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米本くん、デカルトを論破する

「人は退屈を逃れるために苦しみを求めている」
せわしなく生きる人々をこう喝破したのは17世紀の哲学者、ルネ・デカルトである。

デカルトの言い分はこうだ。人間の不幸というものは、どれも部屋にじっとしていられないことから起こる。部屋にじっとしていられないからこそ、車校に行ってストレスを溜め、賭け事をして財産を失う。人間は、自分が求めていることの中に幸福があると思い込んでいるが、それは間違いだ。所詮全ての行いなど気晴らしに過ぎず、自分が熱中できるものであれば、なんでもいいのである。

パチンコや宝くじを買う人は、お金が欲しいからそうするのではなく、ドキドキ感を味わって暇を潰すためにそうしている。仮に、パチンコ屋に入ろうとする人にお金を手渡すと、彼はむしろガッカリするだろう。なぜなら、彼の本来の目的である「暇を潰す」ということが達せられぬまま終わったからだ。

完璧かと思えたデカルトの主張。しかし、この完全無欠の論理に、唯一対抗できる存在が現れた。

それがこの男、米本優太である。

世界の哲学界を牽引する21世紀の生ける伝説、米本優太

いったい、このベトナムのマジシャンのように見える米本くんの何がすごいのか?彼はデカルトの論理を前提から覆す。

デカルトはそもそも、人間は退屈に耐えられないようにできている、ということを議論の出発点としておいている。なぜ人間は退屈に耐えられないか?に関しては思考の余地がない、遍く受け入れられている真理として扱っているのだ。

実は米本くん、退屈耐性が尋常ではない。
米本くんの将来の夢は、植物になることだそうだ。
植物になると、何もせずポケーっと生きられる、これは彼において史上の幸せなのである。以前米本くんに、どこかの部屋に1時間閉じ込めても耐えられるか、という質問を投げかけたことがあるが、彼の答えは100点満点のYesだった。彼において人生で達成すべきことは、財を積み上げることでも、名声を手にすることでもなく、「何もしない」ことなのだ。
退屈がやってくると、米本くんはむしろ両手を広げ、暖かい抱擁で彼を受け入れる。退屈は彼にとって敵ではない、むしろなくてはならない、生命の潤滑油のようなものである。

これにより、デカルトの議論は土台から崩れ落ちた。実は人間は暇に耐えられるのである。17世紀、世界を席巻したデカルトは、しがない建築学科の2回生、米本優太に敗れることとなった。

米本くんの存在を知り、手も足も出ないデカルト。かろうじて手は出ている。

米本くんはこれにより、世界に名を知られることとなる。太坂大学文学部インテリジェンスデカルトデザインコースの教授、前野晋太郎も彼を高く評価している。

しかしそんな彼にも悩みはある。あらゆることがめんどくさすぎて、大学生活に支障をきたすのだ。彼が退屈に耐えられるのは、そのめんどくささゆえである。彼が1日のうちに感じる、めんどくささの数は天文学的数値に達する。量子コンピュータを使ったとしても解析できないほどのおびただしいめんどくささが、彼の日常にまとわりついているのだ。

以下のグラフをご覧いただきたい。

これは彼が1日のうちに感じるめんどくささの数である。横軸は1日のうちの時間、縦軸はめんどくさ数を表している。ちなみに縦軸の単位は1兆である。

このグラフから分かるように、米本くんは、常人では気にならないこともめんどくさいと感じてしまうのだ。それにより、課題の提出がギリギリになってしまい、いつも提出後に後悔してしまう。

彼はこの悩みを解決しようとすべく、「もっと主体的に生きる」ためのアクションを起こそうとしている。さまざまな文献を読み漁り、今の自分に必要な知識を模索している。

しかし、筆者としては、米本くんのこの性格を突き詰めていってほしいと思うところもある。もし退屈耐性がこのまま強力になり続ければ、米本くんは人類を退屈から救うための、稀有な研究対象となりうるだろう。

ワークライフバランス、国民総幸福量、里山資本主義。世界は今、いきすぎた資本主義を反省し、量から質への転換が起こっている。そんな今だからこそ、私たちは米本くんから、幸福とは何か、退屈とか何かを学ばなければならない。


参考文献

國分 功一郎 .  暇と退屈の倫理学 . 新潮文庫 . 2022


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