それは偶然であの日雨が降ったから 君に逢ったあの日雨が降ったから 青の水平線に晴れた空が 落としていったもの鮮やかな夕日を見て もう始まっていたあっけなく好きになっていた 帽子と水着と水平線 / aiko いちばん記憶に残っている雨の日はいつのときだろうか。まず僕の頭には、台風で氾濫した川に友達のさえきくんと自転車で突入して警察に通報されたことが思い浮かぶ。地面と水路の境界が曖昧になっていることを逆手に取り、さえきくんは「自転車を川の中で漕ぐ」という全小学生の夢を
春 ひとつだけ わかる 君のこと 大きくふくらんで息をする そんなことばが欲しい 春 その下で 笑う 君もいる 路地裏から聞こえてくるノクターン 日差しが溶かした ああ僕は僕にだけ 伝えることがあるのに ねえいつか 空が晴れたら雲を見ませんか 二人で今日をゆるして 明日もって言えるかな Stand By もう少しだけ くもりを数えて
ひと ひとは歩く ひつじ ひつじは歩く ひと ひとは寝る ひつじ ひつじも寝る ひと ひとはおしゃべりする ひつじ ひつじもおしゃべりする? ひと ひとは笑う うーん、ひつじは笑わない ひと ひとは空気を読む ひつじ ひつじは雲を見る ひと ひとはかっこつける ひつじ ひつじは足を折りたたむ ひと ひとは自分で死んだりする ひつじ ひつじは自分で死んだりしない ひと ひとは自分で死んだりすることができるのにそれでも生きることを選ぶ ひつじ ひつじ
4/23(火)僕の失態ランキングで毎回上位に食い込んでくるのは、財布を家に忘れることである。改札の前でかばんをかき回し、底に沈殿したティッシュのゴミだけが僕の所持品だとわかって絶望した日が何回あっただろう。今日、僕はこの問題に終止符を打つ方法をやっと思いついた。それは国道171号線を自転車でシャリシャリと漕いでいるときに突如天啓のように僕の頭にやってきたのだった。神は告げられた、「かばんの小さいとこに1000円札ずっと忍ばせといたらええやん」僕は神のお告げに感動し、打ち震えた
公園の横を通り過ぎるとき、何も書いていない看板が見えた。その看板の下には白い花がたくさん咲いてあった。僕は墓のようだと思った。周りでは子供がいっぱい遊んでいた。 ある女の後ろ姿を見た。後ろ姿だけで、幼い性格であることがわかった。覚えているのはショートカットの襟足が乱れていたこと、ズボンを履いていたこと、その色がライトブルーだったこと。 ハンバーグを作った。ラップを剥がし、中に入っているひき肉を取り出す。プラスチックの容器に肉片が一つ残っているのが見えた。僕はそれを摘んで、
関西空港から飛行機で一時間半。僕は新千歳空港に降り立った。大阪よりも一段と乾いて冷え込んだ空気が、山積みにされた白い恋人とともに僕を迎えてくれた。十月、北海道はもう冬だ。これからバスを乗り継ぎ乗り継ぎ、四時間かけて北海道の南端、浦河町へと向かう。 浦河町にある「べてるの家」は統合失調症の患者たちが共同で暮らしている施設である。そこでは患者自信が自分の症状を研究し、発表する「当事者研究」が行われている。「三度の飯よりミーティング」「安心して絶望できる人生」などの言葉とともに行
これやらん?って言われて、その場の勢いでやります!って言ってしまい、めちゃくちゃやりたくないという現象が毎回発生している。なんとかしたい。これは信頼問題にも関わってくるのだ。めちゃくちゃやりたくないことなんか、力入れてやれるわけがない。そのため、テキトーにやってしまい(または全くやらない)、あいつは物事に対してテキトーなやつだ、とか真剣に取り組んでいないとかいう評価を下されるのである。もちろんその評価は全く間違っていないが、最初の段階で断ることさえできたなら、僕はもっと幸福な
突然だが、あなたはザリガニを食べたことがあるだろうか。あのまずさといったらない。どこを食べてもドロの味がするし、醤油をかけてもポン酢をかけてもソースをかけてもドロの味がする。ドブ川のドロというドロをかき集めて5時間ぐらい煮込んだ上、隠し味に砂利と錆びた鉄を入れたものがザリガニという食べ物のレシピである。カレー味のうんことうんこ味のカレーどちらを食べるかという議論があるが、僕は第三候補にザリガニを追加したい。追加したとしても食べない。ザリガニを食べてみようぜと言い出したのは、あ
やりたいことが多過ぎて時間が足りない。Googleカレンダーの予定はとっくにパンパンだが、これの3倍ぐらいやりたいことがある。21歳の自分は今何がやりたいのか、できる限りここに残しておこうと思う。10年後、腹のたるみを気にするようになってきた僕はこれを楽しく読めるだろうか。 文章を書きたい。解像度が高くて美しい文学的な文章も書きたいし、くだらなすぎて笑えてくる文章も書きたい。本を読み出したのはいつだったか。中学校の夏休み、肌寒いほど冷房の効いた本屋で村上春樹の「海辺のカフカ
「500円」 「いや、200円だ」 「商売を馬鹿にしているのか。500円は出してもらうぞ」 「なら間をとって400円だ、400円ならすぐ買う」 熱を帯びた口調で値段交渉をする2人の男がある。 どちらも一歩も引けを取らない、熾烈な争いである。 男たちの手元に焦点を当ててみる。みるとスマホが一人の男の手に握られている。画面は真っ黒だが、2人の男はそれを見つめている。どうやら取引の対象は、このスマホの中にあるようだ。 「わかった、400円だ。400円で手を打とう。」
これはかの有名な詩人、谷川俊太郎の一作から抜粋したものではなく、僕がある特定の人々についてささげた詩である。 この世には「意識高い系」と呼ばれる人たちがいる。 とにかく自己顕示欲がとんでもなく高い奴らの集まりである。SNSで個人が発信できる時代になり、その数は次第に増えていった。前なんか、あるひとのSNSのプロフィールを読んで「どひゃあ」と言って尻もちをついてしまった。大体こんな感じだった。 ごちゃごちゃうるせえ。そしてスタミナ太郎の肉のように薄っぺらい。あの肉は最初食
オードリー若林「ナナメの夕暮れ」を読んだ。 半年前に一回読んだことがあるが、もう一回読んでもやっぱりいい本だった。 この本が面白い理由は2つあると思う。1つめ、自分の弱点を開示し、それが自分の弱みであると認めている点。2つめ、好き、嫌いという自分の感情を大切にしている点。 思えば自分に足りないのはその2つかもしれない。 「お前、誰かに言われたことをそのまま流されてやってて、自分の好き嫌いの感情わかってないで。ほんでそれで周りに迷惑かけてるで」 自分のケツに3mぐらいの
買い物帰りのおばさんが颯爽と自転車で駆けていく。 電動自転車にまたがり、待つ子供のために家路を急ぐ。 取り付けられた2つのチャイルドシートは城の如し、その自転車の大きさが母親の偉大さである。 見ると、前カゴにははみ出した2つの長ネギ。俺はまだ生えているんだと言わんばかりに、買い物袋から夕暮れの景色へと顔を覗かせている。私たちが見えるのは、この2本のネギだけである。落ちかけた太陽の光を、今日最後に浴びるのはこの2本のネギだけである。同じ買い物袋の中には、2割引きの豚こま肉、ち