心の病気と詩人と賞についてのちょっとした話

※ずっと下書きになっていたものを今公開してみることで、何かがあるかもしれない※

10月3日月曜日
ツイッターにて、詩と思想新人賞内定者には電話が来ると書かれており、電話がないのでわたしは落ちたのだ、仕方ない仕方ない、そう思いながらよくわからない気持ちになり、どうしてもアルコールを、ビールを摂取したくなる。
池袋にあるよく行く馴染みのバーに行き、久しぶりにマスターの顔を見ながらアルコールを摂取する。何度かあったことのある常連さんと、マスターと、三人で酒を飲む。
いつも飲んでいる睡眠導入剤を飲んで布団に入るが、何故か眠れない。

10月4日火曜日
仕事終わり、家に帰るとポストに詩と思想新人賞入選についての封筒が届く。
まず、わたしはわからなかった。「受賞じゃない、入選ってなんだ」なんども手紙を読み直し、でも理解できず少しパニックになる。

贅沢な話しをする、その時のわたしは嫌だった。受賞じゃない、入選というその言葉。何度も文章を読み返し、理解が追い付き始めた時、いやだいやだと声をあらげた。その晩、睡眠導入剤を飲んでも眠れなかった。
受賞という言葉がほしかっただけなんだと、きっとそうだと思いながら、夜を過ごした。

10月5日水曜日
仕事中、自分の中では重くも軽くもない、「ああ死んでしまいたいなあ」という言葉と気持ちがふつふつとわいてくる。
持病である複雑性PTSD(C−PTSDともいう)のせいで、躁うつ病や摂食障害などを併発してる。躁うつ病も摂食障害も長い付き合いだ。仕事中に精神安定剤を飲む。わたしの中ではいつものこと。それでも消えていかない自分では対処しきれない感情の波。
どうしようもないので池袋のバーにいく。こういう時はアルコールに逃げるのが常套手段だ。久しぶりの友人に会い、アルコールを摂取する。ハイボール1杯、ビールを4杯。

10月6日木曜日
さすがに身体が疲れている気がしたので、その晩は家から出ず、早く寝ようと思うがとにかく眠れない。睡眠導入剤も精神安定剤も効いている気がしない。
仕事の昼休み中に、賞の入選に20代は一人だと知り、それで何故だか「入賞でもいいんだ」とやっと思えてきたのに。思えていたはずなのに、眠れない。

10月7日金曜日
身体も気持ちも疲れていたが仕事が案外に忙しく、なんとかその日を終える。
それでも夜は家を出て(どうせ眠れないから)友人と少し酒を飲み、家に帰る。しかし、やはり安心して眠れない。

10月8日土曜日
2週間おきに通っている精神内科にてカウンセリングを受ける。もう3年(4年? 覚えていない)くらい通っていて、ありがたいことにいい先生と巡り合えたので、安心してここ2週間の報告をする。

その際初めて、先生に対し、自分が詩を書いていることを話す。何年も通っているに、初めて話す。

わたしは言葉にすることが苦手だから文章を書いてきた、それが自分を保つ唯一の方法だったからとにかく文章を書いてきた、中学生の頃からずっと書いてきた。それが何故か今詩という形になり、なぜかいろんな人に読んでもらえて賞をもらえた、わたしはずっとわたしのことしか書いていないのに、それを読んで評価された。だから、わたしが書いたわたしを、受入れてもらえた気になっていた。わたし自身を、という意味で。でも受賞ではなく入選だったことが、とにかく嫌で、受け入れられなかった。一位じゃないと意味がない、その他大勢じゃ嫌だ、いろんな人に期待をされ、その賞のために改稿を重ねて、受賞を目指して書いた、でも入選だった、それが嫌だ、一位じゃなきゃだめなのに。いつものように書いているのに、最近の詩はシオンさんらしくないとも言われる。わたしは変わらず、わたしの中のわたしの言葉を、死にそうになりながら引っ張り出しているだけなのに、これはシオンさんの詩じゃないと言われる。順番もめちゃくちゃに、そのようなことを喋った。

先生は素直に、入選すごいじゃない、と言ってくれた。それから、自分の患者さんもシオンさんみたいに言葉にすることが苦手な人がたくさんいて、だからカウンセラーの私たちが話しを聞いて言葉を紡いでいくのだ、ということを話してくれた。だからシオンさんが書いた文章を必要としてくれる人たちは、きっといるんだよ、と言ってくれた。あなたと同じように言葉にできない人たちが、必要とするんじゃないかな。シオンさんは、ずっと優等生でいなきゃいけないって、小さい頃から今まできて、いろんな人の期待に応えようと受賞できなかったことを嫌だというけど、シオンさんはもういい子じゃなくていいんだから、受賞じゃなくて入選という形が一番シオンさんらしいんじゃないのかな。シオンさんは変わらないつもりで書いてきて、それでもこれはシオンさんらしい詩じゃないと言われて、自分のことしかかいてないから、自分を否定された気がしたんじゃないのかな。受賞した詩が反戦のことを書いていて、シオンさんは自分のことを書いて入選だから入選、もういい子ちゃんのポジションじゃなくていいんだから、だから入選が一番シオンさんらしい。もういい子でいる必要はないんだから。
                 
