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目の前と関係すること (『ユニークローカルメディア「凜」―RIN 創刊号』より)

たったひとりの編集長おかふじりんたろうが、計15人の書き手や語り手によるテキストを編みあげたインディペンデントマガジン『ユニークローカルメディア「凜」―RIN 創刊号』
本記事では完成を記念して、その創刊号に掲載されている「目の前と関係すること」と題されたエッセイを無料公開。

編集長おかふじが、里山活動に熱心に取り組む山口県美祢市豊田前にある西福寺に訪れ、気候変動や地方創生の難しさについて考えました。

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若者への期待

1997年生まれなので、仕事によっては若者の役割を期待されることがあり、「自分に紐づいたタグで仕事してんなぁ…」と嘆きながらも、いままでそれなりに期待に応えてきたつもりだし、あと数年はその類の期待が寄せられるんだろうなと思う。交換経済という枠の中では、名前だけで仕事が舞い込んでくる一部の著名人を除き、その人それ自体ではなく、その人の属性で判断されるのはある程度仕方ないだろうから、別にショックを受けるわけでもなく、呼ばれた場所で若者目線とやらを提供している。こう書くといかにも冷笑的な感じだが、人それぞれ前提条件や経験値のバラつきがあり、同じ時代を生きていても目の前の事象の受け止め方は当然違うわけで、そのすり合わせのための軸として、客観的に測定しやすい年齢が持ち出されるのは、それなりにベターな判断だろう。

では、その軸の効力によって招かれた場所に身を運んでみれば、そこには多様性を重んじるインクルージョンな場にしたいという主催者の思惑がある。それ自体は良いことなのかもしれないが、若者としての過度な期待に手足を取られ、窮屈な思いをしたこともあり、多様な場のセッテッングって難しいなとつくづく実感する。

とはいえ、同質的な集団を形成してしまう人間の傾向に対してきちんと補正機能を働かせよう、というムードが社会の至る所で醸成されつつあることは、それなりに歓迎すべき時代の変化だとも思う。若い人の労働観に合った企業とはなにか?若者の人口流出の止まらない地方について…など、若者目線を必要としたテーマが掲げられ、様々な場所で様々なディスカッションが行われている。その試行錯誤の中で、セッテッングの技術も上がっていくのだろう。

さて、そのように奇しくも声を届ける機会が増えた若者にとって重大なイシューのひとつと言えば、気候変動を中心とした様々な領域での持続可能性、地球の未来についての言及が近年増えてきている。


気候変動の難しさ

国連で鮮烈なスピーチを行ったグレタ・トゥーンベリの恩恵というべきかなんなのか、若者=これからの地球を担う世代、といったイメージが世界中でかなり根付いており、彼女やそのイメージに呼応するように、環境問題への態度表明を行う有名人は確実に日本でも増えてきているし、積極的に活動する知り合いも何人かいる。なんならむしろこのムーブメントを、自身の発言力を後押ししてくれる追い風にしてやらんとばかりに、クルッと方向転換する人たちも散見され、何とも言えない気持ちになったりする。
では、ぼく自身の立場はどうかといえば、流行りものに対抗心を覚える天の邪鬼な性分なので、なにかの運動に参加するわけでもなく、基本的に冷ややかな目で見守りながらも、こんな形でメディアをやって議論しているのだからよくわからない。

どうしてこんな煮え切らない態度を取ってしまうのか。自分なりに考えてみると、結局のところ気候変動問題の根拠が、どこかの研究機関が提示するデータや予測しかないからだと思う。
「〇〇の予測によると、×年後には地球の気温が△度上昇して、生態系に甚大な被害が出ます!」といくら言われたところで、非専門家のぼくからすると「はぁそうですか」と、どこか他人事のように感じてしまう。こんな調子では「危機感が足りない!」とその道の専門家やアクティビストに叱られてしまいそうだが、その領域の専門的な知識を持ち合わせていない人間が、いくらデータやグラフを見せられたところで、その最もらしさは研究機関や研究者の知名度で判別するしかないし、むしろデータやグラフが提示されたからといってすぐに鵜呑みするようでは、それこそフェイクニュースや陰謀論をいとも簡単に信じてしまう人たちと、紙一重ではないだろうか。
もちろん、データや予測ではない具体的な出来事として、近年頻発する異常気象がその現れだと言われれば、たしかにそうかもしれない。けれども、気候変動の問題に限らず、扱われる物事のスケールが大きくなればなるほど、単純に分母が大きくなるので、個人が及ぼす影響は小さくなるし、因果関係も複雑化する。このシンプルで厄介な構造は、大きな問題それ自体と身体との結びつきを解除する。「この巨大台風が生まれた原因は、俺の電気の消し忘れ?そんなわけないだろ?」というふうに。

