写真」と「事実」がどのような関係にあったのか、そしてその先で沖縄にどのような眼を向けていたのかを整理する。引用はいずれも中平卓馬『見続ける涯に火が… 批評集成1965-1977』(OSIRIS、2007年)より。


A.「映像は論理である──東松照明とグラフジャーナリズムの現在」(1965)
 雑誌メディアにおける「グラフ」(写真中心の表現)のつまらなさを指摘。「そこに完全に見失われているのは、〈映像は論理である〉という言いふるされた大前提である。」

「写真」という言葉には自然主義リアリズムを前提とするひとつの物の見方がぬぐいようもなく付着している。「〈真〉なるものがどこか外部に客観的に存在し、カメラというこれまた客観的な機械がそれをそっくり切り取ってくる」。カメラの発明とその利用のされ方の歴史がいわば写真に不可避的におおしおつけたものであるそれは、事実を重視するという意味でドキュメンタリズムへの豊富な可能性をもちながらも、一方で、事実のもつドラマ性とカメラとの間の緊張関係に生まれるカメラマンのドラマツルギーとそこからひき出される「表現」の問題をいっさい斥ける事実信仰思想ともいうべきものを生みだしている。
写真の重要な機能として「事実」の記録があり、それは写真である限り宿命的につきまとうものであることを重々承知の上で、なおかつ反対に、表現され、提出された写真はそれ自体独立したひとつの宇宙を構成し、映像としての論理をもって自立運動を開始する、ということを強調したい。それは「事実」とか「現場」とか「対象」から自由な論理であり、時にまた、既に表現され提出され〈外化〉されたという意味でカメラマンからさえ自由な論理なのである。

 その先で、「『カメラ毎日』一月号、石元泰博・東松照明・長野重一の第一回共同製作「新宿」」を評価。「それは一切の文章による解説を拒み、しかも一枚一枚の写真の撮影者を明らかにしないという形をとっている。一見無原則、不親切に見えながらもそこには、表現され提出された「実体」としての映像の論理を強烈に打ち出してゆく明確な冒険的な試行がみられる。」

B.「リアリティ復権」(1969)

写真が表現=芸術を放棄した時、アラン・ロブ=グリエがみずからの小説に求めた〈探求〉を、あるいは、小説や映画よりさらに完全な形でおし進めることができるのではないか。〔…〕カメラは世界をトータルにとらえることはできない。それにできるのはたかだか眼前に生起するばらばらの現象、全体との関係すらさだかでない羅列的な現実をただそれだけのものとして記録することでしかない。しかしそれはまさしく眼前の現象であるが故に、眼で確認できる現実の断片であるが故に、それだけのものとしてのリアリティをもつことができるのだ。ちょうどゲバラの、行動を媒介にした、限られた有効性をしか望まなかった言葉の断片が、そのリアリティの故にぼくたちを強くうつように。
 くり返しになるが、写真家はすでにある言葉、ア・プリオリに捕獲された世界の意味を図解する者ではない。なぜならぼくたちにとって真に現実であるものは、それらの概念となった言葉から抜け落ち、命名を拒否する何ものかであるからだ。写真家は音をたてて瓦解してしまった世界をはりつめた凝視の中でさしあたってこれだけは真実だと確信する、〈特殊な〉〈限定づきの〉現実をいくつもいくつも積みあげてゆき、世界の再構成を夢想するロマンティストなのだ。だから一枚の写真はもはや表現ではない。それはすべての形容詞を拒絶してぼくたちに問いを発し続ける一つの疑問形の現実なのだ。この時、それを記録した写真家は姿を消す。あるいは写真は本来的にアノニマスなのかもしれない。


