見出し画像

気づいたら"ドリル"を売っている

サラリーマン企業家である「レニー」が中途半端に成熟した日本企業においての気づきを書き溜める備忘録だ。

さて、表題の件について本書を書き進める。
本日は『気づいたら”ドリル”を売っている』というお話。


まずは本書の内容を要約する。

意図せずに気づいた時には、”穴”ではなく”ドリル”を売っていることがある。一生懸命になり視野狭窄に陥りがちな人は、是非この落とし穴に気を付けて欲しい。(”穴”だけに)

『気づかない』を生み出すのは次の2つのケースだ。

  1. 最大公約数を取るあまり、”穴”の開いた板を売るつもりが、評価者から”ドリル”が欲しいと要望され、気づかないうちに”ドリル”を売っているケース

  2. 評価者がそもそも”穴”を欲しがっていないのに、”穴”の開いた板を売ろうと躍起になってしまうケース

こんなnoteを読もうと思った稀有なサラリーマン諸君は、きっと私と同類なのだと思う。本質を追求し、”あるべき姿”へと邁進し、社会変容の一助になりたいと考えているはずだ。しかし、これは非常に危険な思想だと私は考えているが、それ故、私は私自身を危険分子と判断している。
※本テーマは詳細は↓のnoteで後述予定。

そんな我々のできる対策は、1歩下がって冷静になり続けようということだ。一瞬の冷静さではなく、恒久的な冷静さを持つことだ。

少し噛み砕いて解説していく。

例えを強引に持ち出してしまったので、詳細に説明を付け加えていく。

まずは「1」についてだ。

1) 最大公約数を取るあまり、”穴”の開いた板を売るつもりが、評価者から”ドリル”が欲しいと要望され、気づかないうちに”ドリル”を売っているケース

これは比較的わかりやすい事例だと思うが、評価者からの影響を受けすぎていることに問題がある。ここでいう評価者とは、サラリーマン的には上司や役員などを思い浮かべて欲しい。

彼らが管理職であるならば、全体最適を考えるのは職務上の責務だ。そんな彼らの意見を聞きすぎると、”穴”の開いた板だと思っていた代物が、いつの間にかドリルに変貌する。
これは非常にシンプルな話で、彼らは失敗をしたくない性質を持っている。その仕事の難易度が高ければ高いほど、担当者と同じレベルで理解するのは困難になる。つまり情報の非対称性が生まれる。
それゆえに、ドリルの方が”便利そう”だし”失敗しなさそう”と判断が歪んでいくのだ。『顧客の声を聴け』からの乖離が大きすぎると、このケースに陥ってしまう。

私なりの対策だが、評価者である上司、またはそのまた上司と自分の『成果』について、解釈や感覚的違いすらも許さない粒度で、目標を握ることが最初の一歩目と思う。”穴”から”ドリル”になった場合でも、成果がでていないと思わせないリスクヘッジは担当者でもできることだ。

続いては「2」について説明していく。

2) 評価者がそもそも”穴”を欲しがっていないのに、”穴”の開いた板を売ろうと躍起になってしまうケース

これが一番厄介なケースであり、本書で一番書きたかったポイントだ。
本質的に”穴”の開いた板を売ることが、世の中的に、社会的にも正しいかったとしよう。しかし、評価者とっての「正しさ」とは一致しない事がよくある。この時点では、あなたがいかに価値のある”穴”だと主張しても、もはや錆びついた”ドリル”を売っているのとか何ら変わりない。

私はこうした軋轢にこそ、資本主義と社会主義の境界線にクレバスが存在している。

評価者は彼らにとっての「正しさ」をそのまま部下に指示をすることはしない。また、部下の成果と直結させることもまずしないだろう。
では、このケースにおいての評価者の「正しさ」とは何か。それは”政治”だ。

故に、本質的に価値のある”穴”の開いた板を作り出すことができても、評価者にとっては”ドリル”の方が欲しい場合が往々にしてにある。彼らにとっては自分をアピールし、政治的なパフォーマンスを発揮できる材料こそが、真の意味で価値のある成果だと考えている。「世の中にとって」なんて綺麗ごとは欲していないのだ。
(※残念ながら、私はこうした人間たちが大嫌いだ。)


この対策としてやるべき事は、シンプルであり最も難易度が高い。

シンプルな解決策は、大義を捨て、評価者にとっての価値を追求することだ。しかし、私たちサラリーマンは、結果や成果など出さなくても、来月の給料は支払われる。なんなら結果や成果をこじつける事さえもできる。厄介なのは、大義を捨てなくても死なない環境に生きていることで、大義が捨てられないのだ。

非常につまらない帰結だと思われただろう。

なので、もう一つ言及しておきたい。

それは、サラリーマンという労働時間の中でさえも、「自分のやりたい事をやれ」ということだ。これは特定の業務における「こうあるべきだ」という大義ではなく、これを読むあなた方一人一人の「在り方」の話だ。

事例で説明したいと思う。

仮に、あなたは”穴”の開いた板に価値があると信じていたとしよう。しかし、評価者を欲していなかった場合を考えよう。

答えはシンプルだ。”ドリル”で”穴”の開いた板を作ることは両者の利害が一致している。”ドリル”を作るなとも”穴”を開けるなとも言われていないのだ。”ドリル”も作れば”穴”を開けることは許される。
私自身も忘れがちだが、サラリーマンに「圧倒的なスピード」は求められていない。つまり、どんなに迂回経路を走ろうとも死なないのだ。

しかし、繰り返しになるが、非言語情報だとしても”穴”は開けるなと言われれば、絶対に”穴”を開けてはいけない。それがどんなに正しくても。

本書の内容は以上となる。最後まで読んでいただきありがとうございました。同士諸君においては、個人の幸せを探求されることを切に願う。


あとがき

文末に「絶対に”穴”を開けてはいけない。それがどんなに正しくても。」と書いたところで思い浮かべたのはホラー映画のワンシーンだ。

観客は「(だからそれは触っちゃダメなんだよ・・・)」なんて思いながら見ているが、物語の主人公はやっぱり触っちゃうのだ。これは人間の性質のように思う。圧倒的にリスクが大きいとわかっていても、リターンのバランスが判別できない、または判別する前に実行してしまう。

感情に支配されるからこそ、不合理な決断や行動が生まれる。残念ながら当事者の私は「人間っておもしろッ!」とはまだまだ思えない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?