かといって、データや予測といった科学的手法によって導かれた第三者視点を完全に否定し、自分の身体経験しか当てにしないのであれば、それはそれで問題であることもたしかだと思う。
気候変動とは別の例で考えてみる。たとえば、犯罪者に対して厳罰化ではなく更生プログラムを充実させることで、再犯率が下がる効果が実証されている場合、社会をより安全なものにしようとすれば、更生プログラムの充実や刑期を軽くしていくような施策は、社会の選択肢として議論されてもいいはずだ。しかし、被害者への身体的共感しか存在しない社会では、「あんなひどい奴らの社会復帰なんか許せない!」と反対され、議論の俎上に載せられることさえないだろう。

うーん。社会をうまく回していくうえで、第三者的な視点はとても大事な事だと思う。個の善が集団の善とは限らない。一方で、どれだけ異常気象が起ころうとも、災害と長く付き合ってきた日本人的なメンタリティもあいまって「そもそも天気なんてそんなものだよなぁ」程度の身体的実感しかない自分もいる。

こんな具合なので、気候変動について声高に叫ぶわけでもなく、かといって無視するわけでもなく、取り上げながらも判断保留といった態度でこれまで接してきた。しかし、いい加減自分の歯切れの悪さにうんざりしており、どうしたもんかなと思いあぐねていると、ちょうど知り合いの方から「お寺の住職と一緒に田植えイベントをするので、おかふじくんもどうですか?」とお誘いの声を頂いた。場所は、山口県美祢市豊田前にある西福寺である。


車の多い西福寺

話を聞いてみると、どうやら西福寺では、1ヶ月に数回のペースで田植えをしたり、竹林の手入れをしたりといった、いわゆる里山活動をやっているらしい。「なるほど、気候変動と里山活動はシームレスに繋がっているし、地域の共同体の起点としてもう一度お寺を見直すっていうのは重要な感じがするぞ」などと、偉そうに考えを巡らしながら当日を迎えた。
自宅から車で一時間半。西福寺は、美祢市のなかでも、まさしく中山間地域と呼ばれるような奥深い場所にあった。

途中でナビとして使っているGoogleマップが途切れてしまったりしたが、なんとか集合時間より早く辿り着き、住職に挨拶をすると、早々に「ちょっと準備を手伝ってもらえますか?」と言われ、一緒にテントを張ったり椅子を運んだりした。しばらくすると、お寺の駐車場に車が続々と集まり、その車の多さに「ん?」と思いながらも、合計35人程度が無事に集まり、めでたく田植えイベントは始まった。「さすがお寺だ。地域の人たちのネットワークのハブになっているんだな。うんうん。良いじゃないか…!」といかにもな感じで目の前の出来事を言葉に置換していきながら、みんなと一緒に裸足になって田に入っていく。苗を片手にふくらはぎまで泥の中に浸かりながら、「今日はどこからいらっしゃったんですか?」と聞いてみると、「下関市から」や「萩市から」など市外から来ている人が多い。やはり駐車場の車の多さを考えればそうかと思って、どうせなら地元の人に接触できないかと、泥の付いた足でウロウロしてみる。

ところが、話を聞けば聞くほど市外の人しかいない。さすがにはっきりとした違和感を覚えてきて、しつこく根掘り葉掘り聞いていくと、なんと住職ですら市外から来ていたのだった。なんだこれは。自分の想定していた「地域の共同体のハブとしてのお寺像」がいかにスケールの小さいものであったかを反省しつつ、わざわざ市外から田植えに人が集まるお寺ってなんだか自由そうじゃないか、と心が踊った。


