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百七話 上海事変

 昭和七(一九三二)年一月二十八、無論・当然、支那の仕掛けによって、上海事変が起こる。 
  この戦いによって、日本側は、第一次世界大戦および青島の戦い(戦死者二百七十三名、負傷者九百七十二名)を上回る戦死者約七百六十九名、負傷者二千三百二十二名以上という損害を出し、実に日露戦争以来の大激戦となった。日本海軍から、初めて正規空母(加賀・鳳翔)が参戦。また、混成第二十四旅団から、肉弾三勇士が爆誕の上、散華している。 
 なお、支那軍の戦死者は四千八十六名、負傷九千四百八十四名、行方不明七百五十六名。言うまでもなく、支那が負け、停戦となった。

 国府軍の総統・蔣介石は、幹部や共産主義者からの圧力もあり、昭和十(一九三五)年冬から、密かに南京・上海の各地に陣地を築いて、大軍を集中させる。ドイツ軍の支援もあり、第一次世界大戦の塹壕戦を教訓としたトーチカ群を長江沿いに設置させた。 
 また、翌十一(一九三六)年末頃になると、停戦協定で決められた非武装地帯に保安隊と称する中央軍が侵入。同様に強固な陣地を構築する。 

 蔣介石は、日本軍の主力がいる北支ではなく、自らの本拠地である長江下流付近を主戦場にせんがため画策していた。そのため、約三万人の邦人が住む上海日本租界を攻撃し、昭和十二(一九三七)年八月十三日、第二次上海事変に発展する。十三日の朝、台風の中心示度が東支那海に入り、なおもゆっくりと北北西に進行中だった。日本からの増援が遅れると見込んで決行したのだろう。 

 当時、上海居留民保護のため上海に駐留していた日本海軍陸戦隊は、多めに見ても五千人であったのに対し、無錫、蘇州などすでに待機していた国府軍は総勢二十万以上。ドイツ製の鉄帽、ドイツ製のモーゼルM九八歩兵銃、チェコ製の軽機関銃などを装備し、第三十六師・第八十七師・第八十八師・教導総隊などは、ドイツ軍事顧問団の訓練を受けて精鋭部隊と評価されていた。また、七十名以上のドイツ人も同行し、作戦を指導した。

 十三、十四日と第八十七師、第八十八師の二個師であった国府軍は、十五日になると第十五師、第百十八師が加わり、十七日には第三十六師も参戦。兵員、七万あまりとなった。 
 一方、日本軍は、横須賀と呉の特別陸戦隊千四百名が十八日朝に、佐世保の特別陸戦隊二個大隊千名が十九日夜に上海に到着し、合わせて約六千三百名。実に十分の一以下である。

 内地では、親ソ嫌独で風見書記長官と懇意な米内光政海相が、十三日の閣議で断固膺懲をとなえ、反対する閣僚を怒鳴りつけてまで上海への陸軍派兵を主張。翌十四日には「北支事変は支那事変になった」として、臺灣から杭州、長崎から南京へ向け、海軍航空隊による渡洋爆撃を敢行した。
 
 十九日以降も国府軍の激しい攻撃は続き、毒瓦斯ガスの散布も見られた。特別陸戦隊は大損害を出しながらも、日本租界を死守。二十三日、上海派遣軍の二個師団が、上海北部沿岸に艦砲の支援の下、上陸に成功する。翌九月上旬には、上海陸戦隊本部前面から国府軍を駆逐するも、敵の優勢な火力とトーチカ陣地に大苦戦する。すでに、輸入に頼る国民党軍の飛行機を友軍荒鷲が駆逐し、上海周辺の制空権は掌握していた。しかし、依然、陸では数倍の敵と対峙。上海市街地から二十キロ離れた揚子江岸に足止めされており、居留民の安全が確保されたわけはなかった。

 九月二日、内地の閣議で、正式に「支那事変」と呼ぶことに決まると、米内は「日支全面戦争となったからには、(敵の首都)南京を攻略するのが当然」と述べ、政府声明まで求める。 
 九日、台湾守備隊、第九師団、第十三師団、第百一師団に動員命令が下り、十月九日には、三個師団を第十軍として、杭州湾から上陸させることが決まった。 
 
 戦闘の激化と共に、国民革命軍では、敵前逃亡せんとする自軍の兵を後ろから撃つ督戦隊の躍動が目立つようになる。十月十三日、上海郊外の楊行鎮方面呉淞クリーク南方に陣を構えていた第十九師(湖南軍)の第一線部隊と督戦隊は、数度の激しい同士討ちを行った。日本軍と督戦隊に挟まれ、サンドウィッチ状態となった第十九師の部隊は、必死に日本軍ではなく督戦隊を攻撃。これに対し、督戦隊も全力で応戦したため、数千名に及ぶ死傷者が出た。二十一日、国民党の軍法執行総監部は、督戦隊のさらに後方に、死刑の権限を持った督察官を派遣して、前線将兵の取締りを行うとの発表を行った。

  大勢を決したのは、十月二十六日。上海派遣軍が、最大の目標であった上海近郊の要衝大場鎮を攻略する。これで、上海をほぼ制圧したが、敵は蘇州河南岸に強力なトーチカ陣地を構えており、第三師団と第九師団は進攻できずにいた。 
 しかし、十一月五日、上海南方六十キロの杭州湾に面した金山衛に、日本の第十軍が上陸。翌六日、「日軍百万上陸杭州北岸」というアドバルーンを上海の街に上げると、蘇州河で戦っている中国軍は、第十軍によって退路が絶たれることを懸念し、九日、後方にあった呉福線や錫澄線の陣地を捨て、飛んで逃げた。

 上陸から十一月八日まで、日本軍の戦死者は、九千百十五名、負傷三万千二百五十七名。続く南京追撃戦で、戦死傷者一万八千七百六十一(第九師団のみ)、南京戦で六千百七十七、総計六万五千三百十の損害を蒙った。 

 この第二次上海事変について、同じく上海に租界を持っていた他国はどう見ているか。 
 昭和十二(一九三七)年九月十六日付の『ニューヨーク・ヘラルドトリビューン』紙は「支那軍が、上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは、疑う余地は無い」と報じている。 
 また、同年十月七日の『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙は「(居留民を)保護するための日本軍は、増援を含め四千だけであった。(中略)ドイツの訓練を受けた部隊から徴用された二~三万の中国軍と向かい合って攻勢を開くだろうとは信じ難い」として、皇軍の神懸り的強さに驚いている。

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