歩けることに感動した日。


「ありがとうの反対は当たり前」

僕の師匠が以前記事に書いていた言葉。
「ありがとう」の漢字は「有り難う」
有るということが難しいということ。
そんなことに対して感謝の意味を込めて有り難う。
ということは「有って当たり前」と思ってるのは有り難うの正反対。

その記事を読んでからすぐありがとうと書く時は有り難うと書くようになった。
言葉にする時も毎回心の中で思い出す。

この言葉のおかげで有り難うをきちんと感謝の言葉として受け取ったり使えるようになった。
言葉の意味を知ることは大事だと思った。

そしてこの言葉には、「当たり前」と思ってることにこそ、有り難さを感じれるようになることが本当の感謝だって意味があるんじゃないかと思ってる。
毎日お母さんがご飯を作ってくれることにたまに有り難うを口に出す時もあるけど、毎日ではない気がする。
でもご飯が毎日出てくるのは当たり前じゃないこと。
こういうのは毎日の積み重ねでつい忘れてしまう有り難うだと思う。

あと口内炎ができた時。
今まで普通にご飯を食べれてたということがどれだけ貴重なことかを思い知るあの瞬間。
多くの人は毎食毎食感動して食べてるわけじゃないと思う。
エネルギー補給みたいな感じです胃に流し込むような食事をしてる時ってけっこうあると思う。
でも口内炎ができた時。
「あーーご飯をストレスなく美味しく食べたい!!」
ってめっちゃ思う。
いつもできてることができなくなって初めて「日常の有り難さ」に気づく瞬間。

今日の朝、寝起きでインスタライブをぼーっと観てたらふと踊りたくなってカメラとスピーカーを持っていつも踊らせてもらってる場所(完成前の醸造場。3階建てのビル)に歩いて向かった。
ビルには工事の機材とかがたくさん置いてあって踊りたくなる場所がたくさんある。
何ヶ所かで踊った。
踊りたいなぁと思う場所で気の向くまま。
無音というかそこにある音で踊るのが最近は多いけど何回か音楽をかけて踊ったりした。
音楽をかけて踊ってる時にふと自分の足元に目がいった。
裸足で踊ってたのだけれど、その足をじっと見つめた。

足が浮いた。

踵から地面に着いた。

浮いた。

踏んだ。

高く浮いた。

ゆっくり落ちた。

高く浮いた。

はやく落ちた。

じっと見てたら。
お腹の底から笑みが溢れた。
そしてその後から涙が溢れそうになった。

自分の足で立ってること。
自分の足で歩けること。

それだけのことに感動した。

踊ってる時は身体の中に文字は無いけど、後から思うとあれは歩けることに感謝していたんだと思う。
今自分が足を怪我しているわけでは無いのに、そんなことを身体が感じれた今日に。
有り難う。
碌でもない世界も去った後なら美しいと思ってたけど、生きてるうちに生きることに、世界に感謝できる日が来るかもしれないなら、そんな瞬間を踊ってみたい。
裸足で触れた埃を被ったコンクリートに祈る。

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