サークルのノリが生み出すネットワーク

昔からの関係者の方に話を聞くと、元々は住職と数人の仲間たちで、「緑豊かな西福寺の周辺で色々やりたいよね」と話がまとまったらしく、そこから住職の知り合いを中心に、自然の中で遊んだり学んだりしたい人、エコビレッジ的に里山活動をやりたい人、地域の人と交流したい人がわらわらと数年かけて集まったそうだ。コロナ禍の前までは、流しそうめん、芋堀り、しいたけの菌打ち体験など、誰でも参加可能な季節を感じるイベントを毎月のように催していたが、最近は感染症対策としてあまり告知をせずに、週イチくらいのペースでひっそりと活動は続いているらしい。

面白いなと思ったのは、良い意味での適当さだった。

まず、どうやら参加者同士が、お互いのことをよく知らない感じなのである。Aさんにインタビューしているときに、「Bさんが〇〇って感じで言ってたんですけど、どう思います?」とAさんに聞くと、「Bさんって誰?」と言われ、「え?いや、あそこにいるAさんが…」と答えると、「へー、あの人そういう名前なんだ。顔と名前がよくわかってない人もいるから」とけろりと言われ驚いた。というのも、参加者にもいろいろいて、高頻度で参加する人もいれば、数ヶ月に一度参加する人もいるように、かなり人によってコミットメントの程度にバラツキがある。もっと言えば、午前中だけ参加して午後は別のキャンプ場に行く人、自分自身というよりも子供に自然と触れ合ってほしいと思っているファミリーなど、そこには職場や肩書きといったものではなく、ただ単純にその場所が好きな人がごちゃっと集まっているのだった。もちろん、住職を始めとする中心人物はいるものの、その他の参加者はかなり適当な感じで、日付と場所と「今日はなにをするのか」といったことぐらいしか認識しておらず、周辺の市から車でフラっと来ている。

ある方は「参加しなきゃいけない日数みたいな義務もないですし、私たちはサークルみたいなノリでやっているんです」とおっしゃってくださった。一般的に、サークルは参加者がお金を出し合いながら成り立っている。今回の田植えイベントも、参加者は2000円を支払っている。そのお金は、昼食代や今日のようなイベントの準備に使われる。なるほどぴったりの表現だと思う。そのような、オープンマインドなんだけどベタベタしてない不思議な適当さがあるからこそ、みんな特に嫌な感じを出さず、かといって過剰にもてなすわけでもなく、新参者のぼくをフラットに受け入れてくださったのだろう。

一方で、近所の住民の方たちとは、作った農作物や窯で焼いたピザのおすそわけといったやり取りがあり、今回の田植えの準備も近所の方が協力してくださるなど、コミュニケーションもバッチリ取れているらしい。そのような地に足がついた適当さやユルさがあるからこそ、周辺の市からやってきた者たちが維持管理している不思議なエリアが生まれたのだと思う。


「二拠点生活」の罠

ローカルメディアは、二拠点生活者を取り上げがちだ。多くの場合、そこで取り上げられる彼ら彼女らは、都市と地方を拠点にし、「都会的な手法を地方に持ち込み、新しくクリエイティブな活動を地方で展開している」といった構図をしばしば語る。しかし、そのロジックの裏側には、地方側の「都市へのコンプレックス」や、都会側の「劣っている場所としての地方」といったまなざしが見え隠れしている。地方創生と言われて久しいが、そういった無意識の劣等感と優越感が、最終的にはどこもかしこも劣化版東京としか言いようのない地方の惨状を生み出してしまったことに、いい加減敏感になった方がいい。

二拠点生活や関係人口といった言葉は、都市から地方への人流をイメージさせる。IターンやUターンといった言葉も、基本的には都市からの移住者を指すことが想定されているきらいがある。
だが、よく考えてみてほしい。物理的な距離を考えれば、都市と地方のコラボレーションだけではなく、むしろ地方とその周辺の地方との交流を増やすことの方が、はるかに重要ではないだろうか。移動コストやコミュニケーションコストは低く抑えられ、より濃密なコラボレーションができるはずだし、そうやって地域同士がネットワークを築き、ある種の連合となった時、始めて新たな可能性が出てくるように思う。比較対象が都会ではなく周辺の地域になることで、比較優位が働きそのエリアは再定義を余儀なくされる。その再定義の繰り返しの中で、活路が見出されたとき、初めて都市の呪縛からそのエリアは解放されるはずだ。