C.「同時代的であるとはなにか?」(1969)
1969年1月18,19日に東大安田講堂で起こった東大全学共闘会議派学生と警視庁機動隊の衝突に触れつつ……

今、写真家は自らに問わねばならない。写真を撮るというおのれの行為は歴史とどのようにかかわっているのかと。また現実に自らが生きるということと写真を撮るということが、どのようにしてかかわっているのかを?
〔…〕写真は記録である。それは芸術であることをやめ、内なるものの表現(expression)であることをやめて、記録に徹する時、何ものかでありうる、と再三ぼくはこの欄で主張してきたのであるが、しかしそれを一面的に強調するあまり、記録という言葉を何か客観的な記録という言葉が示すような、生きている記録者の眼を排除するような言いまわしをしてきたことを認めなければならない。たしかに〈客観的〉などというあいまいな言葉を安易に用いた時、記録はただの機械の問題、物理光学的な問題に堕してしまうだろう。ぼくは再びこの記録という言葉を、現実に生きている自己記録者の内面としての生の記録から出発して、それと世界との対応関係(それこそが歴史であり、生なのだ)のうちに再び記録をとらえなおさねばならないと感じている。実をいえばこの関係のうちに記録をとらえないかぎり、もはや写真を撮ることはできないのだ。
ぼくの主張するドキュメンタリーは最終的に次のことをぼくに開示する。写真はそれ自体いかなるものであっても現実の政治、現実の歴史の動きに対して有効な力にはならないということ。それにもかかわらずこの〈記録〉の中において初めて現実の政治、現実の歴史の総体がぼくの中に明確な輪郭を現してくるということ。必然的にぼくはこの二つをひとまず分裂したものと受けとらざるを得ないだろう。だからこの二つを、卑俗にも、歴史が最も大きなうねりを示す、ヴェトナムや沖縄やその他あらゆる政治の顕在化したところへ行って写真をとることによって、あたかも自らもまた歴史に参加しているかのような錯覚の中で、混同してしまわないことをぼくに命じる。


D.「言葉を支える沈黙」(1969)

 写真の場合、他の造形美術とは異なり、現実に存在する事物の像であるから、たとえ抽象的な物質のディティールであったり、壁のしみといったものであっても、何が映っているかは、かなりな程度明瞭である。だから写真に要求される意味とは、この場合いかに〈現実〉が、〈真実〉がとらえられているかということであり、それによって写真の価値が決定されるのが常である。しかしこれがくせものなのだ。ここで使われる〈現実〉も〈真実〉も、それは言葉によってからめとられ、認可された普遍的な〈現実〉、普遍的な〈真実〉、要するに意味としての〈現実〉であり〈真実〉なのだ。
 もうだいぶ前、ぼくはある雑誌で今年の一月一八、一九日の東大安田講堂をめぐる学生と機動隊の、いわゆる「攻防戦」について、後に新聞、雑誌に発表されたおびただしい数の写真についてふれ、機動隊とともに安田講堂を見上げながら撮られたこれらの報道写真には、それがいかに迫真的であろうと、またいかにうまく撮られたものであろうと、そこに真実はなかったと書いたことがある。それについてはセンチメンタルなことを言ってないで、〈現実〉を直視するのが報道写真家の仕事だという批判を受けたが、その時ぼくが言いたかったのは、このカッコつきの〈現実〉、カッコつきの〈真実〉をもう一度疑おうとしたまでのことである。

E.「日付と場所からの発想」(1971)

 ジャーナリズムという言葉がいつ、どのような形で定着していったのかぼくは知らない。だがおそらくジャーナリズムは近代の普遍的な「思想」に対抗するアンチ・テーゼとして生まれてきたはずである。それはみずからすすんで普遍性を放棄し、「日付」と「場所」という限定を与件として前提し、その上でのtransientな思考を提起し、それ故に化石化した「思想」に絶えざる亀裂を生ぜしめ、しばしばそれを風化させる力を果したはずである。いまでもこのことに関して日刊紙、あるいは雑誌などのコラムの文章が無署名で書かれているということは決して偶然ではないように思える。それはまずある特殊な状況での特殊な発言であることにみずから限定し、けっして読み返したり、保存されたりすること、つまり初めから普遍性を獲得することを目指したものではないことを明かしているようにぼくには思える。そしてその場合誰がそれを見たのかという形式的な責任の所在よりは、はるかに一人の男がともあれいつどこでそれを見たということの方が重要なのである。残された文字はむしろ一人の男の生きた痕跡、彼の生の疎外形態、というよりは彼の生の客体化として残されるばかりなのだ。そこには日付と場所に限定され、なおかつ不断にそれを乗り超えてゆく一つの運動があったはずである。それはただジャーナリズムの問題であるよりはわれわれの思考の様式、われわれの世界とのかかわりのロジックに深くかかわる問題である。
 今ではもうあまりにも使い慣らされ、すでに使い古されてしまったこの初発のジャーナリズムあるいはジャーナリストという言葉をぼくはそのような形で考え直し、蘇生させることを密かに考える。ジャーナリスト、大仰に言えば、それは認識の永遠の放浪者、まさしく運動体そのものと化した永久革命者の別称である。なぜなら限定(それを必然と言い換えてもよいが)のないところに真の自由への希求などありうるはずもなく、また一度わが身が特殊性でしかないと認めることはそれに媒介されることによって逆に達成すべき自由をより目近かにより具体的にとらえうるということなのであるから。

F.「記録という幻影──ドキュメントからモニュメントへ」(1972)

