2021/11/27 本城直季展

私にはなんの思想もないからこそあんな写真が撮れるのだと思う、ただ残すというのは愚直かもしれないし、なんの思想もないので執着もなく、私はそんなに写真が好きじゃないのかもしれない、表現として確立していない、ど〜しよ

この人の写真には音がない、小さい物に見えるので音があるとしても小さく見えるのだと思う、しかしそもそも写真って音がないんだなと思った

この写真の主役は人間か?と柴田くんが言ってきたので、表現法というレトリックが主役なんだなどと逆張りしたが、そうでもないなと思った、対象が小さい物のように見えるというのは一種の脱構築で、対象が(人間の形や振る舞い、建物の群れ)どのように内的世界に在れるかを見る人間に見直させている

構図や設定に明確な意図がある。気づくとまんまと見せられている、枠の中で、見た人間の視線をどのように動かすかが明確、自分はこのように世界を見ているという提示であり、そのような見方の偏りが私にはない、私は世界に対して何も見出していない、偏りは必ずあるのでそれに対する自覚がない、それ思想がないのと一緒だと思う、主張ができていない。病跡的に考えると彼には離人感があり、世界に生を感じておらず、その視点をビビットに表現した結果が彼の写真なのだと思う、彼にとっての撮影は箱庭療法のようなものなのかもしれない

続ける理由や思想がないとその手法のプロになれないのでは?

形に対する認知ではなく、テクスチャや小さい(圧縮された)物に対する認知を主張したいのだと思う、こまごまとしたテクスチャや、ぐしゃっと凝縮された物体に対する人間の認知は意識下での形への認知まではいかず、無意識下での形の認知で留まる、結果、形はよくわからないが対象が何であるかなんとなくわかるという、まさに小さいものを見た時の印象が生じるのだと思う

普通に大判じゃなくてもポラロイドでバカ上手いのでずるい

この人はものを見る時めちゃくちゃ集中するので瞳孔が開いて絞りが広くなり、被写界深度が浅くなるのだと思う、また集中した時人間の視野は真ん中に狭まるので日の丸構図が多いのだと思う、私は集中して意識的に写真を撮れず、無意識的にパチパチとスナップを撮る多動的なスタイルなのだなと気付けた、ADHDでいろんなものにチラチラ目移りする写真の撮り方なので、端に寄せる構図が多いのだと思う、なんでも病跡学的に見るのは押し付けっぽくて良くないかもしれない

北海道の礼文島にてそこにいたフォトグラファーと話した、写真スランプだと打ち明けたところ「家に帰ったらすぐに写真集を全て捨てろ!写真以外の事をしてくたくたになった状態で写真を撮れ!」的な事を言われたのでそうしたところ最近また少し写真が撮れるようになってきた、しかし初めてiPhoneを手にして写真を撮り始めた時の、世界に対する見出しの素直さは未だ取り戻せていないと思う。今日この人の写真を見てかなり悔しくなったが、私への悪影響はなさそうで良かった

暗がりで写真を見せる展示があった、瞳孔が開くと同時に網膜で光を受ける細胞が錐体細胞から桿体細胞に代わり、色味などの見え方が変わる、なので同時に認知のプロセスも変わる。人間の身体性をよく考えた、視覚に向き合った結果の展示なのだと思う

望遠レンズで撮ったものは大きく印刷すると整合性が取れたりするかもしれない

全部見終わったので上映されているインタビュー映像を柴田くんと見た、デジタルには心がこもってないと言っていた所で感情が目視できないほどデカくなり、椅子に座ってるのがキツくなったが、座っていたら映像が終わったらしく、柴田くんが行くよと言って私を立たせてくれた、いい椅子に座り、バカ泣きしている後輩から電話がかかってきて、いい話を聞いた、今もどこかで誰かが失恋をし、バカ泣きをしており、どこかの家庭にシュトーレンが届き、クリスマスまでのワクワクが充填され、ここで陽が落ち、ブラジルで登り、そのうち何もかも白くなる

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