そういうことを話してくれて、ようやく自分の中で「ああ入選でいいんだ、わたしは」と思うことができた。すっと、胸の中にすとんと、言葉が落ちた。「あなたらしい詩を書いて欲しい」と言われ、書いたつもりでも「違う」と言われて、書き方もわからなくなって、でもずっと、わたしはわたしのためにただ書いて、たまたま詩になっただけだったんだと、原点を忘れていたことに気がついた。そうしたら急に涙が止まらなくなり、過呼吸をおこした。別室に連れて行ってもらい、少し休憩する。

先生が言っていた言葉を思い返す。いい子ちゃんの優等生でいるために受賞がほしかった、それは複雑性PTSDという厄介な病気からくるわたしの気持ちであって、わたしは今病気を治そうと向き合っている最中だから、そんな優等生でいなきゃいけないから受賞じゃなきゃダメなんだ、という感情は違う。それは他の詩を書いている人たちに失礼だ。
そういう「〜じゃなきゃダメなんだ」「〜みたいな自分でいなきゃいけないんだ」とかいう、自分の中では厄介ででも長い付き合いの気持ちを、そういう病気を治すために、そういう自分と向き合うために病院に通っている。そういう自分と向き合うために詩を書いている。再認識をする。
それから。
わたしみたいに病気で、話すことが苦手で言葉が紡げないひとたちが、もしかしたら、病気のわたしが書く言葉を必要としてくれているかもしれない。そういう可能性など、考えたことがなかった。わたしはずっと、わたしのために言葉を、詩を書いてきた。個室のソファに座りながら、新しい発見に、また涙が流れた。

これを読んで、なんて贅沢なやつなんだ、入選までいったんだからいいじゃないか、と怒る人たちはきっとたくさんいるだろう。この文章を、いつ公開するかもわからないし、ずっとインターネットの海の中にこっそりと隠しているかもしれないけど、病気のわたしが詩を書いて、同じような境遇の人たちがなにか感じてくれるかもしれない可能性を、わたしは探している。
なぜ入選できたのか、講評も発表されていない現時点ではなにもわからないけれど、病気のわたしという詩人がいて、文章をかいて、世間が求めるような良い子で優等生な詩はかけないけど、それでも病気と向き合いながら出てきたわたしがわたしのためにわたしのことをかいている文章を、もしかしたら必要としてくれている人がいるかもしれないという可能性に気付けた時、これでいいんだと、思えた。

複雑性PTSDという病気は厄介だ。小さい頃から積み重なったトラウマが、年を重ねてうつ病や摂食障害などを発症させて、そういう病気を隠れ蓑に、どんどんすくすく育っていく。だから複雑性PTSDだと気付くまでとても時間がかかる。
ようやく自分の病気の根源を知り、積み重ねて蓋をしてきたトラウマと対峙する。蓋をされていたものはもうすっかり記憶の底で、さぐりあてることは難しい。記憶の中でぼろぼろと欠けているから、思い出せないことのことの方がとても多い、向き合おうにも時間をかけて記憶をたぐりよせていくしかない。

わたしも、この病気だとわかったのはここ1年の話しだ。病気に気付くがもなかなか難しいということは、治療し治すことも難しい。とにかく時間がかかる病気なのだ。なんせ、トラウマは嫌なことだから、忘れようと蓋を自分でしてしまっている。たくさんの蓋をあけて、なかを吟味して、これはトラウマなのかと考えて、また次の蓋をあける。そういう作業を繰り返す。

それでも向き合おうと、詩を書くことを一つの手段としながら、カウンセリングを続け、いつ治るかもわからない病気と向き合っていく。わたしがわたしでふたをしたたくさんの記憶というトラウマを、形のないものを追いかけて、探して、先生に話をしてゆっくりと消化していく。そういう終わりの見えない作業を繰り返していく。

たとえば。
中学時代の友人の名前も、高校時代の友人の名前も、卒業アルバムをみても思い出せない。大学時代の友人も、少しずつ忘れている。記憶は砂のようにさらさら崩れていく。

うつ病がひどいときは家から動けない。急に電車に乗れなくなる。どうしようもなくてアルコールを大量に摂取する。夜がこわくてこわくてたまらない。

そういうどうしようもないときに、わたしは詩を書く。わたしの中にいるたくさんのわたしをどうにかしてあげるために、詩を書く。それがたまたま、投稿欄にのり、投稿欄最優秀賞をもらい、新鋭詩人に選んでもらい、今新人賞に入選した。

もちろん「あの詩、よかった」「これから期待しています」とかとか、言われれば素直に嬉しい。今後の詩壇を生意気ながら考えて悩むこともある。でも今のわたしに必要なことはそうじゃない。わたしの詩は、病気とともにある。わたしの病気は、わたしとともにある。だからひたすらに、何を言われようとも、わたしは今わたしのことを書く。ただそれだけなんだと気付く。

こんなこと、書かなくてもいいのかもしれない。誰かがこれを読んだところで、怒りを買うだけかもしれない。誰かがみたら順風満帆にことが運んでいるようにしか見えないかもしれない。だけど、入賞という言葉をいただいたからには、どうしても書かずにはいられなかった。

わたしは病気で、だから文章を書いて、そうしてそれが詩になって、わたしは今こうして死にそうになりながら何かを書いている。書きなぐっている。誰かが読んでくれている、だからひとりじゃないと思う。

いつか、わたしのような病気のひとたちに、読んでもらいたい。ひとりじゃないと伝えたい。大それた目標はないけど、読んでもらえたら、ただきっとそれだけで、わたしは泣いてしまう。


もうちょっと頑張れよ、とか しょうがねえ応援してやる、とか どれもこれも励みになります、がんばるぞー。