 写真は記録であるというぼくの主張は、もう一方の写真=記録論に対するアンチ・テーゼであった。それはカメラのもつ物理的性格に依拠して、写真の価値を遠いものを近くへ、まだ見ぬものを見えるものへと移送する情報価値にだけ限定しようとする写真の誕生以来手を変え品を変え写真家につきまとってきた薄められた自然主義リアリズム、またそのほとんど正確な裏返しとしての社会主義風リアリズムである(それは時代を告発するという思い上がった使命感につきまとわれて時代の汚い所、醜い所だけをことさらの典型として記録する。その思想、その認識論は既存の言葉と意味に何ら疑いをさしはさまないという意味でまったく自然主義リアリズムと同じである。ただ双方の逃げ込むコーナーが違うだけである)。
 それらに対してぼくは私の生きる生の記録を対置した。現実はただ一台の車が車であるということではない一台の車が車であるということは自明ではあるが不毛の心理である。一台の車はそれを見、それに触れる一人一人の背負い込む生の総体の中で個別的な様々な現実を構成するものだというのがぼくの唯一の論拠であったように思われる。つまり記録という言葉がわれわれに即座に連想させる客観的な私不在の視点に対して、私の絶えざる世界との出遇い、それだけを重視しようとする姿勢から記録という言葉をもう一度捉え直そうということであった。


G.「なぜ、植物図鑑か」(1973)

われわれは事物を凝視し、それを所有しようと事物に突進する。だが事物はそれに対して何も答えはしない。われわれの視線は事物の堅牢な外皮によってはじき返されるだけである。われわれの視線を前にして事物は絶えざる後退としてある。だがまさしくこの一点、私の視線がはじき返されるその一点から、事物の視線は私に向かって投げかえされはじめると言っても同じことであろう。
 わらしの視線と〓事物〓ルビ:もの〓の視線とが織りなす磁気を帯びた場、それが世界なのだ。
たしかに一枚の写真をとりあげてみる限り、それは私という一点から一方的に覗き見た空間を呈示しているだけにすぎない。だが一枚の写真の空間に限定するのではなく、時間と場所に媒介された無数の写真を考える時、一枚一枚の写真のもつパースペクティヴは次第にその意味が薄められてゆくのではないか。つまり、そうすることによって時間に媒介され、無限に乗り超え、乗り超えられるもの、それはまさしく世界と私、それら二元的対立をつつみ込んだ場としての世界の構造を明らかにしてゆくことが可能なのではないか、ということなのである。そこにはもはやスタティックな私と世界という図式は消え、無限に動き続ける無数の視点が構造化されてゆくのではないか。
図鑑はけっしてあるものを特権化し、それを中心に組み立てられる全体ではない。つまりそこにある部分は全体に浸透された部分ではなく、部分はつねに部分にとどまり、その向う側にはなにもない。図鑑の方法とは徹底したjuxtapositionである。この並置の方法こそまた私の方法でなければならない。
自らを一個の世界に、石の物体と化すこと。こうしてある石ころや、葉や、波や、その他もろもろの〓事物〓ルビ:もの〓とともに、それと並列して私自身を一個の事物と化すこと。しょせんそれは不可能である。なぜなら私は意識という病魔に冒されているのだから。だが、にもかかわらず、意識すること、それはこれまでそう信じられてきたようには世界の王ではない。意識すること、それは私を他者として意識することであるのだから。私が他者を、事物を意識する、その反映として私を他者として意識することでもあるのだから。
※その後の振り返り……

今年の初め、私は一冊の評論集を出した。その序とでも言える文章が、私自身をかなしばりにしているということ、そしてそれは最後的には写真家であることをやめることを私自身に予告しているということ。これをいかにぬけ出してゆくべきなのか。それは実のところ途方もないことなのだ。
「まったくのゆきあたりばったり──私の読書」(1973)

H.沖縄関係テキスト
「客観性という悪しき幻想──松永優事件を考える」(1974)

〈国家〉はすでに写真の「意味」をそのイデオロギーに呑み込もうとしていることはすでにあきらかであろう。事は、この映像に関するこの国家的イデオロギーをどのように打ち破り、われわれの映像のイデオロギーをこれにどう対置してゆくかということである。

「とりあえずは肉眼レフで」(1974)

私は以前のように夢中になって写真をとらなくなってしまった。〔…〕私が世界を捉えよう、世界を自分の眼によって捕捉しようと試みれば試みるほど、世界はその向う側へするりと抜けおちてゆく、その世界による私への裏切りに私自身が絶えられなくなってきた〔…〕。私と世界という二元論、主体と客体という二元論に依拠した私による一方的な世界の波束という方法、思考自体の破産を語っている。そのようにあがき続ける私自身もまた世界の中に決定的に位置づけられて存在するという前提をふまえない限り、このあがきは文字通りの悪あがきとしてしか現出しない。

「わが肉眼レフ──一九七四・沖縄・夏」(1974)

