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「推し」が「毒」になる/①品位なきファン態度

好きだったものを嫌いになる。楽しかったことが鬱陶しく感じられる。誰しも一度は、そのような経験をしたことがあるのではないだろうか。

様々なコンテンツが溢れ返っている現代において、今や「推し」は、切っても切り離せない、私達の生活に密接に関わり合う存在だ。
私自身、そういった多種多様な文化に触れ、夢中になれる作品や、実在か非実在かを問わない「推し」と、これまでに沢山出会ってきた。
しかしその度に、自分自身の心の問題に触れ、前述したような「好きが嫌いになる」「楽しいが鬱陶しいになる」という経験を繰り返してきたことに気付き、それらについて自分なりの答えを出そうと、様々な書籍を読むに至った。
これは、そういった私自身の体験を省みつつ、心理学や脳科学で得た知識を参考に、私なりに総括した「答え」である。
私と同じような思いを抱き、漠然とした心の呵責に悩まされている人へ、何かしらのヒントになれば幸いだ。

「推し」が「毒」になる

まず、私のことについて少しだけ触れる必要があると思うので、簡単に説明をする。私は二十代の頃からアニメや漫画作品の「二次創作」の活動をしており、コミックマーケットなどの「同人誌即売会」に定期的に参加をしている。現在は拠点を「評論」のジャンルに移し、心理学の知識を参考にした、自分自身の体験についての発信、創作活動を行っている。
またここ数年で、韓国のアイドル文化について触れる機会がままあり、「サバイバルオーディション番組」などを中心に、それらについて考察や検証をすることにも関心を向けている。
そして、この記事のタイトルにもあるように、私にも「推し」がいる。この「推し」に関して、該当する作品名や個人の名称を出すつもりはない。

私がここに記述する「推し」(もしくは「ファン対象」や「コンテンツ」など)は、そんな「二次元キャラクター」や「アジア圏のアイドル」について得た洞察が深く関与しているので、もしかしたら他の分野におけるそれらとは、別物かもしれない。
また、マクロ目線や外側からの視点で考察している部分も多々あり、ミクロ目線もしくは内側からの視点との、致命的なズレが生じているしれない。私の考察が、的を射ていないことも存外に予想できるので、それらも踏まえて読み進めて頂けたらと思う。

【①品位なきファン態度】
「愛」と銘打った、無責任な「同調圧力」が存在する。
その根源には「ファンなら知っていて当然だ」とか「推しているなら買うべきだ」などの個々の価値観がある。それらは集合的無意識により「ルール」となり、競争心や優劣の判断へと繋がり、やがて「知っておかなければならない」「買わなくてはいけない」といった強迫観念にまで発展する。
同じ対象を愛好する集団を「ファンダム」という。また、ファンダムよりも広い目線で捉える場合や、外野が突き放したような言い回しをする際に「○○界隈(※○○には固有名詞や分野の傾向を表す言葉が入る) 」と表現することもある。
自らの思想を高らかに掲げアピールし合い、同調圧力を誘発し自他を苦しめ合う者が、どこの界隈にも一定数存在していると、私は考えている。彼らは「そうする」を愛の証明で、「そうしない」はファン失格であると、無言の断罪を行い合うことに躍起になっている。
「そうあることが正しい」「皆そうするべき」という固定観念の押し付けが、それに準じないものを除外し、見下し、嘲笑う態度さえ孕ませる。
ライブやイベントに弛まなく通うことや、グッズや音源を幾つも所持すること、公式が発信する情報を追いかけ、そしてファン同士の交流も欠かさない。そんな情熱的で純粋なファンも勿論多く存在しているが、時折そういった「熱量の高いファン」を装いつつも、その実態は偽りで塗り固めた「品位のないファン」であると、その真実に驚かされる事態も発生する。

二次創作をしていた際に、とある人が言っていた言葉で印象的だったものがある。それは「好きなキャラクターの誕生日は、手の込んだイラストを描いて投稿することが当然、という風潮が苦手だ」といった内容だった。描かずにはいられない衝動を抱えることや、好きという気持ちで行動に移すのは本人の自由であるにも関わらず、一方的に期待され「待ってます」「楽しみです」などの声をかけられることさえあるし、描かなければ「その程度の愛なのか」「もう冷めてしまったのか」などと揶揄する者まで出てくる。プライベートが多忙で、絵を描くことに費やす時間や体力がなかったとしても、睡眠時間などを削り、自己犠牲を払い、作画に充てる時間を捻出した者に対して「愛がある」という言葉で無責任に賞賛する、そんな軽率な人間も存在している。
それらを懸念し「多忙のため、お祝いのイラストを描けない」という旨を前以って伝え、同時に謝罪をする者さえいる。なんと窮屈で、不自由なのだろうか。
実際に私自身、間接的にそのような言葉を投げかけられたことがある。「推し」の誕生日を祝うイラストを数日前から準備し、当日を迎える前に完成させ、「待ちきれない」という言葉と共に簡単なイラストを前日に投稿したところ「手抜きでガッカリ」と”エアリプ”をされたことがあった。それを呟いた主は、私に対して「簡単なイラストで祝い事を済ませた人」と勝手な判断を下したようだった。
当時の私は未熟だったので、その悪意を真に受けて落ち込んでしまったし、込み上げた否定的な感情にも適切に処置することができなかったのだが、今となっては、下らない同調圧力やマウント合戦に飲み込まれ傷ついてしまったのだな、と客観的に分析している。