西福寺には、人口規模的に美祢市と大差のない周辺の市から人が集まっている。この周辺の市をまたぐようなネットワークの広がり方に、もっと目を向けなければならない。


「あそこ」「あのへん」の解像度

参加者の会話に聞き耳を立てると、「あそこの裏のところは崩れそうだから補強した方がいいだろうね」とか、「あのへんはもうちょっと手入れした方がいいんじゃないか」といった内容が多いことに気づく。「どうにかしなければ」というある種の逼迫感から生まれてきたものだとは思うが、自然と共に生きるということは、そういうことだよなと強く思う。

映像作品やメディアが好きな人は、うっかりすると「自然=アマゾンの森林や北極」をイメージしてしまう。「環境保護」という言葉を聞けば、自分の生活圏から遠く離れたどこかの森林で行われている開発や伐採に思いを馳せてしまう。けれども、当たり前だがそのへんに生えている雑草とか、街路樹とか住宅街の生垣とか、そういう身近な自然はたくさんある。むしろ、そうした身近な自然を自然として捉えられなくなっている感性こそが諸悪の根源のような気さえする。

西福寺に集まった人たちの会話は、常にピンポイントで“あそこ”とか“あのへん”をどうするかを話していた。彼ら彼女にとっての自然とは、ひどく抽象的な自然ではなく、裏山や田畑といった具体的な現場のことである。つまり、自然の解像度がおそろしく高い。参加者のその解像度の高さに気づいた瞬間、同時に自分の解像度の情けなさが浮き彫りになり、そのギャップにしっかりと恥ずかしさを覚えつつ、冷たい川の水で足の泥を落としていたあの時間は忘れられない。


西福寺から持ち帰れるもの

別に、里山のように人が手を加えながら維持管理していく方法だけではなくて、人の居住区と自然のエリアとをきっぱりとセパレートする方法だってありうるだろう。ただ、およそ口だけで「自然は大切!」と言っている人たちは、そういった方法のバリエーションすら自覚せずに、ただ記号的な漠然とした自然を愛している。結局のところ、そうしたメッセージがどうも空虚に感じられてしまうのは、「じゃあそれって具体的にどこのこと?」という疑問がぬぐえないからだろう。抽象的な自然などどこにもない。あるのは、具体的な葉っぱや幹からなる木、及びそれらを取り巻く生態系の集合体だ。そしてそれらへの介入方法は様々なアプローチがあることを西福寺は教えてくれた。

もはや、気候変動やSDGsへの取り組みは、地球人であれば遵守すべき当たり前のものになってしまいつつある。当然、その制約自体への批判もあって然るべきだろうが、もしそれがグローバルな規範として日常に溶け込んだとき、「自然を守ろう」という声を上げることにはあまり意味がない。フェーズは変わり、「実際にどれだけのコミットメントをしているのか」が評価の対象になる。そこでようやく、本物とまがい物は振り分けられ、グリーンウォッシュな存在は支持を失い、大きな根本的変化が起こるのかもしれない。

だとするならば、僅かでも環境問題に対してなにかしら思うことがある人は、いまのうちに仲間とお金を出し合い実際に山を買ったりしてみたらどうだろうか。田舎の土地はおそろしく安い。そこは仲間たちとの遊び場として利用できるし、自分たちでカスタマイズしていく共同作業の中で親睦も深まるだろう。もしくはそれを企業が行えば、持続可能な社会へのコミットメントとして、はりぼてのようなアピールなんかよりも、対外的なメッセージとしてよっぽど強力だろう。なんならもっと手軽に、ガーデニングや観葉植物のようなことから始めてみてもいいかもしれない。そして実際に触れ合う過程の中で、時に自分たちを癒してくれ、時に乱暴で聞く耳を持ってくれないまるで赤ん坊のような自然の厄介さを、身に染みて感じることができるはずだ。

とにかく、まずは守るべき自然を「あそこ」や「あのへん」といったレベルまで具体的にしていこうじゃないか。肩ひじを張らずに、サークルのノリで。

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