私はこの二年近くあるデッチアゲ裁判をきっかけとしてしばしば沖縄に足を運ぶことになった。しかし実のところそういうきっかけがなかったら私はけっして沖縄には行かなかっただろう。沖縄に出会うこと、それは私の存立基盤を根底から揺り動かされるだろうという予感が私に執拗にまといついていた。こうしている今、私は沖縄に多くの親しい友人を持っている。だが沖縄について語ること、それは私にある種の苦痛を強いる。しかしそれをあえてひきうけることから出発しなければならないだろう。
沖縄の人々の生活は言葉のもっとも正確な意味で危機的局面に達している。それらはすべて可視的である。〔…〕これほどの破壊、これほど可視的な危機を前にして沖縄の人々は一体何を考えているのか。沖縄人民の反攻は何故に噴出しないのか? しかしこの問いはあまりにも傍観的な問いであることを私は知っている。われわれは、われわれのステレオタイプ化した思考を彼ら、沖縄の人々におしつけようとする。それは日本独占資本、そしてまたいわゆる「日本左翼」に共通している。これは無惨な逆説である。われわれの発するそのような性急な問いは、沖縄のどまんなかに吸収され、その行方もさだかではない。

「奄美──波と墓と花、そして太陽」(1976)

沖縄での体験は、すでに沖縄が文化的にも政治的にも「日本」「本土」とはけっして同質ではないことを私に教えていた。今度、奄美諸島に出かけたのは、これらの島々に 〓日本〓ルビ:やまと〓と沖縄を分割する一本の見えない線を発見できはしないか、という思い込みであった。むろん、一本の線があるわけはない。それらは相互に入り組んだ不可視のゾーン、文化と文化が出会い、侵蝕し合うゾーンであるはずである。
初冬の南島は、私のこのような思い入れを裏切るように強い日ざしをあびて静まりかえっていた。〔…〕人々は無際限にやさしかった。そのやさしさのよってきたるものが何なのか、私にはついにわからなかった。おそらく、私はこの風景を通りすぎただけなのだ。


3 沖縄訪問――写真集の具体的プランに向けて

A.沖縄旅程、三野さん(たち)との対話――儀式、視線、ささやかな持ち帰り


B.インスタレーションと空間
大岩雄典「ダンスホール ──「空間の(再)空間化」」

「空間の(再)空間化(re-spacing of space)」という、自己差異化する再帰性を含む概念こそ、インスタレーション・アートの表現一般が形式をもつところのメディウムである。これが本稿の主張だ*41。
その時点でいまだパサブルな空間において、隠喩化はつねに可能(possible)だし、しなくてもいい(passable)。しかし、空間はかならずしも隠喩ではないが、「空間”化”」というときは、それは隠喩(化)の構造をもつ。隠喩化すればそれはそのたび新たな(ある意味論や存在論に蝕まれた、つまり悪魔祓いされた)空間になる。だがそうしてできあがる空間が、かならずしも隠喩ではないために、ふたたびそれはまた「ポシブル」なゆるさを抱える。
空間は、そこで改めて要素が寄せ集められ、含蓄ある空間化が起こるごとに、主題の究極的発現の夢をみて、また可能性に満ちた茫洋な(せいぜい成功した芸術作品においてならば「いささか退屈でなくなった」とは加えてもよい)空間となる。空間はたえまなく(再)空間化し、この空間が空間化していく抽象的なプロセスもまたそうした(再)空間化するところの空間となりうる(しなくてもいい)。
なにを空間とするか、というそれ自体「空間・隠喩」的な問いがまたすでに空間である……という、乱発する自己撞着・自己陥入からインスタレーションの(レーベンティッシュの主張では、あらゆる芸術の)美的経験は始まる。多くの作品では、それは三次元的な拡がりにおける要素の配置に、いかなるまた別の「空間」と呼びうべき主題を接地させるかに左右される。
〔…〕
空間が力能的可能性いわば「遊び」に満ちているからこそ、主体はそこで自由に、ときに意図的にまたしばしば惰性で動き回り、その動きがまたその空間についての現象学的・意味論的な隠喩化をもたらすダイナミクスを導く。しかしそうして空間は閉じるのではなく、新たに力能的な空間を開く。必ずしも三次元的な拡がりが低階に、たとえば実存的・政治的な「空間」が高階にあるようなヒエラルキーはない。たとえばマイケル・アッシャーによるポモナ・カレッジでのインスタレーションのように、空間を(再)空間化していくうちに、あらためてまた三次元的拡がりへと空間化が至ることもあるだろう。


C.「私はそこに私を見る」を支える言語/写真(集)

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写真家・舞台作家の三野新と、いぬのせなか座による、沖縄の風景のイメージをモチーフとした写真集を共同制作するプロジェクト「クバへ/クバから」…

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