見出し画像

水戸芸術館で「おく」を置く

おく」はOku Project(藤中康輝氏主宰)によるワークショップで、参加者がルールにのっとり、行動することによって「即興彫刻作品」が出現するというプロジェクト。最初、崩し将棋とか、塊魂とか、箱庭療法とか、そういうイメージだったけれど、やってみたら、ちょっと違った。

はじめとおわりに礼をするのは、武道みたいで、様式を感じさせる。ルールを守って遊びましょう、みたいな。二人ないし数人のプレーヤーが礼をしてから、順番を決めて、決められた回数、パレットのように棚に集められた多種多様な「物」を一つ選び場に配置する。選択は自由、置き方も自由だけれど、交互に物を置く同士は、言葉も目配せも交わさない。目に見えない相手と遊んでいるように、相手の置いたもの、行動だけを見て、自分が何をどうするか決める。相手はいるけれど、礼までするけれど、いないのだ。

そうして、数回ずつターンが回り、すべての回数、モノを選び置くと、場には選んだ物が集積される。何かしらの「作品」が積み上げられている。棚からものを選んでとってきて置くというだけなのに、とっても簡単なのだが、これは相手がいることが必須なのだろうか。一人でものを選んで、配置するだけでは、こんなには面白くないんだろうか。

作品作りは一人ですることが多い。表現したい何かを表出させるために、メディウムやら支持体やらを決めて何かを構成する。それにいっちょ他者の偶然性を混ぜ込んでみる、ということなんだろうか。内にこもりがちな創造作業を、解放するとか、公開するとかいう。でもそのせいで、作品の完成度は低くなりがちなんじゃないだろうか。

特に私のような人間を混ぜ込むと。

人によっては、相手の出方を見て、お互いに世界を寄せていって、統一感のある美しい作品づくりを協働で作り上げるチームもいる。できあがった「おく」作品は調和しており、美しく、これが正解なのかもしれないなあ、と感心してしまう。

またアーティストのデモンストレーションでは、即興彫刻の可能性を引き上げるようなものもあったようだ。それはそれで、見ごたえのあるものなんだろうと、思う。

美的センスがある、ないという問題も大いにある。でも私の問題は、だれかとセッションをしようとすると「彫刻」を構築するよりも、相手に対して、自分が何を発するか、相手がどう動くかに心を奪われてしまって、物の集積に目がいかない傾向。デザインよりも、自分や相手の行動の意味性、作り上げているときの関係性を動かそうとしてしまうのだと、気が付いた。私は結果には興味がなく、相手とのセッションを楽しもうとする、お互いに選び、物を置くという行動だけに関心が行ってしまう。へえ、そうか、えらく納得。

作家の意図とはズレズレなんだろうな。
なんでもそうだ。ルールがあると無意識に抜けようとする、生まれついての無頼者。やむなし。