大小様々なそれぞれの「ファンダム」もしくは「界隈」において、各々の愛を競うように見せつけ、心の内で勝敗を下し、そのことで優越感や劣等感を抱き、嫉妬を拗らせ、次第に疲弊させられ、離脱していく者がいる。純粋で無垢であるほどに「同じものが好きなのだから、皆仲良くなれるはず」と錯覚してしまい、こういったスパイラルに足を取られてしまう。
対象となる推しやコンテンツを愛していた真っ新な心は黒く澱み、「なぜだか分からないけど疲れた」「少し距離を置こうと思う」などの含みのある言葉だけ残し、予告なくSNSアカウントを消し、静かに去って行く。
その一方で、それでも負けじと競争に参加し、生活費を切り詰めてまで公式にお金を落とし、一睡もせず動画の再生を繰り返し、情報を発信し、FAやSSを投稿し、「私はこれだけ献身的な愛を持っているのだ」と、ボロボロになりながら戦い続ける者も、同時に数多く存在している。ほとんどの場合彼らは自己犠牲的であるが、それらを美化することをやめられない。そういった行いを「あるべきファン態度」「好きならば当然だ」と主張し、自分自身を呪い続けている。薬だったはずの「推し」が「毒」になっても尚、その中毒から抜け出せない。そしてその病理さえも「愛ゆえん」と解釈し、賞賛すべき姿という幻想までもたらし、ついには心身の分裂を招く。
このように、様々なリソースを切り売りし対象に尽くし続けた場合、その対象への期待値は必然的に上がっていく。それは同時に、悲劇へのダメージを甚大にさせることを意味する。例えばそれは「用意されなかったチケット」から「推しの引退」まで、多岐に渡る。ここまで来ると「熱意」は立派な「執着」へと様変わりしている。

グッズを買い集めることも、ライブに通うことも、好意的な対象で創作をすることも、すべて個々の自由だ。そこから感じ取れる「熱量」を「愛の大きさ」と仮定することは、確かにできるかもしれない。しかし、それらを誇示し「私の方が愛がある」「あの人は愛がない」と優劣をつけ競い合う道具にしてしまうのは、悲しく愚かな行為だ。
こういった場合、競い合うファン達が本当に愛しているのは「推し」なのか、それとも「自分」なのかと、そのように思案できる。これについては次の記事【②承認欲求とドーパミンの罠】で、詳しく検証しようと思う。

私が「品位に欠けている」と感じるファン態度が、もう一つある。
「私達が支え育てたのだ」「ここまで大きくなったのはファンの力だ」といった言葉と引き換えに、公式や制作側に高圧的で無鉄砲な態度を示し、ましてやそれを「そういう文化だ」「親切心で言ってあげてるのだ」などと宣い、自己を正当化することしかできない「支配的なファン」を目撃した時、私は辟易とする。
確かにどの分野においても、応援するサポーターやフォロワー、継続する購読者や常連となる観客がいなければ、作り手やその担い手は文字通り食っていけない。
特に、無名時代より多額の出資、いわば「投資」をするようなファンであれば、正真正銘「私が支えた」「私が育てた」と言っても過言ではないだろう。しかしながら、それを丸で交換条件のように突きつけ、適正範囲を超えたようなサービスを強要し、それに応えられないと分かれば掌を返すファン態度は、美しくないなと私は思う。
勿論、アーティスト本人や運営、所属事務所などがファンを愚弄し、真摯な態度を見せていないのであれば話は別で、またそのほかにも、「MVのモチーフが人種差別を想起させる」「登場人物のセリフが女性軽視に繋がる」といったような、対象を危惧し意見を述べるといったようなケースは、高圧的で無鉄砲な態度ではないと考えている。
ファンが対象そのものを「支配」してしまう構造を許してしまえば、その対象はそれ以上発展しない。ファンは飽く迄も「共同創造」の範疇を超えられないし、超えてはいけない。
こういった支配的なファンがのさばる界隈は、健全とは言えないし、幸せとも思えない。ましてやこういった存在はファンダムにとっても、ファン対象にとっても悪影響でしかない。しかしその「影響力を持つファン」がファン対象の存続に大きく関わるほどの「太客」だった場合、この負のサイクルから抜け出せなくなる。
勿論こういった厄介なファンはほんの一部であり、中には「そんな人見たことない」という意見もあると思うが、少なからず私は、そういった場面を何度か目撃してきた。残念なことに、「品位なきファン」は、実在している。

さて、こういった「品位のないファン」に遭遇してしまった場合や、「不健全なファンダム」に身をおいてしまった場合、私達はどうすることができるであろうか。
好きなものを嫌いになるまでの、その刹那においてしか、私たちは「ファン」でいられないのであろうか。
それとも、傷つく前に潔く身を引くべきなのか。もしくは、傷ついても尚、足掻き続け、心を澱ませ、しがみ付くべきなのか。
それらについては、後ほど私なりの解答をさせて頂こうと思うのだが、その前に、あらゆる分野において散見される「品位のないファン」について、少し掘り下げてみたいと思う。
次の記事にもお付き合い下されば幸いだ。

次の記事はこちらです→【②承認欲求とドーパミンの罠】


六月十七日 戸部井