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どうにかしてサラリーマンに大学入試予想問題を受け取ってもらう仕事、の話

 こんばんは。スガです。急に寒くなりましたね。

 さて、今回で3回目の仕事の話。1回目と2回目は、知人や友人が僕に話してくれたちょっと不思議な仕事の話、というスタンスでした。でも今回は、僕自身が体験した仕事の話をしたいと思います。

 ところで、ちょうどこれくらいの気温になると、思い出す風景があります。昨日、電車に乗っている時につり革をつかんでいたのですが、その掴んだ右手をふと見ると、薬指がささくれて血が出ていました。痛みがないからこそ、薬指の爪を伝う血はなんだか他人行儀で、自分の血ではないような気がします。知らぬ間に血が流れていても気づくことが難しいのは、心の傷と一緒ですね。

 JR五反田駅で山手線を降り、目黒川にかかった大きな橋を渡ります。駅前のゴミゴミとした風景に比べてこの一帯だけはビルが低く、抜けたような冬の空が広がっていました。満員電車で火照った体を冷たい空気で冷やすと、やっと脳内の霧が晴れたような心地がします。

 五反田駅西口の冬の空は、その時思い出していた風景とピタリと一致しました。

 当時僕は大学5年生でして、一年間卒業が遅れて、同級生が誰もいないキャンパスライフを送っていました。結局、ニューヨークでの演劇留学を生かしてその道に進むことを選ばず、かと言って明確な労働への意思を持たぬまま一般企業に就活をして、さもしい内々定を得ました。就活が落ち着いてからは、まるで伸び切ったバネのような生活でした。朝となく夜となく、目が覚めたらモソモソとベッドから起き上がり、iPhone6Sの小さい画面を見ながら、消化試合のように過ごす毎日。「退廃」という言葉がまさに当てはまるような、自堕落な日々。

 まあ、何故こんなにも生きることに対して無気力だったかと言えば、人と会ってなかったからだと思うんですね。コロナ禍になって再確認しましたが、生きがいとか仕事のしがいというのは、人と人との関係性の中に生まれてくるんだと思います。自分のためだけにとか、他者の存在をまるっと無視した仕事は、かえって自分の心のキャパをゴリゴリと削っていきます。

 気付いたら同じ映画を毎日流し、昨日と今日の違いがわからなくなる。曜日感覚も薄れて、カーテンを閉め切った部屋では昼と夜の区別もつきません。これはさすがにまずいと思い、短期の求人情報を探し始めたのでした。労働に救いを求めたのです。そして見つけたのが、医学部入試に特化した予備校のビラを配るバイトでした。

「君、働くこと舐めてるタイプでしょう」
 僕の面接を担当した女性の面接官は剛力彩芽に似ていて、歳は僕とさして変わらないように見えました。しかし、ぴっちりとした紺のパンツスーツや、バインダーを持って振り返る立ち姿は働きマン然としていて、眩しく見えました。その眩しさは僕の知らない「労働」が持つ輝きでした。
「いや、舐めてはいない、と思いますけど……」
「いいの。就活を終えて卒業を控えた大学生って、みんなそんな感じだから。採用します」
 話の流れに反してさっと出た採用に僕は驚きました。予備校の教室で机を挟んで向かい合っていた剛力さんと僕の間には、共通項がまるでないように思えました。かろうじて、机の上に置かれたおーいお茶のパッケージだけが僕にも身近なものでした。
「あの、時給とかって……」
「千三百円。プラス、温かい飲み物。冬の朝は寒いから、サービスね」剛力さんは脚を組んで僕と対面し、細長い指でペンをゆっくりと弄んでいました。
「でも、覚悟しといて。そんなに簡単な仕事じゃないから」
「あの、持ち物とかは?」
「そうね。あたたかい格好さえ着てきてくれれば」そう言って、剛力さんはさっと立ち上がり、きびきびと部屋を出ていきました。
 僕は思いの外、良い条件の仕事に巡り合えたと安堵し、心を踊らせていました。これで怠惰な日常を抜け出せるかもしれない。でも、剛力さんの言っていた通り、この仕事はたやすい仕事ではなかったのです。

 バイト当日。集合場所はJR五反田駅の西口でした。医学部の入試は2月ごろが本番で、五反田駅は首都圏の医学部のある大学入試会場の最寄駅でした。仕事の内容は至って単純で、朝は急ぎ足で会場に向かう受験生たちにキットカットとホッカイロ入りの予想問題集を配る。夕方は試験を終えて足早に去っていく受験生たちに解答速報を配る。予想問題集と解答速報には、予備校のシンボルマークと連絡先が大きく印刷されていました。

