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百五十八話 舟を漕ぐ

 聯隊の行軍は相変わらずだ。
 今日は東へ向かったかと思うと、次の日は西へ向かって北上する。
 そんな日の朝四時頃だった。
 聯隊が露営していると、朝靄の中、練習機が飛来するような音が聞こえた。皆、空を見上げる。日本の飛行機が音を立てて飛んで来ている。
 聯隊の真上付近まで来ると、命令書が入った通信筒を落として飛び去っていった。通信すると傍受されるからだ。
 書簡によると、現在米軍のP51戦闘機に制空権を奪われており、米軍が寝静まった深夜しか出番がないとのこと。半ば判っていたとは思いつつも、部隊一同ガックリする。浅井も情けなくて仕方なかった。

 また別日、内陸なのに家々の軒に小舟を吊るしているのを見た。
 不思議に思いながら行軍していると、大雨に遭って付近一帯が泥濘化、聯隊が進めなくなった。皆一斉に避難するも、クリークというクリークが全て氾濫し、濁流が渦巻き出す。
 謎が解けた。現地の住民は軒先から小舟を解き、舟漕ぎ出したのだ。
 雨続くこの季節になると、この地域一帯の川が氾濫し、一時的に海になる。
 聯隊にとって新たな大敵、自然の脅威だった。しかし、そんな事態を顧慮していられない。命令が下っている以上、急がなければ、友軍の生命、果ては遠く故郷の生命が危ぶまれる。
 濁流渦巻く中、激しい時には、首まで水に浸かりながら前進し続けた。この間、上空から敵の機銃掃射に遭い、寺尾兵長が戦死した。
 二・二一事件から盧溝橋、北京制圧で武勲を立て、浅井が兄のように慕っていた兵長が、一瞬で蜂の巣にされ濁流に呑まれた。
 遺体は放置せざる得ない。広東で現地除隊になることを当てにしていた寺尾勘一兵長――その最期を知ったとき、浅井は居たたまれない思いだった。

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