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雨が閉じ込めてくれる。

フルタイムで働いていた頃、毎日車の中で泣いていた。泣きながら行き泣きながら帰る。その繰り返し。この世がおわればいいのにと思っていたし、ビルを見ればこの高さならいけるかなと想像していた。娘の癇癪に振り回されるのも恐ろしかった。帰りたくなかった。家も居場所ではなかった。鬱だった。

車の中だけで生きていた。あとは死んでいた。自分が嫌いだった。この世で一番嫌いな人と四六時中一緒にいなければならない。地獄だった。私は恵まれていて、周りはみんないい人で、だからこそ最高に不幸だった。だれもわかってくれない、という甘えと絶望。だれにもわかられてたまるか、という怒りと痛み。トンネルは果てしなく塞がっていた。

雨だけが味方だった。無慈悲で冷たくて、優しかった。雨が降れば、雨の音だけが聞こえた。他のものは無かったことになった。視界も水滴で流れていく。わたしという輪郭が消えていく。消えていくことで、かろうじて生きることができた。そんな日々だった。

ぼうっと雨の音を聞いていたらなんとなく思い出したので思い出したまま書いてみた。フラッシュバックとかでは全然ないのだけど、こういうとき、なぜか自分が見ていた景色にプラスして見えていたはずのない「自分」の姿も見えている感覚になる。幽体離脱みたいなカメラワークになるというか。それがいつも不思議。

悲しい気持ちを思い出して辛くなることが、ずいぶん減ったと思う。思い出さないわけではなくて、思い出してもあまりダメージを受けなくなってきたという感じ。noteの一番はじめにも書いたけど、「あきらめた」ことが、たぶん私にとってすごくよかった。手に余るものは手放す。離脱する。そうじゃないと墜落するから。ああ、これはもろにスカイ・クロラだな…。俄然読み返したくなってきた、久しぶりに。

本繋がりでもう一つ。雨、といえば江國香織さんのイメージがある。たしかエッセイに、旦那さんに「ほらっ雨よ、みて」「雨をみましょう」と誘ってみたけれど反応がなく「このひと雨をみなくていいのかしら」って不思議に思った、みたいな話があった。昔はそう言う江國さんこそ不思議な人だなぁと思ったけど、その気持ちが最近わかるようになってきたような気がする。雨の音、雨の匂い。いつもはテンションをあげるために音楽をかけっぱなしにしてるのだけど今日は消して、雨と過ごす日にしようと思う。


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