 まだ夜と朝の区別が明確でない時刻に集合するのは、当時夜型の生活を送っていた僕にとっては至難の技でした。集合時間1分前になって到着した僕をみる、剛力さんの冷ややかな目(化粧が顔面から浮いているように見えました)は、今でも脳裏にレトルトパウチされています。
「はい。これがあなたのノルマ。」剛力さんはそう言って、まるでピースを引き抜く前のジェンガのようにみっちりと積まれた予想問題集を指し示しました。「配り終わるまで戻ってきたらダメだから」
 僕はその山の中から一塊を持って、目黒川にかかる大きな橋の上にたどり着いたのでした。ふとのぼってきた朝日に右手をかざすと、薬指がささくれているのに気がつきました。この時も、やはり痛みはありませんでした。

 予想通り、というべきか、僕が配る問題集は全くと言っていいほど受け取られませんでした。無理もありません。受験当日とはいえ、朝の7時台の五反田にいるのは、ほとんどがサラリーマンでした。ちらほらと制服姿の高校生もいるものの、皆手にした単語帳やノートを見ていて、こちらのことを気に留めず、足早に通り過ぎて行きます。まるで見てはいけないものを見てしまった、とでも言うかのように。
 僕は孤独感からどうでもよくなって、「予想問題集です」と言って配っていた冊子を、次第に「キットカットです。おひとついかがですか」と言って配っていました。気持ちはさながら、マッチ売りの少女になったようでした。
 しかし、そうやって半ばやけになって、サラリーマンに向かって大学入試の問題集を配っている時に、突然僕の胸に去来する情景がありました。

 話はさらに3年前に遡ります。二十歳の頃、僕は「犬を園内に入れないでください」のメンバーの一人、松下と演劇の稽古をしていました。
 今思い返すと、あれは稽古というか、ほとんど狂気じみた遊びだったのですが、僕たちは二人で、昼間の公園で「外郎売り」をしていました。「外郎売り」とは演劇におけるオーソドックスな稽古法の一つで、発声や滑舌の練習のために一言一句違わず覚えさせられる歌舞伎のセリフのことです。
 僕らは当時キャラメルボックス俳優教室という養成所に通っていて、二人でシーンの練習をしたり、「度胸練」と称して商店街を変なステップで往復したりしていました。「外郎売り」もその一環で、円形の公園の中心で、二人で代わる代わるセリフを大声で言い合う、というスタイルに変換されていました。
 稽古する僕らのことを、物珍しそうに見ているお年寄りがいました。度胸をつけることこそ、僕らの第一教義でした。
 その時、周囲のお年寄りの耳目を集めているという感覚は、恥に勝る快感を僕の心に刻みつけていました。

 その感覚を2018年の冬の朝に突然思い出した僕は、まさに外郎を売るように、道ゆくサラリーマンに対して医学部入試についての口上を述べ始めました。「外郎売り」のテキストは江戸時代に「外郎」という丸薬を売るために商人が述べていた売り文句を、そのままセリフにしたものです。僕は「外郎売り」さながら「入試予想問題集配り」として平成30年の五反田に立っていました。

「えー、道ゆくみなさま。おはようございます。ここのところ急に寒くなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。これからお仕事でしょうか。信号待ちをしている間、少しだけ私のお話にお付き合いください……」大きな交差点で信号待ちをしているサラリーマン、OLたちの耳に届け、と、僕は訥々と話し始めていました。

「昨今、医学部の不正入試問題がニュースで取り沙汰されています。女子や浪人生が入試で不当に点数を下げられ、受かるはずの人が受からなくなる。そういう事件が複数の大学で実際に起きています。」折しも、当時医学部の不正入試問題というのはホットな問題で、連日ニュースを騒がせていました。

「その大学がどのような問題を作っているのか、見てみたくはありませんか? 今なら一部無料でお配りしております。さらに、カイロとキットカットもついてきます……」もちろん、こんな朗々とは喋れません。舌はほつれ、緊張で冷や汗が吹き出し、目は焦点の定まらぬまま中空を見つめていました。でも、言葉は、届いている。信号を待つ間、今まで見向きもしなかったサラリーマンたちが僕の口上に確かに耳を傾けている……。

 それでも、結局その後も予想問題集は手に取られませんでした。そのような口上を述べたところで、会社に向かうサラリーマンは入試問題を必要としていないのでした。
 ただ、そのときの僕はなんだか妙な充実感を感じていました。それは、最初と比べて全く冊数が減っていない僕に対して、意外にも剛力さんが優しかったからではありません。

 自分の声が届く、そのリアルな感覚。空間と空気が言葉で満ちている、そういう現実感こそ、僕が演劇で追い求めてきたことだし、生きる実感を感じさせてくれる感覚なのだと再認識したからでした。
「次もがんばってね」剛力さんは約束通りホットのおーいお茶をくれました。僕はやや上の空でそれを受け取り、寒風で冷えきった手を温めました。

 その数日後、バイトの予定が入っていた日に、僕はそれをすっかり忘れて、演劇の脚本を書いていました。電話番号を教えた剛力さんから、鬼のような着信が新作の脚本を書く僕のiPhone6sにかかってきていました。僕はそれに気づかず、自分が主宰する劇団の旗揚げ公演の脚本を黙々と書いていたのでした。

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