まだこの声は届かない。

noteで自分のことを文字で話すのは自分のためにやってること。
今の自分の記録であり、思考をまとめるため。
文字で思考をまとめるとそれ以前より自分の考えの理解が深まったり新しい思考に進むキッカケになる。
僕が生きてて大事にしてる踊りとかはその思考の外側にあると感じているから、思考を深めればその分思考の外側は広がっていく。
踊りやその他の外側が思考を大きく突き放した時には、その間の理を文字に起こし易くなる。
外側の部分を「感覚」とするなら
「感覚」と「思考」は相互に作用し深まり合っていく。
これもまだまだクソガキ盛り25歳の僕の現時点の感覚に過ぎないけど、今のところの予想としては深まった2つは溶けて混じっていく気がする。
それを見たい気もするし、予想を裏切って欲しい気もする。
先を見過ぎても後ろを振り返り過ぎても碌なことはないと思うからあまり気に留めず目の前と足元あたりを見ながら、でもどこも見ていないような感じで自分の純粋な部分に耳を傾けていたい。

自分のために書いているならSNSに何であげてるんかって話になる。
何個か理由はあるんですが、
まずひとつとして僕は基本的に人に興味が無いけど、そのかわりに大好きな人のことには人一倍興味があってその人の思考やら感覚を肌で感じたり文字や言葉で読んだり聴いたりするのが大好きやからってのがある。
好きな人の考え方はおもしろいことが多い。
そして考え方が面白いなってなって好きになる人もいる。
ラジオからその人を知ってファンになっちゃうとかエッセイを読んでファンになるとか。
そうなると自分の考え方とかを発信してそこから繋がれる人もいるかもなぁって思える。
嘘ばっか書いてたら嘘に惹かれた人と繋がるかもしれないけど僕は本当に感じたことしか書けないから発信して損することもない。
別に減るもんでもないしせっかくやし出してみよーて感覚。

ふたつめは褒めてもらえたから。
褒められるのって嬉しい。
僕は踊りでも映像でも文章でも特にこれと言った経歴や賞歴がない。
ストリートダンスではめちゃくちゃコンペティションの現場に出ていたけど1度も勝てていない。
どこにも誰にも名前が轟いていない。
野良犬dogg。🐕

そんな僕でもたまに褒めていただける。
無名中の無名でも褒めていただけるってのは。
有名人が褒められることより嬉しいんじゃないかって思う。
有名になったことがないからわからないけど。
有名フィルターがないのに褒めてもらえるってのは純粋に自分の表現に対しての感想な気がして心から
「有り難うございます。。( ;  ; )」
と思える。
おめでたい。
ハッピー脳みそ。🧠

そんな褒められたらすぐ喜んじゃう僕に僕の尊敬してる人から
「犬doggは発信してるところがすごいな。
普通やったら内に篭ってしまいそうやのに。」
とお褒めの言葉をいただいた。
大好きな人からの嬉し過ぎるお言葉。
チョッパー並みにニヤニヤしちゃう。
ほなまだまだのんびりやったろ。
てなもんです。単純。

そしてもうひとつの理由。
これがけっこう大きかったりするんですが、
それは
「どうせ自分の言葉なんてそんな見られてない」
って心のどこかで理解しているから。
これはネガティブな意味も少しはあるけどそれが全部ではなくて、むしろ
「見られたら恥ずかしいと思ってるほどみんな見てないから好きなこと言えるな〜」
って感じの開き直りが大きい。
そしてだからこそわざわざ見てくれてる人ってのは少なからず僕に興味を持ってくれてる人。
そんな人には普段言わないような、日記みたいなあんまり言ってないような自分のことを見てもらっても良いなぁと。
思考を晒したりすることは危険を孕むし僕も注意してやることだけど、ぶっちゃけnoteまで見るって手間を考えると誰にでも伝われな場所ではないから、意図せずに人を選んでいると思う。
そんな手間を惜しまない人なら晒しても問題無しと思ってます。

こんな感じでnoteを書く理由は「自分のため」
だけど、noteをSNSであげる理由は
「自分が面白い思考を読んだりするのが好きだから」
「褒めてもらえたから」
「どうせそんなに見られてないから」
って感じです。

で。

ここからはこれから先こーなったら嬉しいなぁってはなし。

noteは残る。
とゆーか今のところ残してる。
これからもゆっくりだと思うけど書き続ける。
人によってどの記事が刺さるかわからないし、どの見出しが刺さるかわからないけど、今まで読んだことない人がふと僕の文章を読んでくれて、そこから他の文章も読んでくれていろんなことを感じてくれて、
「自分もなにかかいてみよう。」
とはってくれたらそんなにワクワクすることはない。

それは踊りでも映像でもそう。
道端で踊ってたりする僕を通りすがりの人が見て
「なんやこれ!」
って心で思いながら素通りしたとする。
その人は日常に戻るけどでも何か心に残っていて、また他の人の踊りをみるとか素敵な絵をみるとかふと何かを感じたときに
「あ、これってあの時の感動と似てる。」
「自分はこう言うのが好きなのかも。」
となって何か今までの日常と違う一歩を踏み出したなら。

友達の言葉を借りるとこーゆーのは
「種を蒔く」
ことだと思う。
それが文章でも踊りでも映像でもなんでも。
何かを感じてもらえたならそれはその人の心に種を蒔いたってこと。
その瞬間に芽が出るかはわからないけど、それから何年もした後にその人の心に根付いた種から芽が出て花が咲くかもしれない。
全ての種が発芽するわけではないし、咲いた花を見れないかもしれないけれど。
それはとても素敵なことだと思う。

踊りや映像に関してはそれも一つの側面で、他にもたくさんある感覚の一つだけど、文章を発信して残しておくのは特にこういう希望が大きい。
まだこの声は届かない。まだこの言葉は届かない。
けれどいつか。
どこかの誰かの何かになるかもしれない。
元々期待もしてないし、自分のためにやってることでしかないけど、自分のためにやってることがいつか誰かのためになれたらこの上ないなぁと。

いつも僕の自分勝手な文章を見ていただいてる数少ない友人の皆様。
本当に有り難うございます。
これからも自分のために。
のらりくらり書いてゆきます。

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